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ヨシュア・ケイロン

”真の苦しみの中にこそ真実があるが、
 その痛みは本人にしか知り得ない”


多くの言葉を知り、その人たちの人生を
目にしてきたが、痛みを知る事はできない
ものである。

偉人たちの多くはよく変わり者だと
思われがちだが、それは違う。

己の知識や見識が足りないだけであって、
見えない、知り得ないものだから
人は自分の知識範囲内で語ろうとする事が多い。

多くを語らずに彼等は死の道を選ぶ人もいた。
自分の罪を悔いるように、生き続けた人もいた。

時代は変わっても、人間が成長しない事は
しっかりと理解できた。

人も国も同じ事を繰り返してきた。
前例や言葉が残されていて、それらを
知っていても結局は自分に負けて、
同じ選択をしてしまう。

私は極々最近になってようやく知り得たが、
以前の私は、生きるに当たり、大小はありながらも、
何かしらの生きる目的のようなものを目指して
誰もが生きているのだと思っていた。

しかし、そうでは無い事を知り、正直絶望した。
今、現時点で私の周りには、私を理解してくれる人は
いない。それは孤独というものに他ならない。

私は私の周りの極親しかった人たちの事や人生を
思い返してみた。

ぼんやりだが最初に頭に浮かんだのは、
誰一人として悩んではいなかった事だった。
つまりは、その時点で覚悟を決めていたという
ものになってくる。

昔、「プリズンブレイク」を見た時、
罠にハメられた主人公の兄は死刑執行日の前日、
刑務官に最後の食事は好きなものを食べられてる
と言われたシーンがあった。

彼は罠にハメられた故に、恐怖や後悔、
死に対する絶望から、最後に食べたいものの事など、
考えれらず、独りで死に対して怯えていた。

私が知る限りでは、そうしたような言葉や雰囲気の
欠片も見えなかった。
私自身がまだ未熟で、感じ取れなかったのかも
しれないが、記憶の中ではそんなものは微塵も
見せていなかった。

ある人は言っていた。

「人生は諦めたら終わりだ」と。

まあ確かにそうだと思う。
実際にはもう少し中身が色々分かれてはいるが、
ざっくり言うならそうであると言える。

その選択までの過程は人それぞれに違いはあるが、
最終的に諦めたら終わる。
覚悟は言うなれば、詰み将棋の更に複雑化したもの
のようなものになる。

だからなのか、全ての最後の選択を突然迫られた
わけではなく、自ら悩み、全ての選択肢の最後の手
となるので、せめて外では見苦しい姿を見せる事は
無いのだと思う。

実際、私がそうであったので、その点はよく理解
出来る。
そして、今まさに再びその時が近づきつつある。

理解者がいないと言うのは、実に厳しい。
完全な孤独の世界と言える。

以前、カウンセラーがしみじみと言っていた。
「理解者がいないのは辛すぎることです」
と言っていた。

人は何でもいい、何か一つでも生き甲斐が必要だ。
何も無くては生きていく事は難しいものとなる。
常識的な見地から見れば分かりにくいが、
見識が広ければ広いほど、その選択までの道のりは
近いものとなる。

多くを知り過ぎているが故に、その他の選択肢への
可能性を悟りやすいため、命を消す選択の香りを
他者に匂わせたとしても、見識が広いため、何とか
するはずだと他者から思われやすい。

しかし、現実的に考えれば、見識が広い人ほど、
悟りやすいものであるので、理解者は得られず、
その選択を選びやすくなる。

ただ、じっくりと考える時間も短くなるので、
余計に勘違いされやすくなる点も難しい所である。
ある程度の賢さを備えた人なら、大抵の場合は
何とかなる。普通の人では耐えられない事でも
それほど苦にならない。

だからと言って割り切っている訳でも無い。
受け皿が大きいだけであって、普通の人と同じように
苦しみは残る。ただ他者に対しては割り切っている人も
多い。私もそっち派だから、よほど残酷無比なやり方で
殺されない限り、全く興味は無い。
筋の通さないチンピラ無勢の悪党は嫌いだし、
実際、社会には邪魔な存在でしかないと思っている。

