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 済州島雑記1

 今回は外国に身を置くことで、見えてくる、日本を考えてみました。
初めての外国旅行は1984年の中国でした。この旅行で知遇を得た方とは、現在もお付き合いを続けております。この時の話は、別の機会にまとめます。
 さて、済州島は、長崎県の壱岐・対馬を対象としてきた研究の比較対象として、是非、訪問したい場所でした。かつて対馬の西南端の豆酘の西浦公園の海岸で、軽石の集積を発見した時、済州島起源の可能性を知りました。海流で運ばれたものと思いますが、済州島と対馬には、海の道があるのですね。
 幸いにも、2016年に勤務先の同僚と訪問の機会を得ることができました。
 9月5日、成田空港第1ターミナル4Fに集合し、大韓航空(KE718便)で済州島に向かいました。3時間(9時45分〜12時45分)の空の旅、初めての韓国、済州島では人々の素朴さとか、仲秋の名月を愛でる風習とか、スーパーで見た食材に親しみを感じる近い国でした。 一方、日本と同じような気候環境にありながら、火山地質によって平地の川の水は潜流として地下に浸透してしまい、川は洪水時の放水路の機能を持つことに驚きました。 
それでは、成田から具体的な画像を示しながら振り返りましょう。

1 成田空港上空と九十九里平野

 成田空港へは、九十九里浜が始発のシャトルバスがあり、空港設置に関わる地域に対する優遇措置なのか、大変お安く便利です。また、県道62号(通称はにわ道)は、太平洋上から空港を目指す際の有視界飛行に資する一直線の道路です。夜間の街路灯の列は誘導路のように見えると思います。この一直線の道には、帰りも大変、お世話になりました。

左:左情報に成田空港、右下が太平洋。芝山町を抜けてゆく「はにわ道」には、古代の渡来人を思わせる埴輪が設置されています。右:台地縁辺の斜面に樹林が残り、低地との境界になっています。

 急上昇の窓外、傾斜する視界には北総台地が緑で区切られ、台地上の畑やゴルフ場と平地の水田地帯が見えてきます。高度が上がり、水平飛行になると洋上に出て西に進路をとります。ここは?九十九里平野を東西に流れる川の中から、地図と比較すると南白亀川とわかりました。

波乗り道路の合流や川の流路の分岐から、南白亀川(なばきがわ)上空であることがわかりました。
九州から離れ、洋上に出ると雲が目印となった島々が見えたように思います。五島列島だったのかな。

2 済州島の地質と水事情

 済州島は、ハルラ山を最高峰(1950m)とする、火山島です。島のあちこちから、遠方のハルラ山が地平の先に見えますが、島は平坦な傾斜の緩い台地が続いています。ハルラ山を東西に横断する境界の北側(済州市)と南側(西帰浦市)とでは、南側が、観光の中心になっています。残念ながら、南西部までは行けませんでした。

済州市中心部から南部へ、
緩やかな起伏の中、常緑樹の街路樹(シラカシ、クスノキ、クロガネモチなど常緑樹)
クロマツの街路樹

 到着後、直ちに済州島民俗自然史博物館に向かい、展示の資料から
済州島は120万年前に、基盤となる花崗岩類が海面上に吹き出した。
以来、5段階の噴火による溶岩と火山灰の堆積によってできた火山島である」と、知りました。
 基盤となった花崗岩類は、済州島南西部の竜頭海岸で見られるそうです。
『在済州日本国総領事館』のHP(https://www.jeju.kr.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_00435.html)には、井関至康前総領事による豊富な写真とわかりやすい「済州と日本のちょっといい話」は、大変参考になりました。
 120万年前
は、ホモ・エレクトゥスの出現期です。人類の進化した時代、20万年前から2万5千年前にかけて「ハルラ山の山頂を中心に火山活動が続き、水中で城山日出峰が噴火して海面に現れ、同時に360個の一世代火山が形成され、最終的にハルラ山の頂上にある白魯潭カルデラが形成されました」(済州島民俗自然史博物館展示資料)。ハルラ山を主とする、済州島の原型は20万年前にできました。
 たくさんの側火山(オルム)からの噴火があり、平坦な溶岩台地の島が形成され、火山灰を主成分とした有機物が集積したクロボク土が草地になり、耕作地や牧野の基盤ができたようです。「噴火は11世紀初頭(1002年、1007〜8年)まで続いた記録がある」(早川由紀夫 他2014)。

 気候は日本各地の温暖な地域と同様豊富な降水量があります。ところが、降水後に関しては、まるで異なり、水田が作れません。火山島の済州島は、雨が降っても利用できる水が不足する土地なのです。島の南部海岸では、基盤にある西帰浦層が不透水層であるため、その直上から地下水が瀑布になっています。下図の西帰浦層が海岸で露出する部分が瀑布になっていることがわかりました。

済州島民俗自然史博物館展示資料より
海岸の玄武岩と白砂(「白砂に関して南部は台風によって運ばれたものであるが、内陸地まで及ばない」「北部は、長期にわたって潮の満ち引きにより、内陸まで及ぶ」高 光敏氏からの聞き取り)

