生の喜びを感じた瞬間
私は生と死を本気で悩んだ人間の一人だった。
生と死の意味を本当に知っている人は、
「死」を選ぶと仮によく知る知人等が
言った時、私なら一呼吸おいてから、
「死ぬ前にお前の最後に何があったか
俺に話してくれ。止める気は無い」
恐らくそう言うはずだ。
私もそうだったが、
死を安易に選ぶ人等いる訳が無い。
しかし、時には「死」しか道が無い場合も
世界には存在する。
誰にも知られる事無く、子供の頃から虐待を受けて、
学校でも虐められて、塾と習い事の日々を繰り返し、
夏休みの30日間は離島のホテルに缶詰めにされて、
朝御飯を食べる前の早朝から勉強をして、
朝御飯を食べた後にも勉強をして、
昼御飯を食べた後にも勉強をして、
昼休憩を少し挟んでから夜御飯まで勉強をして、
晩御飯を食べたあとも勉強をして、
家に帰れば、一度も行っていないラジオ体操に
ハンコが押されていて、
塾や家庭教師に体罰を容認されていて、
塾や家庭教師からも暴力を振るわれ、
家庭教師に大金を払って大学生が
科学研究をした約200ページの科学研究を丸写しにして、
学校に提出していた。
小学生が大学生の科学研究を書き写したのであれば、
バレない訳が無い。
学校も黙殺していたという事になる。
書いても書いてもキリがない世界で生きるのは‥‥‥
いや、まともな精神を持ったまま生き残るのは
非常に厳しい世界だ。
私の盲点は、私の一族の権力の強さだった。
基本的に旧家からの金持ちの家では、
お金の話をする事は滅多に無い。
有り余るものに対して、人は興味すら抱かない。
何事に於いてもそうである。
普段は使っている水も、
豪雨により道路が遮断されたり
水害の被害が大きくなれば、
日常では当たり前の水でも有難みが湧いてくる。
それと同じ事だ。
ただ、極々少数の人に限られるだけであって、
原理は同じなのだ。
だがたまに来る祖母の家系の人がきた時には、
お金の話をよく聞いていた。
没落した良家であったが、それには理由があった。
自己出版したので、
全てでは無いが詳細は書かれている。
祖母の血筋は私財を投げうって大水害が起きた時、
大勢の死者も出したが、大勢の人を救った。
現在の金額で約200億円の私財を使い、
天皇陛下から招かれてパーティーにも出席した。
生前と生後には戒名もつけてもらい、その名は
石碑に今も刻まれて、公園の中に置かれている。
その他では大和の設計士の一人であった
東大主席で卒業をした人等もいる。
山本五十六が通っていた料亭も、今、現在も
店を開いていて、たまたま飲みに行った時に、
女の子が料亭の話をしていたので、あそこは
近しい親族だと言ったら、
「やっぱりどこも繋がりがあるんだね」
と私に向けて言っていた。
しかし、彼女の言った事は外れてはいない。
多少は付き合いが生まれるのが普通である。
だが、私はそういった権力を振るう者に
歯向かった。
それが、私という人間であり、それが正しい
道だと信じていたからだ。
いや、今も信じている道だと言える。
私は生き返ったからだ。
しかし、その過程は大変であった。
想像を絶するとはこの事を言うのだろうと
思えたほどのものであった。
しかし、それが私の人生だった。
こんな教育を大人がすれば、子供は間違い無く、
酷い大人になるだろう。
日曜日は朝から電車で約45分ほど乗ったあと、
歩いて20分ほどの所にある大きな塾に行かされ、
帰りはサラリーマンにもまれながら帰っていた。
一度だけそんな私を見て、大人の人が話しかけてきた。
「僕? おじさんはここで降りるからここに座って」
「いえ。お気持ちだけ頂きます」
その席は終点である私の駅まで誰も座らずに開いた
ままであった。
今だからこそ、あの時座るべきだったと思うが、
当時の私はそう育てられていた。
本当に頑張って科学研究をした子供もいた。
