九十九里から、 飯岡と壱岐とロンドン
九十九里町から銚子まで、県道30号線は飯岡漁港手前で急に西側に曲がり、国道126号と合流します。直進を妨げるように刑部岬(ぎょうぶ岬)があって、下総丘陵の東の断崖と岩石海岸の玄関口になっています。
表紙は、昭和3年発行の小学生全集27「伊能忠敬」の挿絵です。
地元贔屓の眼で見ると、左手、遠方の銚子から続く屏風ヶ浦、忠敬が立つ刑部岬、右手、遠方には湾曲した海岸線の先にある太東崎が描かれているようです。忠敬は生まれ故郷の九十九里浜を振り返りつつ地図を構想しているようです。
犬吠埼から太東岬まで、手元の写真をつないでみました。伊能忠敬は幼名、三治郎といい、11歳まで九十九里町で過ごしました。九十九里浜中央部の片貝海岸は、真一文字の水平線と湾曲した海岸線が見える場所です。ここで育った彼だからこそ、陸地の輪郭をイメージできたのだと思います。
忠敬生家跡に設置された記念碑には、「海岸に重点を置いた優れた測量技術へのエネルギー」は、「11歳までこの地で磯の香に親しんで過ごした少年時代を過ごした原体験」と刻まれており、海岸に近い場所で生活した将来につながった原体験を言い当てています。東洋のドーバーと呼ばれたこともある屏風ヶ浦、白亜のドーバーの雰囲気が、刑部岬に出てますね。
1 飯岡石
さて、砂浜が途切れた刑部岬には、不思議な石が海岸に堆積していました。
丸い石が、川の作用ではなく海の波によって作られ、海岸に打ち寄せられる。しかも、内部は生物起源の物質を含んでいる。
いくつか飯岡石を見ると、板状の角が取れてやや円盤状もしくは方形になっており、丸く転がるような塊ではありません。もともと板状のものが、分割され研磨されたもののようです。飯岡石は、新生代第四紀更新世(約260万年前〜約1.2万年前)に堆積したもの(千葉中央博)でした。この比較的短い年代幅の中で、地層そのものが炭酸塩コンクリエーションされていたことになりますね。
また、礎石として利用されたように、簡単には風化しないようです。
一方、茨城県五浦海岸には、大型のノジュールが集積しており、茨城県北ジオパーク構想のHPには、さまざまな形状のものが示されています。
多様な形状と共に、ノジュールの成立年代について茨城県五浦海岸では、1,670万年前の海底とあり、炭酸塩コンクリエーションの成立に要する年代にも幅がありそうです。
2 飯岡石と壱岐の化石
茨城県の五浦海岸の例で示された、この年代、新生代第三紀(Miocene)は、かつて長崎県壱岐市で採取した化石と同じ年代であること思い出しました。
「壱岐島の科学(9),(11)」(林徳衛さんの論文、1972、1974がありました)の論文によると、
長崎県壱岐市長者原の珪藻土層は、中新世前期(2500万年前〜2000万年前)のものであり、平行ラミナがよく発達している点が特徴的とのことです。
写真の化石も層理が明瞭です。ただし、石の形状は塊状で、ラミナを含む地層が断片化してから、珪酸質に覆われたものです。
なお、内部にラミナが見られないものは、湖底堆積物に混入した偽礫などの可能性がありそうです。
割れてしまったために、葉の化石の同定は極めて困難ですが、、、、困難でした。
湖底堆積物の一部としてノジュール(石灰質団塊)が形成されたことになりますが、はるか中新世に形成されたものが、わずか数ヶ月、野外で水に浸しただけで、壊れた原因について、以下の記事が目に止まりました。
上記、ブログには、数週間でコンクリーションが生じる自然界の例とともに、人工的にコンクリーション化剤の開発が紹介されており、固化に要する時間は短くて済む場合があること知りました。
よくわからないのですが、飯岡石はコンクリーション、壱岐の化石は、コンクリート状態なのでしょうか?
壱岐の化石に似た、ロンドンで拾った岩石(フリント)が手元にありました。似ていますが、これはコンクリーションです。
3 ロンドンのフリント
表面が乳白色の岩石は、昔、ロンドンの郊外に住んでいた家の庭に普通に転がっていました。これは、フリントと呼ばれていました。
英国人なら、どこにでも転がっていそうなフリント、燧石(ひうちいし)の訳は知っていたのですが、鉄と叩いても火花は出ませんでした。
4 コンクリーション
この研究内容は凄すぎて、吉田英一研究室 HP(https://www.num.nagoya-u.ac.jp/dora_yoshida/research.html?id=01)を直接ご覧ください。
自然界から学ぶことは、尽きないようです。よくわからないことは、口にするな!とも言われたことがあります。ものを知らない!その通りです。
今回も最後まで、ご覧いただきありがとうございました。(2024、6.6)