 地下水、湧水の利用のほか、雨水を貯める工夫がありました。

常緑樹の葉群が集めた雨水を水瓶に導きます。豚の尻尾のリボンのように編まれています。
城邑民俗村にて、
溜まると別の水瓶と取り替えます。

3 済州島の風事情

 三多島(石・風・女)とも言われる、済州島の風事情について、引用します。

無限の風力資源を有する島 – 風の島済州は昔から風の島として知られています。一年中風の吹く日が多いだけでなく、強風も多い地域です。島の最も重要な風は冬にシベリアからやって来る北西の季節風です。島の南部(西帰浦市)の年平均風速は3.1m/s、東部(城山浦)は3.1m/sと比較的に穏やかですが、北部(済州市)は3.8m/s、西部(高山)は6.9m/sと、北部と西部では風の強さが比較的に強いです。

https://www.investkorea.org/jj-jp/cntnts/i-2156/web.do
済州市北側海岸、強風の影響下植栽された樹木が、南に傾いています。

 暴風に対して防風林と石垣を築いた「契」(日本での「結」か)が、成立していました。さまざまな脅威に立ち向かう共同体の絆を示す言葉です。一方、困難な環境を改善するために、1970年代(提唱されたセマウル運動)に、「済州島にも貯水池の増設」が実施されたが、「水田の拡大計画は失敗した」(高光敏氏からの聞き取り)そうです。また、「済州島は、旱魃に強い雑穀(アワ・キビ・大麦・ソバ)を主とする農業に未来がある」と言われていました。本来の自然環境に沿った改善でなければ、永続性は保てないのでしょう。

建設中の風力発電風車

 再生可能エネルギーとしての風力発電、標高地図の中に、風車が図示されていました。地域別に見てみると、南部では少なく、東部では内陸地に多く、西部は海岸地に多い傾向がありました。自然環境の差異に合わせた人為が進むのですね。

北東部だけで30基近くありました。https://ja-jp.topographic-map.com/map-r2grcz/済州島/?center=33.52895%2C126.76103&zoom=13&base=2
上段:東部、下段:西部 https://ja-jp.topographic-map.com/map-r2grcz/済州島/?center=33.52895%2C126.76103&zoom=13&base=2

 北西風の影響を受けた火山灰は、東部に厚く堆積し、西部では薄く土地利用にも影響しているようです。金崎一夫(1989)「済州島の自然と産業」によれば、1985年の統計資料が引用されており、原野(59.3%)が最大で、耕地(28.5%)、牧場(3.0 %)と続いています。水田はわずか0.5%です。かつての牧草畑(カワラケツメイ・メガルカヤ・メヒシバ、茅)は、現在、ミカン果樹園かゴルフ場になっている(平野部の西南部と東南部)。

南西部に集まっています。強風域を避けているようにも見えます。

4 海産物の豊かさ

 済州市のスーパーに並んだ魚介類は、韓国南部から運ばれたかも知れませんが、とても新鮮で、済州島の近海で獲れたものだと思います。韓国の人にとって、人気の魚、サバ、イシモチ、スケトウダラ、タチウオなどが並んでいました。

左:タチウオ、右:サバ(済州生サバの表記あり)

 刺身として、エビ、イカ、タコがあり、ウニが中央に盛られていたようです。

左:タコ、右:刺身セット

 海岸のモニュメントには、昔の魚を集める様子が偲ばれます。多分、小魚漁でイワシも入っていたのではないかな。

いわし漁かな
イワシ(煮干し)も売られていました。
アワビ:高光敏氏のお話では、アワビは一般人は食べていなかったし、
牡蠣は済州島にはなかったそうです。

 おそらく、済州島の海産物の豊さは、陸上とは反対に溶岩台地から、鉄分、カルシウムなどミネラルの供給を受けるために、海藻が繁茂して魚類への食物連鎖を支えているのではないか?それにしても安い?アワビが100g、500円程度です。

スケトウダラの干物、口先に紙幣が挟まれていた。食堂の天井に飾られていました。

5 おまけ、成田到着後のあたふた

 帰国後に済州島には、神社がないことに気づきました(何を今更!)。安心を願う信仰は、石人像(トルハルバン)や集落の神が降臨するという巨木のケヤキ(エノキの可能性もあり)が対象になっていましたが、建造物はないようでした。
 わずか2泊3日の表面的な観察ですが、木材の不足が背景ではないか、と感じています。また、土まんじゅうのお墓には墓石がありません。やはり、溶岩には文字が刻みにくいなど、石材の不足が背景かと思います。

左上:石人像(男女一対)、右:ケヤキの巨木(天然記念物)城邑民俗村
左下:墓地(済州市)

 さて、帰りの便で食事ができなかったことを除いて順調だったのですが、成田の到着口に出るまでに時間がかかり、シャトルバスの最終便に間に合わなかった! 出てゆくバスを見送りながら、「そうだ、タクシーで追い抜いて、途中、バスに乗り換えれるのではないか?」
タクシーの運転手さんに事情を話し、一直線の道路を後方から追いかけてもらった。ところが、前方にバスが発見できない!「そうだ、バスは途中、はにわ道から外れた停車場があったのだ!きっと、バスを追い越してしまったに違いない!」
 運転手さんは「こんな経験は初めてだ」と言いながら、はにわ道の後方から近づいてきたバスを見て、その先のバス停まで私を見送ってくれました。ありがとう。

 今回は、雑記として、まとめました。最後までお読みいただきありがとうございました。


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