アリストテレス
“不幸は、本当の友人でない者を明らかにする”
今日は運が悪い日なのか?
ダ・ヴィンチに引き続きアリストテレスを
引いてしまった。
私は誰の話を書くかを決めて書く事と、
適当な三桁の数字を選んで、それと
合致する人の言葉を書く事もある。
ダ・ヴィンチに関しては、
そろそろ書こうと決めて書いたが、
アリストテレスまで来るとは‥‥
時間が惜しいので書き始めるとする。
一応簡単にアリストテレスを説明する。
ガチで簡単に説明します。
紀元前384から前322のギリシャの哲学者である。
つまりは二千四百年近く昔の人だという事に
なる。
ソクラテスや師であったプラトンように、
ギリシャを代表する非常に有名なひとりの
人間である。
古代ギリシャではソクラテスの弟子にプラトン
がいて、プラトンの弟子がアリストテレスという
訳で、西洋の哲学の祖と言っても過言では無い。
まずこのアリストテレスの言葉については、
以前調べた事があった。
この言葉の意味は現在でも同じである。
私の打ち立てた、
「文明は進化するが、人間は進化しない」
という理論を上げるに当たり、色々調べた。
昔から現在、現在から昔へと
色々な分野に囚われず調べ尽くした。
この言葉を難しく考える人は多いはずだ。
私も最初は短い文章であったことから、
深く考えすぎた。
しかし、この言葉が該当する事は今の世でも
多数ある。
まず、この言葉は短いが真実を言っている。
単純な話、お金持ちが貧困になれば、
人が離れていくことも、これに該当する。
“不幸は、本当の友人でない者を明らかにする”
不幸や苦悩している時こそ助けてくれる人が、
真の友人であると彼は言っている。
私も実際そうだと思う。
都合の良い時だけ寄って来る人間は多い。
よく金持ちが人間不信になり、酷い最期を
遂げる事も少なくない。
まあ、気持ちは理解できる。
人間はお金と愛には弱い生き物だからだ。
あらゆる観点から見ても、この言葉は真実だ。
ソクラテスには何度か触れてきたが、
アリストテレスやプラトンも同様に、
多くの真の意味のある言葉を残している。
大昔の言葉であり、今でもそれが
変わらないと言う事は、現代に生きる私に
とっては、非常に情けなく、
そして悲しいものである。
かれらが多くの言葉を残してくれた事を、
活かしていないからだ。
活かせてないのか? それとも、
活かしていないのか? は分からないが、
どちらの答えでも、活きてはいない事は
確かなことだ。
私が人生の幕を閉じようとした時、
私は全ての知り合いや、
友人との縁を自ら断った。
それは私が死んでも
悲しみを減らすための行動だった。
自分から相手を拒絶し、
自分という人間を嫌ってもらえれば、
悲しませない為の最後の配慮だった。
これを告白するのは初めてだ。
自分を想ってくれる男女問わずに
距離を置いて行き、
自分からは一切連絡しないようにした。
しかし、運命のように無い事が起きて
私は死ななかった。
1月1日に死ぬと決めてからは、日々を
普通に暮らせていた。
しがらみも無い、実に平和な世界だった。
あと5分あれば死ねていた。
しかし、普段は私が返事をしないと
入ってこないはずの幼馴染が入ってきた。
その時は既に深い眠りにつき、意識も
灯火のように、あと一吹きで消えるほど
までの状態だった。
これまでも絶対に死ぬと思われながらも
生き残って来ていた。
中学生の頃、大型の台風が近づいている
事を私は知らず、年上の幼馴染は知って
いたが、ボートを出して海にある小島に
向かっていく途中に、漁師が仕掛けた
金網に入っているエビやカニを盗んで、
小島で焼いて食べるつもりでいた。
しかし、波は時間と共に激しさを増して
いき、最後の漁船が船に乗るよう声を
かけてきたが、若さ故の無謀から、
それを断った。
水かさはどんどん増していき、
波の高さも高々となり始めて、
ボートは牡蠣の殻で裂けて、
終には島ごと飲み込まれていった。
その前に一番近くを目指して泳ぐ
事になったが、そこの海流の流れは
普段でも激しい流れを生む場所だった。
あとで聞いた話だが、そこはサメが生息
する一帯でもあったらしい。
私と幼馴染は既に牡蠣の殻で足は血まみれ
になっていた。
激流だったからサメも来なかったので
あろうと言われたが、一噛みでもされたら、
その傷口から血が吹き出し、サメの集団の
餌食になっていたが、そうならずにすんだ。
島から一番近い海岸道路までは約1キロ程で
あったが、海流の激しさから何倍にも感じた。
少しでも力を抜くと、一気に海流の波に
押し流され、間違いなく死んでいた。
荒波に慣れた漁師でさえ、船を出せない
ほどだった。半分くらいまで行くと、まず
片足が│攣《つ》ったが、痛みよりも流され