私自身も今は必要ないと思っている。
食べる事に喜びを感じず、瞼が落ちそうになるまで
起きていても熟睡出来ず、女性に対しても特別な感情を
抱くことも無くなった。

私は死人となんら変わらないと自分で思う。
似た環境と状況の親友は生きているが、
彼は責任感だけのために生きている。

私はその親友が、今の私と何ら変わらないのを見た時に
そう思った。友人どころか従業員たちから
蔑まれて生きている。

今の私も、一族の名ばかりの最後の長子であるが、
私は死ねる。そこが彼とは違うところだ。

人間が何故生きるのかを長年考えてきた。
一般的な回答は多すぎるので書かないし、
その中に答えがあるとも正直思わない。

人間は混沌的な存在である。
だから模範解答などは存在しない。

人は長命であっても、短命であっても
ことわりを知っていても、
変わらない生き物だ。

今、「ジョン・ウィック:コンセクエンス」の
ラストシーンで立会人が言葉を吐いていた。

「二人の魂を神に託す。始まりは終わりなり。
灰は灰に。塵は塵に。」

神託の言葉の一例であろうものであると感じた。

私は無神論者であったが、今は違う気がする。
何故ならこの言葉に対して、そうあって欲しいと
思った。そして、所詮は人間が通る道は誰もが
同じだと心から思えた。

アダムは神によって、土から生まれた。
その他のあらゆる生命も最後は土に還る。

今は午前6時55分だ。
最後のシーンも朝日が昇る薄明るい高台での
友人との死闘の場面である。

主人公は自分と友のため。
友人は娘のため。
お互い自分の命よりも尊くて大切な、
守るべきもののために命を懸けている。


「死に しがみつく者は————生きる」

「生に しがみつく者は————死ぬ」


この後、ラストシーンになったが、
しっかりと見ていたので、最後を見る前に
どうなるか気づく事ができた。

あと数分で終わるだろうが、観るのは明日に
しようと思う。

頭に「イミテーション・ゲーム」のシーンが
流れてきたからだ。

私の好きな俳優である
ベネディクト・カンバーバッチが、
世界最強の暗号解読に挑む映画だ。

第二次世界大戦時、解読不可能と言われた
ドイツ軍の暗号<エニグマ>に挑んだ
天才数学者の役を演じていた。

彼は15世紀のイングランド王であった
リチャード3世の血縁者である。

彼のBBCのドラマ「SHERLOCK」はまさに
適任だった。魅了される演技を見せてくれた。

多くの実話に基づいて映画化されたものの
一つである「イミテーション・ゲーム」では、
主役の天才数学者アラン・チューリングの役を
演じていた。

私は天才にはほど遠いが、彼等の気持ちが分かる
程度の洞察力はある。
映画では語られない物語は必ず存在する。

ハッピーエンドなら語られるが、
バッドエンディングは語られない。

とは言っても、あの映画ではラストはいいもの
では無かったが、解読した人物として、
描くにはどうしても必要だったから、
あまり良いラストでは無かった。

しかし、その後の彼の人生は語られなかった。
彼も天才にして自ら命を絶った一人である。
本来はもっと生きていたはずだったが、
運も悪かった。

そう、人生を左右する時に、運によって生死の
別れ道が決まることもある。
彼の場合だけではないが、それなりに賢い人間は
1を聞いて10を知ることが出来るが、
天才の思考ともなると、恐らく1を聞いて30を
知ることは出来るのだと思う。
これは最低ラインでの話になる。

単純に見れば3倍に過ぎないが、現実的に考えると、
1を聞いて10を知るのは、現実的にそれほど
難しい事では無い。

だが、1を聞いて30を知るとなると1~10までは
予測可能領域ではあるが、その後の展開は更に複雑化
していくので、少なくとも10を知る人の30倍ほどの
頭の回転力が必要になるはずだ。