なのに私は、詐欺となんら変わらない
ただ書き写しただけで大賞を取っていた。
幼い頃から思っていた。
ヤラセで大賞を取る意味なんか何も無いと。
本当に頑張った人が選ばれるべきだと。
しかし、子供の力では親に歯向かっても
殴られるだけであった。
私の中で邪心が育っていったのは幼稚園児の頃
からであった。
医者の息子でお稽古をさせられていたので、
友達もできない孤立した自分は集団虐めの
的であった。
そうして生きてきたので、当然、精神的な強さは
相当なものになっていた。
私は中学に入ると、全てを捨てた。
子供の頃からずっと思っていた。
いつか力を手に入れたら、親とは真逆の生き方を
しようと心に決めていた。
中学生になった私は、たまたま幼稚園で私を
虐めていた集団のリーダーが同じ中学校にいた。
私に中学では2つの小学校が1つになるので、
小学生の時には幼稚園の時に私を虐めていた
奴等とは別の小学校だったが、中学でソイツを
見た時、私は殴りつけた。
学校で会う度に殴りまくって蹴り上げて、
貯まっていた恨みを晴らすように、私は
ソイツをボロボロにしてやった。
その後、高校生になった時、昔、私を虐めて
いた奴等とも遭遇した。
私一人に対して相手は5人いたが、
その中の一人を即殴り倒してやったら、
他の奴等は沈黙して目を合わせようとも
しなくなった。
しかし、私は暴力的な人間では無い。
普段は優しい人間ではあるが、いざという時は
他人であっても助ける。
それが私である以上、私の親しい人たちは
私から離れることは無い。
自分が変わればそれまでいた人たちは遠のく
事になるだろうが、自分をしっかりと自分と
して生きている限り、仲間たちは支えてくれる
だろう。
ただ、それだけの事だ。
時に人は自分のせいでは無いと思いがちでは
あるが、実際は自分自身が変わったせいで、
人々は離れて行くのである。
だから、私は自分を貫くと決めていた。
私は中学を卒業してから、これまで一度も
暴力は使っていない。
何でもというか、当然、犯罪は駄目だが、
若いうちにある程度はやんちゃしていた方が、
大人になった時には、暴力を振るわなくなる。
久しぶりにたまたま出会った同級生とかも、
同じように全く喧嘩はしなくなっていた。
若いうちにやっておくと、
それはやってはいけない事だと、
ハッキリ分かるようになるからだ。
何事も経験無くしては語れない。
そういう意味では多少くらいは
弾けといた方がいいだろうと思う。
日本人では勝海舟がそう言った言葉を
幾つか残している。
「人はなんでも範囲を脱しなくちゃいけないよ。
眼を大局に注がなくちゃいけないよ」
この言葉でもまずは、範囲を脱するとは
自分の許容のうちだけで物事をしていても、
何の成長も出来ないと言っている。
要するに挑戦する気持ちや、無茶は多少でも
やっておかなければ、いざという時に動く事は
できないものだと言う事だ。
それを経ていれば、大局を見る眼を持つ事が
出来るようになると彼は言っている。
その他では最近も書いた気がするが、こちらも
勝海舟の言葉で、
「世の中は平穏無事ばかりではいけない。
少しは不平不満とか、騒ぐもののあるほうがよい」
彼のこの言葉は今の日本にも当てはまる。
平和が続き過ぎれば、当然、権力を持つ者でさえ、
世界を見なくなる。
例えば、徳川家康でさえ、そういう事例はあった。
徳川幕府の頃、諸外国から日本に貿易に来ていたが、
徳川家と、豊臣家は敵対はしていなかったが、
余りよくは無い関係であった。
そのため、徳川家、豊臣家にはそれぞれ外国と貿易を
していたが、家康はある時、貿易をしていた国が、
日本を囲む海の深さを調べたいと申し出た時、
これを了承した。
しかし、本来であればそれは攻めるのと同意である事を、
徳川家に味方する海外の国は、家康と縁を結んでいた
