キタダ、詩を読む。…VOL.7 キタダ、詩論を読む。『戦後詩』(寺山修司)
2014年に書いた文章です。
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寺山修司『戦後詩』で、いまいちばんずしっときている箇所。
記号の報酬
(略)記号的な体験の中で怪我をしても、現実の医者では診てくれやしないし、現実の中で落した財布は、記号的な体験の中で拾いかえすことはできないだろう。
だが、記号的体験の中での出来事を現実に持ちかえらせようというトリックなしには、創作の魔術は存在しないのではないだろうか?
(私は冷房のきいた映画館で、勝新太郎が大根でも切るようにバッタバッタと人を斬る「座頭市」シリーズを観たあとの観客のことを考える。
彼らは入ってゆくときには暑さと仕事でくたびれきっているが出て来るときはみな一様に肩をいからせ、薄く目をとじて「人でも斬りかねないような」顔をしているのである。
少なくとも、と私は考える。「少なくとも二、三日は彼らも無気力さを忘れることだろう。」そして、腹が立ったときには見えない刀で二段切りでもしながら、怒るべき現実に立ち向っていくであろう。
――これが記号的体験の報酬というものであり、「もう一つの世界」の効用というものである。)
だが、これはあくまでも「記号的体験を現実に持ち帰る」ことによってのみ有効なのであって逆はないのである。つまり「現実を記号的体験へ持ちこむ」のでは記号の世界そのものが成り立たなくなってしまうのだ。
(略。このあと寺山は「『現実を記号の世界へ持ちこむ』ことによって自分の居場所を見失なって」しまっている例として、北村守「ラワン」の全篇をひいている。しかしながらそのあとで、同じ北村の「最近」の詩である「骨」の全篇を、もう「『ラワンの夢のかげで涙ぐんでいる現実主義者』はいなくて、記号の世界でのきびしい自己凝視がはたされて」いるという賛辞とともに掲げている。私もこの二篇を読み、寺山のきびしい批評に賛同する。)
幻を作る人
記号の中の現実へ入ってゆくのに身分証明はいらない。そこでは私たちはなりたいものに自由に変身できるばかりでなく、欲しいと思うものを手に入れることもできる。
本当の詩人というのは「幻を見る人」ではなくて「幻を作る人」である。私がイメージということばではなく記号ということばを使ったのは、イメージがまだゼリー状の形になる前の心象であるのにくらべて、記号はそれを「とらえた」という証しだからなのだ。
(注:このくだり、じつに刺激的、じつに目から鱗、じつに納得いく批評。「記号はそれを『とらえた』という証し」、うーん、座右の銘にしたいくらいだ。)
詩人にとって記号は必らずしも文字ではない。ことばであったり沈黙であったりすることもある。だが、それはたしかに詩人を経てとらえられ、表現されたものでなければ「もう一つの現実」とは呼べないものである。
(注:本書の冒頭からまもない17ページで寺山は、①詩人の書いたことばを、詩人本人ではなく歌手が歌うことで「情念の主体」が歌手にすり代わってしまう、さらに②歌手が歌った(盗んだ)「『私』の情念」がレコードにプレスされて、持ち主の気分次第で再生される「主人持ちの情念」化している…と告発する。そして「こうして、伝達媒体を通すたびに詩の主体は不明確になってゆく。(略)歌手の肉体を媒体にする詩人の多くは、いつのまにか自分の悩みを歌手によって悩まれてしまうという事態になるのである。」と書いている。)
記号的現実の中にはパラダイスもあれば地獄もある。それは時として、よく外的現実に類似していることもある。だが、人は「自分を現わす」ためばかりではなくて、その中に「自分をかくす」ために詩作することもあるのである。
(寺山修司『戦後詩』=1965年、ちくま文庫版49~59ページより抜粋)
わが師朔太郎は「詩の表現の目的は、単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。(略)詩とは(略)生きて働く心理学である。」と書いた。
畏友中原は「詩人は行為するんだ」と叫んだ。
虚構地獄の中にシャイな自分自身をかくし、『寺山修司』という挑発的な記号を生き、行為した詩人の本質も、そこに重なるか。
画像は1965年にはじめて刊行された『戦後詩』の表紙。
画像の出典↓
「寺山修司の軌跡」http://www.terayamaism.com/?p=900
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