ダンテ・アリギエーリ
”絶望の中で幸せを思い出すのは最も悲しい”
この言葉は実に悲しい人生を送った事が含まれている。
彼は今でこそ有名であるが、生前は当然、
死後以後も長い間その名を汚されてきた。
ダンテは1265年に生まれ1321年死去した。
56歳でこの世を去ったが、
多くの哲学者の中でも彼ほど長い間軽蔑され
侮辱を受けた人は少ないだろう。
イタリアでの統一運動とナショナリズム
(簡単にいうと独立運動)
によってようやく彼は注目された。
1865年までの間、彼の名声は無に等しかった。
ダンテは1274年5月1日に催された春の祭り
カレンディマッジョの中で、ダンテは同い年の
少女ベアトリーチェ・ポルティナーリと
運命的な出会いを受けた。
後にダンテは彼女との出会いの際に感じた気持ちを
語っていた。
魂を奪われるかのような感動を覚えたと表現した。
この時、ダンテは9歳であった。
それから9年の時を経て、共に18歳になった
ダンテとベアトリーチェは、
サンタ・トリニタ橋のたもとで再会した。
しかし、その時ベアトリーチェは会釈して
すれ違ったのみで、一言の会話も交さなかった。
以来ダンテはベアトリーチェに熱病に冒されたように
恋焦がれた。
しかし、この恋心を他人に悟られないように、
別の二人の女性に宛てて「とりとめのない詩数篇」を作る。
その結果、ダンテの周囲には色々な風説が流れ、
気持ちを害したベアトリーチェは、
挨拶すら拒むようになった。
こうしてダンテは、深い失望の時を過ごす事となった。
1285年、ダンテが二十歳頃、許婚のジェンマ・ドナーティと
結婚したが、彼がベアトリーチェを想う心は変わらなかった。
二人の間にさしたる交流もないまま、
ベアトリーチェは銀行家に嫁ぎ、
数人の子供をもうけて、
1290年に24歳という若さで病死した。
彼女の死を知ったダンテは狂乱状態に陥り、
キケロ(政治家、弁護士、哲学者)や
ボエティウス(哲学者、政治家、修辞学者)
などの古典を読み耽って、心の痛手を癒そうとした。
そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に、
永遠の存在として賛美していくことを誓い、
生前の彼女のことをうたった詩をまとめて
『新生』を著した。
その後、生涯をかけて地獄篇、煉獄篇、天国篇を
まとめた『神曲』の三篇を執筆し、
この中でベアトリーチェを天国に坐して
主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描いた。
この後は、政治的や宗教的な争いが続いた。
彼はその時の様子を『神曲』地獄篇第22歌の中に
生かされており、
凄まじい戦闘の光景が地獄の鬼と重ねられている。
時代背景や宗教など、我々には想像できない世界で
これほど悲しい言葉が出たのは、辛かったとしか
言いようがないほどだ。
その彼の言葉だけに重みがある。
彼は詩人でもあり政治家でもあったため
哲学者としての評価だけでなく、他の仕事の関係も
あったかは定かではないが
今ではイタリア国民の最大の精神的代表者として
その名を残している。
彼の功績は愛から生まれたが、愛によって自身の心を
蝕んだとも言える。
長い長い時を経て、時代背景が変わって、彼の遺作が
読まれる事になった事は、彼が秘密としていた
ベアトリーチェへの愛は本物であり、世界の人々の目に
触れて、評価された事は天国から絶景の景色として
見れた事だろう。
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