伊達政宗に話をしに行った。
その際、家康の許可が下りていたので、政宗も了承したが、
ここに横やりが入ってきて、測量を図らせる事は、
世界では国を取られたようなものだと進言してきた。
それにより、日本が狙われている事が明るみになった
訳であるが、幾ら賢くても、知らなければ分からない
ものであるのが普通である。
勝海舟の言葉は多少乱れていた方が良いというのは、
もし何かが起きた際に、平和過ぎると何をしていいか
分からなくなるという話になる。
実際、幕府が長州藩に討伐に向かった際、
幕府軍は鎧武者の恰好で戦場に出向いたが、
長州藩は幕府の鉄炮は古くて届かない距離から
交戦して、新しい鉄炮を坂本龍馬から買い取り、
その銃で農民たちが主力の高杉晋作を大将とした
奇兵隊で勝利を収めた。
もし、たまに争いが起きていたならば、
こうはならなかった。
しかし、平和ボケしていた為、このような結果に
終わった。
農民が幕府の軍に勝つという事は、有り得ない
事であったが、長い月日の平和がこのような
結果を生んだ。
人は初めての体験の時、その流れも時期や事柄に
関して初めての場合、誰もが苦戦する。
ある偉人がこう言っていた。
「誰もが皆、最初は素人だった」
つまりは初めての挑戦に対して、誰もが失敗する
のは当たり前であって、それは恥でも何でもない
と言っている言葉になる。
失敗を恐れていては何も出来なくなる。
しかも人間は、年齢を重ねる度に、
挑戦心を失ってしまうのが大多数を占める。
だから、自分がやりたいと思っていた事に、
挑戦する機会があれば迷わず行動するのが
一番良いのである。
あの時にやっておけば良かったと、
自分自身の選択を後悔する事になるからだ。
これは全てに通じる事なので、私はとても
大切にしている事の1つになる。
趣味等の場合なら、ある程度の年齢を重ねても
挑戦する事はそれほど困難ではないが、
やはり人、特に異性に関しては難しいものに
なって行く。
これに関しては恋を多少はしてきた人であっても、
そう簡単にはなかなか動けないのが現実だ。
しかし、恋愛に関しては年齢を重ねると、
慎重になり、相手をなかなか信用できなくなる
ので、結局は無駄に終わる事も少なくない。
私は最近、恋をした。
私の場合は、恋愛に発展はしないだろうとは
思っていた。
でもその機会を得たからには、成功する
可能性は低くても、その女性の何かに役立つ
事ができるなら、それでいいと思って、
最初は片想いから始まった。
相手の女性は純粋に友達関係ではあったが、
色々な会話をしていくうちに好感度が
上がっていっている事を伝えられた。
しかし、あくまでも好感度なので、
私は嫌われてないのであれば、続けて見る
事にした。
自分の事は、自分でも分かる部分と、
分からない部分がある。
それは現実的に見て、自分自身への評価は
当てにならないものも存在するからである。
第三者目線から見なければ、その人の性格や
人間性等は見えにくい。
それらを本当に見る機会も少ないので、
対象者が現実的に行動に移した場合に、
色々見えてくる。
普段から口だけは達者だが、現実に直面した
時に臆病になったり、避けたりすれば、
その人は口だけの人だと言うことが、
ハッキリと分かる。
しかし、公言している事に対して、
予想外に上回るような人の場合は、
自信と不安を併せ持ち、普段から公言した
事に対して、絶対的な信頼が見えてくる。
そういう人間と出会い、仲を深めるには
行動で示さなければ難しいものとなる。
でも、行動しなくても分かる場合もある。
それは以前も言ったが、賢い人は賢い人を
見抜く力を持っているものになる。
そういう人の場合は、やはり日常を無駄に
過ごしてはいない。
日々の1秒でも何かをしている人たちしか
私は見た事が無い。