たら確実に戻れないので、そのままの状態で
泳ぎ続けた。
少ししてもう片方の足が攣ったが、それでも
泳ぎ続けた。
対岸には大勢の人が集まって私たちの背後から
見ていたようだった。後で話したら、二人とも
死ぬと思っていたと言われた。
岸までたどり着いたが、今度は牡蠣だらけの
石段を登る時、足だけでなく、体が接する所の
全てに殻が傷口を作り、道路に上がった頃には
全身血まみれになっていた。
牡蠣の殻は厄介で、薄い層のようになっていて
皮膚に食い込んだまま割れるので、肉にまで
食い込んだ殻を指で抜き取っていった。
幼馴染とは言え、それほど確信に迫るような
話は一切してこなかった為、全く理解できて
いない様子だった。
話したところで無駄だと分かっていたが、
現実を話したら、大声で大笑いしながら
私が狂ったと思い込んでいた。
年齢は上だが、人生経験は浅いものだと
感じた。彼は最終的にはその事が現実だと
知ったが、それでも父母の味方だった。
現実であるにも関わらず、現実逃避していた。
そこから私はいつも言っている事だが、
まるで地獄に落ちたかのような恐ろしさが
私を襲い、寝ても地獄、起きても地獄で、
体験せずして理解する事は不可能だと気づいた。
本当にその気持ちは理解できない事を悟った。
それまでに死んでいった兄弟や、親友でも
あった同級生が狂った世界を私も知る
事になって初めて知った。
この問題は非常に厄介なものだった。
並みの人では自殺する。
私も実際に二度自殺を図った。
止められて死ねなかったが、死んだほうが楽だった。
実際に死のうとするには、相当のエネルギーが
必要となる。安易に答えを出してもいないし、
出来ることなら生きたいが、生きれない状態になった。
この問題の一番の問題点は、実際に体験しないと、
子供にさえ自殺の道を選ばせる体験をしていなければ、
理解することは不可能な点だった。
仮に大人になったとしても、同じ体験をすれば自分が
間違いなく壊れていく。壊れた人はその恐ろしさを知って
いるため、自殺を止めようとしても止められない。
つまりはこの問題は自分でしか解決できない事にある。
小学生が自殺するほどまで追い込む親に問題がある。
しかし、誰も助けてくれない。
誰しも権力には弱く、警察も民事である以上口出し
できない。子供が何故、自殺をしたのかは闇の中に
消えていき、執念のような首吊り自殺をしたのに、
ただの自殺として処理された。
だからきっちり一年後に弟は兄と同じように、
死んで見せた。これは子供でありながら、命を捨て
ないと、その苦痛を理解してもらえないからだ。
弟も自殺で処理されたが、どこも似たような真似を
しているが、バレないだけである。
私は何とか這い上がったが、折り合いをつけるのが
難しかった。そこで、自分に誓いを立てる事にした。
まず最初に嘘をつかないと定めて、約束を守るという
誓いも立てた。これは二重に重ねる事によって、より
強い心を持たないといけなかった事から、そのように
した。自分に負けないという事はそれ以前からして
いたので、それも加える事により、絶対的な約束へと
変わった。
そうする事により、まずは自分を確立させて、
行動に移すことにした。
“不幸は、本当の友人でない者を明らかにする”
この言葉通り、父親が癌で死に、愚かな母親は父の死を
隠したまま、財産的価値のあるものを全て持って逃げた。
だから私は断言する。
体験をし、それを経験へと繋げる事によって、
初めて相手の気持ちが理解できる。
よく死に対して勘違いしている人はいるが、
誰もが死にたくはないのだ。
しかし、選択肢が無い場合が大抵であって、
私たちの世界に於いては、死ぬ事は特別なものでは無い。
そのような体験をせずして、死を生へと変えようと
するには、本人たちにとっては凄まじいエネルギーを
必要とする。
一般的な言葉で説得など出来る訳の無い世界だ。
しかし、同じ体験をすれば、間違いなく壊れるか、
自殺するはずだ。
私は友人の間では絶対に精神は崩壊しないとまで
言われていたが、現実は崩壊した。
それほどまでの苦痛を味わったら、とてもじゃないが
助けることなど出来ない。
アリストテレスの言葉は実に的確だ。
“不幸は、本当の友人でない者を明らかにする”
言葉の通り、不幸つまりは裕福でなくなったり、
世間的にマズい事態になった場合、取り巻き連中は
すぐさま消えていくだろう。
その時になって初めて、信頼できる人が分かる。
しかし、そういった人生を送っている人には、
大抵の場合、利害関係でしか付き合いは成立しない。
悲しいことではあるが、それが事実だ。
自らベールを脱いだ時、人格者であれば人は残る。
しかし、利害だけの付き合いの人は全員いなくなる
だろう。