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体操のおにいさんに命を救われた話
NHK教育番組で放送している「おかあさんといっしょ」が65周年という節目を迎えた。
こども、中でも特に未就学児を対象とした番組だったように記憶している。
65年ということは、当時視聴者だったこどもが5歳だったら還暦を、0歳だったら仕事を退職し年金をもらい始めるほどの年月だ。
そう考えると、なんとも凄い番組なのだと、リアルタイム視聴の記憶がない(当たり前のことではあるが)私でも、なるほどなと納得できる。
さて、タイトルにした本題に移ろう。
私は1989年生まれで、下に弟、さらに下に年の近いいとこが続いているため、人より長く「おかあさんといっしょ」を見ていた。年代としてはちょうど「ひろみちおにいさん」が体操のお兄さんをしていた時代だ。
もちろん体操のお兄さんをしていたひろみちおにいさんの記憶はとんとない。
むしろ中学生・高校生くらいになってバラエティー番組に出ているひろみちお兄さんを見て、母が「ほら、あんたの大好きだったひろみちお兄さん出てるわよ!」と言ってくるのに「知らねーww」と返していたほどだ。その頃の「もう引退したおにいさん」としてしか、私はひろみちおにいさんを知らなかった。
そんなひろみちおにいさんが引退した後、体操のお兄さんを引き継いだのは「よしおにいさん」ことよしひさお兄さんだ。
私が命を救われたのは、この「よしおにいさん」だ。もちろん、直接の面識などない。子供心に一目ぼれしてお手紙を書いたとか、そんな淡く儚い恋の物語というわけでもない。
話は2011年3月11日までさかのぼる。そう、東日本大震災のあの日だ。
私はその日、大学の春休みだったこともあり部活の大会で北海道にいた。
14時46分。
体育館競技だったこともあって、まったく揺れていることに気付かなかった。大勢が飛んだり跳ねたりしていたから。体育館ではひっきりなしに大きな音が鳴っていたから。
しかし、その中でスマホを持った誰かが
「地震あったって!」
と叫んだ。
最初はみんな北海道が震源だなんて珍しいなと思った。みんな各々にスマホを覗き始める。そこからはパニック映画のようだった。
「宮城だって!」
「大丈夫!?帰れる!?」
そんな声が聞こえたような気がした。けれどあまり覚えていない。
当日の話はこれ以上書くと長くなってしまうので、別に記事を書こうと思う。
ここで言いたいことは、私は宮城出身で大学も宮城だ。そして今いるのは北海道で、つまり宮城から北海道へ飛んでいる。そう、飛んでいるのだ。
あの日、仙台空港が津波によって水没したことで、私たちは文字通り陸の孤島に取り残されたのである。
宿泊していたホテルで無料で連泊させてはもらえたが、とはいえ北海道は震度こそ大きかったものの「大惨事」ではない。ホテルだってビジネスだ。数名ならまだしも、大学のサークル大人数相手にいつまでも無料でというわけにはいかなかっただろう。
私たちもいつまでもここにはいられないということはわかっていた。
大学には北海道出身の子、東北以外の県外出身の子もいた。そういう子たちは、落ち着いてからまとめて飛行機で地元へ帰って行ったりもした。
しかし、東北に、宮城に、福島に、岩手に実家がある子たちはそうもいかなかった。とどまるということしか出来ない。
私たちは色々なところに事情を説明し、ご厚意でマンスリーマンションに2週間、滞在させていただくことが出来た。
寝床もある、水も電気もある。ガスだって通っている。
ただ、被災地の情報だけがわからなかった。
ニュースで流れてくるのは、悲惨な津波で壊滅した地元の映像ばかり。今、どこで、何が起きていて、私たちはいつ帰れるのか。それがわからない。同じ映像が、どのチャンネルにかえても飛び込んでくる。
この頃スマホはあったが、SNSといえばmixiが最大手という時代だ。Twitterをやっている人間はごく少数。他はアメブロだったりが多く、「今」を知りたい情報が入ってこない。
だんだんと私たちは滅入ってきた。
なにが私たちをしんどくさせていたか。ルームメイトに、ちょうど海沿いの一番津波の被害が大きかった地域出身の子がいたのだ。家族との連絡は一瞬取れたものの、その後は取れないと言っていた。あちらは電気も通っていないだろう。仕方のないことだ。