私も自分自身で決めたルールを、曲げない
ために、習慣づけている事は、映画や音楽、
海外ドラマ、漫画等から、世界の現実を
見る事ができるようになった。
映画や海外ドラマでは現代ものに限り、
世界の現実を見ることができる。
ほんの一瞬の場面でも、その国の事が
分かったりする。
漫画では私は小説のアクションを活かす
文章にするために、何度も読む事が多々ある。
音楽では歌詞による普通には無い世界が
あるので、そういうものを学び、それを
小説やエッセイ等に活かしている。
これは私が決めたルールを守るためのもの
であって、ルールとは直結はしないが、
役に立っている事は確かであり、
自己啓発にも繋がりを見せている。
だいたい30歳くらいから始めておくのが
私的には良いと思っている。
最初に言ったが、若い時は多少の無茶を
経験しておくのが良いからである。
そうなるとやはり30歳くらいまでには、
完全では無いが、自分の生き方は定まって
くるはずだからだ。
生き方は仕事の事では無い。
自分のルールとして、限りなく守ろうと
するものの事になる。
これにより、友人関係も変わってくるし、
自分をより高みへと導いてくれる事に
なってくる。
私のルールには事情があるが、それを
話すと長くなるので、守るとしている
事だけを話すと、
まず1つ目は嘘を限りなくつかない。
第二に、約束は限り無く守る。
第三に、自分で命を絶たない。
第四に、自分自身に負けない。
第五に、常に自分をライバルとする。
これが私のルールとなる。
限り無くというのは、時にはそれが
難しい時もあるから、こう書いている
だけであって、まず破ることは無い。
私は敢えて被るようにする事で、
ルールを守ることを強く誓えるように
した。
自分自身に負けないというのは、
誰もが選択をする時、道は多くても3本
程度になるが、簡単な道へ進めば進む程、
人間性の成長は見込めなくなる。
困難な道に行くほど、辛く、苦しい道に
なるが、そうしたものを越える事により、
人間性や自分自身への自信にも繋がってくる。
そして五番目のは、ある偉人の言葉や
他でも目にしたことではある。
偉人はこう言っている。
「過去や現代の人と張り合うな。
自分と張り合え」
つまりは自分以外の人と張り合った所で、
それを越えてしまえばゴールになるが、
人生はその後も続く訳であるので、
ライバルを自分とすれば、常に成長して
いくという意味である。
漫画では「ジョジョの奇妙な冒険」の
荒木氏の名言集にもある言葉である。
このシーンの時、主人公と準主人公が
ある時同じバスに乗ってしまい、
どちらもが嫌い合っていたので、
殆ど会話はしなかったが、
準主人公がバスから外を見ていたら、
奇妙なものを目にして、主人公に語り
かけるが、不仲なため喧嘩になった。
その後、主人公は罠にハマり、
死にかけてしまう状況になった。
準主人公は敵にこう言われた。
「お前は逃げれば助けてやる。
追わないから、そのまま逃げろ」的な
事を告げられて、準主人公は、
「本当に逃がしてくれるのか?」的な
発言をした。そして続けてこう言った。
「だが断る! この岸辺露伴が
最も好きな事のひとつは
自分で強いと思ってるやつに
『NO』と断ってやる事だ‥‥」
この発言を見た時、私は人生で2度
自分に負けていた。
そして三度目にもしも自分が自分に
負けたら、そのまま転がって落ちて
行くと感じた。
だから、このセリフを見た時から、
これまで一度も自分には負けずに
生きて来た。
圧倒的な力を誇る父親と、人生論を
賭けて私は私の意思を貫いたが、
私は父親を100%信用してなかった。
しかし、ある日、滅多に呼ばないのに
私を呼びにきた。
父は自分が癌になったと言ったが、
私はこう言った。
「アンタはいつも人や愛犬が死ぬ時に、
歳だからだと言ってたじゃないか?
もう充分に生きただろう。
だから何だと言うんだ?」
この時、私に一番なついていた愛犬
は父により毒殺されていた。
それに加えて、弟を本当に殺そうと
していた。
しかも私の手を汚させて、弟を
殺した後、私を犯人にする予定でいた。
幼少期から愛情どころか、暴力しか
振るわない小児科医だった高齢者が、
何を言っているんだと私は思った。
父は私を利用して利用して
利用し尽くしていた。
それに関しては長男の長子として
生まれたので仕方のない事だとは
思っていた。
しかし、この時、私に本来支払われる
お金を父により払わなくていいと
されていた。
だから私の方から、
「もうお金はいらない。
お前たちとは縁を切る」
と言った時にはもう仕事は終わっていた
ので、父は私にはもう利用価値が無い
と思っていた。
それは私も同様に思っていたから
縁を切る事を告げた。
それに対して、
「分かった」と父は言った。
しかし、その後に問題が発生して、
私の発言が必要になり、話は変ってきて
いたが、お金も300万円以上支払わずに
終わらせた事により、父は板挟み状態
になっていた。
父は自分で「分かった」と言っただけに
私には当然、言える訳も無く、
没落していたおじは、一人で大きな家に
住んでいた祖母の妹の家の処分をする
支度金を盗み取っていた事が発覚し、
父の妹はその日に医師会所属の弁護士を
雇って訴えを起こしていた。
ここで問題となったのが、仕事したのは
私一人だけだったという事になった。
弁護士は私に会いたいと願い出ていたが、
私は断り続けていた。
当然、父と父の兄弟姉妹たちは、事実を
言えずに時間だけが流れていった。
弁護士は私に会うために広島までやって
来ることを知った私は、弁護士が来ると
される日の前後3日間はホテルに泊まった。
弁護士は父から話を聞き、驚いていたらしい。
当然と言えば当然であるが、
弁護士はその場でこう言ったらしい。
「その方が一番の被害者です。
私は辞任します」
そう言って女性の弁護士は仕事を降りた。
しかし、これはかなり異例な事だった。
医師会に所属している弁護士団は、
勿論、医療ミスや間違いは当然ながら、
私用の事であっても格安で雇う事が
出来る。
医師会に所属している以上、本来は
辞任する事など無いものであった。
私は呼び出された時に、その話を
父はしていたが、協力を頼める
立場では無かったので、一体何が
目的で私を呼び出したのかが、
分からずにいた。
ただ、絶対に何かを企んでいる事
だけは分かっていた。
ここで頭の良くない父は、私と頭脳戦
をしても負ける事は、父自身が一番
分かっていた。
銀行にさえ行った事もなく、
銀行は来るものだと言う父が生涯で、
私を騙すためだけに一番考えたであろう
と後で真実が分かったが、この時は
私は騙された。
癌になり余命2年だと言ってきたが、
私は何の話をしているのかが見えずにいた。
そしてその後にこう言った。
「実は兄弟姉妹はお金をお前に
送ってきていたが、わしが使った」
私はそれを聞き、私の仁義や良心は大きく
揺さぶられた。
お金を払っていたのであれば、ため息が
出る程の裁判に出て協力するしか無いと
即座に思った。
民事から刑事までの裁判に出ると言う事は、
一生を裁判に尽くして人生を捨てるという
のと同義語である事は知っていた。
私は仁義の心もあるし、良心もある。
父はそこに漬け込み、人生で一番考えた事は、
私をどうやって騙すかだった。
そして、私は見事に騙された。
そこには、誰が言ったかも分からないが、
誰もが良く耳にする言葉も重なり1%の隙が
生まれた。
「死ぬ前に人は嘘をつかない」
嘘をつく意味は無いからであったが、
私の良心を利用して、騙しに来た。
翌日に来た叔父と叔母に、私はその話をした。
一瞬であったが、違和感を感じた時があった。
それは、お金を送ってくれたのに父が使った
と言っていた話をしていた時に、目が一瞬だけ
泳いだ。ほんの一瞬だったが、私は涙を流して