ただ、テレビから流れてくるのは繰り返し繰り返し、壊れる瞬間の海沿いの映像ばかり。津波に飲まれる瞬間、立ち上る炎、原発が壊れたこと。そればかりだ。他に流れてくるCMといえばAGのぽぽぽぽーんだ。
まさに、お通夜だった。私たちは家族もみんな元気なことはわかっていた。けれど知らない土地でテレビから流れてくるのは凄惨な映像ばかり、流れてくるCMはAGばかり。気が滅入らないほうがおかしい。
次第にテレビを見るのも嫌になっていったが他にすることもない。
当時学生で、知らない土地でこちらだけは楽しもう!と遊びに行こうにも、そこまで多く遊びに行けるお金がない。遊びに行ったとしても「地元のみんなはあんなに辛いのに!」と泣いていたかもしれない。
結局はテレビを見ることしか出来ないでいた。けれど、どのチャンネルを見ても流れてくるのは、進展のない同じ映像ばかり。
そんなある日、ふとつけたのがNHK教育番組「おかあさんといっしょ」だった。たまたま体操のお兄さんがこどもたちと体操をしているところだった。
体操のお兄さんは「よしおにいさん」という優しそうな顔をしたおにいさんだった。そのよしおにいさんは、私の記憶の片隅にあったひろみちおにいさんとは違って、変顔がすごい。
とにかくすごいのだ。
よくそんなに表情筋が動くなというくらい、色々な表情を見せてくれる。「ぱわわぷたいそう」という体操で、自分の顔を両前腕で隠して、いないないばあのように腕を左にずらしたら顔を反対側に動かす、今度は腕を右にずらして顔を左に、という動きをする。その時に、NHKでそんな顔をしていいの?と思うくらい、コミカルに次々とよしおにいさんの表情は変わっていく。
3月11日以降、重苦しく、本当にお通夜のような雰囲気だった中、心の底から笑ったのはその日が初めてだったように記憶している。
それからはその表情に、私たちは何度も救われた。他にユーモアを届けてくれる番組が当時はなかったこともあって、私たちはすがる思いで「おかあさんといっしょ」を見ていた。
それから毎日のように、「おかあさんといっしょ」の時間になるとNHK教育番組を見ていた。もちろん目当てはよしおにいさんのぱわわぷたいそうだ。当時どのこどもたちより、その番組を楽しみにしていたと自負している。「おかあさんといっしょ」は1日2回放送されるが、どちらも見ていたような気がするし、再放送も何度も見ていたように記憶している。
そして本当は1か月以上滞在するだろうと予想してマンスリーマンションを借りていたのだが、結局は2週間で済み、私たちは北海道から東京へ飛び、そこから夜行バスで仙台へ帰るということになった。
しかし、それもこれもすべて、おかあさんといっしょでよしおにいさんのあのあふれんばかりの顔芸を見せていただいていなければ、なしえなかったことじゃないかと思っている。少なくとも私はそう感じている。そうじゃなければ、どこかでぽっきり心が折れて、今ここにいなかったかもしれない。
それからも私は定期的によしおにいさんのぱわわぷたいそうを求めて、何度か「おかあさんといっしょ」を見ていた。途中で「ぱわわぷたいそう」は「ブンバ・ボーン」へと変わったが、相変わらずよしおにいさんの変顔は健在だった。「アルパカパカパカ、ちょっとオカピ」という絶妙な動きとフレーズは、今思い出してもクスリと面白い。
社会人になって落ち込んだ時も、その変顔にこっそり励まされていた。私の中でよしおにいさんは身近なパワースポットのようなものだったんだなと、今振り返って思う。
あのただ辛かっただけの数週間を、ユーモアで包んでくれた命の恩人はまぎれもなくよしおにいさんだ。
今はもうよしおにいさんの体操を、テレビで見ることはない。よしおにいさんも体操のお兄さんを引退されて、今はまた新たな体操のお兄さんがこどもたちと体操をしている。
もしかしたら、私のような経験をするこどもは多くはないのかもしれない。しかし地震大国日本において、その可能性はゼロではない。これから先も「おかあさんといっしょ」には末永く、当時の私のような大人とこどものはざまのようなこどもでも、心の底から笑えるような番組であり続けてほしいと、勝手に願っている。