謝罪をして、裁判に協力する事を誓った。
二人は大喜びをして喜んだ。
しかし、二人は父の話に同調しただけであって、
初耳だが、私を利用できると思い大喜びをした。
仮にも甥が涙を流して謝る姿を見ても、
奴等にとっては、そんな事はどうでもいい事で
しかなかった。
私がそれに気づいた時、先日話した夢の話は
翌日の事だった。
12時間気づくのが遅れて、本来は叔父と叔母を
人間性に対して叱るはずだったが、父はそれを
回避させるために、最後まで騙した。
更に私だけが悪くないのに、涙を流して謝る
私の姿を見て裁判に出ると言った時に、
大喜びした顏は忘れたくても忘れられない程、
辛いものとなった。
そして翌日、夢の中で自分が自分に教えて
くれた。
全ては私を騙して裁判に出させる為の芝居
だったことを知った時、私の精神は崩壊して
最後の手段である「死」の道しか見えなく
なった。
私が死ねば、全国ニュースに流れる事は
確実だった。
関係者は誰もが一流だったから、問題は
どうすれば一番衝撃的なものになるのか
だった。
仮に遺書を残せば、絶対に警察が来る前に
処分される。
警官の中には、ある程度の事情を知っている
人はいて、それは記録として残されていたが、
それだけでは足りないものだった。
屋上から飛び降りて、赤く弾ければとも
思ったが、それではただの自殺として
処分される。
叔父の中には日本の上層部と懇意にしている
人もいる。証拠が無いだけに私は苦悩した。
だから、普通に死のうと思った。
しかし、前回も書いたが2回失敗に終わり、
何年もかけて、奇跡的にようやく立ち上がれた。
正直、自信は無かった。それほどまでの苦悩の
日々だった。
しかし、アインシュタインや他の偉人たちも
私のような日々を過ごしていた頃もあった事を
知り、それはほんの小さな欠けた部分であったが、
そこに手を伸ばして、しっかりと力を込めて、
再び、上がれるようになるまで深い闇の中に
私はいた。
死んだ方がどれだけ楽だったか分からない程、
苦しい日々を送って、偉人の中には、自殺した
人も少なく無かった。
本当の闇は永遠に続いていて、底は存在しない。
ただ落ちていくだけで、一度、夢なのに、
起きないと本当に死ぬ感覚の夢も見た事があった。
夢の中で私は起きる事に必死になって、
目覚めた時には汗だくになっていた。
言葉では語れない程のものであった事だけは
確かだと言える。
あの絶望の始まりから8年が経とうとしている。
noteを書き始めたのは約1年半前からである。
今では始めて良かったと思えるようになった。
そして、今月中旬、出会いがあり、
久しぶりに人からの癒しを感じる事ができた。
今はお互いに良好な関係になって、
再び幸せを感じる事ができるようになった。
私は世間でよく言う第二の人生では無い、
本当の意味での第二の人生を送ろうと
今は思えるようになった。
人生では幸せよりも不幸な出来事に出会う
可能性の方が高い。
しかし、何にでもリスクはつきものである。
今、私には大きなリターンが来ている。
彼女は私の心の毒を薄めていっている事だけ
は確かだ。
私は人生を前向きに生きると決めた。
だから彼女との関係も進めて行こうと思って
いる。
私は愛の無いまま生まれたが、
彼女が愛を私に教えてくれている。
無償の愛情により、
私の心は癒されていくだろう。
私の最悪の人生期間は乗り越えた。
これ以上怖いものは無い。
親は愛を教えてくれなかったが、
私は精一杯彼女に愛を伝えていこうと
思っている。
人生は選択の連続であり、それは時には
連鎖を生む事もある。
私と彼女の関係は連鎖に入っていて、
私はそれに気付いている。
選択により人生は大きな変化がある場合も
数多くある。
しかし、その大きさに気づかず、大事な人を
失ってしまう場合もある。
気遣いと愛を、毎日相手に続ければ、
それは日常となり、二人の関係は崩れにくい
ものに変化していく。
そうして愛を育てていく選択を、
私は彼女にしていこうと思っている。