色々な形で賢い人間の思考を映画などでは描かれる
事はよくあるが、私が知る限り「SHERLOCK」の
シーズン2-エピソード1 『ベルグレービアの醜聞』
の1シーンが一番分かりやすく描かれていた。

非現実的だと思う人の方が大多数を占めるとは
思うが、現実的に可能である事も分かるはずだ。
頭の知識と高速回転力が融合した時の感覚は、
常人のインスピレーションに似たものを感じる。

エニグマ解読に成功したアラン・チューリングや、
創作ではあるがシャーロック・ホームズ等の天才は、
よく人に嫌われる。
しかし、それは仕方のない事でもある。
話を理解する速度が全く別次元の人物は、
人を馬鹿にしているように感じてしまうからだ。

会話をして、馬鹿にされていると思う人たちから
すれば、仲良くしたいと思うはずはない。

そのため、天才であっても盲点が生まれる。
エニグマ解読はチームで行われたが、他のメンバーも
有能ではあったが、アランと比べれば明らかにレベルが
低いメンバーたちであったため、彼は一人で解読を
試みる一方、チームのメンバーの中に一人だけアランに
理解を示す人物がいた。

アラン・チューリングは同性愛者であり、この時代では
それは法律的に許されないものであった。
天才は孤独になりやすい。それ故に理解を示してくれる
人物が自分よりも遥かに劣っている事には気づけても、
それが罠だとは気づけない事はよくある。

エニグマを解読したのはアランであったが、この理解者は
彼にしかエニグマを解読する事は出来ないと最初から
考えていた。

アランが暗号解読に成功した時、偽りの理解者は彼に近づき、
同性愛者である事をネタにして彼を脅した。
アラン・チューリングの功績はこうしてチームでの暗号解読と
なり、彼はチームから去る事になった。

人は天才をよく誤解する。
頭が良いから何でも出来るし、自分よりも遥かに優れている
ので、そう誤解されやすい。しかし人間関係に関しては隙が
生まれやすい。

アラン・チューリングのエニグマ解読を描いたこの、
「イミテーション・ゲーム」でもここまでは映画で
描かれているが、その後の彼の人生は悲惨な末路が待っていた。

それを理解できれば天才というものの脆さも見える。
しかし、彼等の普通と、我々一般人の普通の違いには
大きく深い谷がある。
私でさえも天才だと誤解されやすい。
居酒屋などでも、まるで本を読むかのように淡々と物事を
話すからだ。頭の中で話す速度よりも処理の方が先になれば、
それは可能になる。

天才に共通する点は打たれ弱い事もある。
人生でほとんどつまづいた事が無いので、当たり前と
言えば当たり前ではあるが、それすらも理解するにはある程度は
器が無いと難しい。受け入れることができなければ、
そこで相手に対して偏見を抱いてしまうからだ。

常人からすれば、それは仕方のない事であっても、
才ある者からすれば受け入れ難いものとなるので、
そこにも理解が必要になる。

一度理解することが出来れば、それほど難しいものでは無い
のが天才の特徴でもある。彼等はあくまでも頭脳明晰が故に
誤解されやすいが、それは仕方のないことである。
子供の頃から孤独であるので、人間関係に上手く築けず、
そこが弱点ともなる。

しかし、人間は孤独でいると非常に良くないものとなる。
人は人と接する事で成長していくものであるからだ。
常人であっても天才であっても、自分を基準にするので
人間関係を作るにあたり、そこは非常に難しい問題となる。

私の身体は今、壊れつつある。気のせい等では無い。
もう小腸に裂け目が出来てから8年近く経つが、
治る兆しは一向に見えない。
あらゆる治療法を試したが、これだけはずっと続いている。
今も痛みを感じる。血が流れているのも分かる。

他の臓器も弱っている。肺、心臓、肝臓、胃も弱っている。
一番悪い時には錠剤さえ未消化のまま血と共に出ていた。
野菜を煮込んでも消化されずに出てきていた。

西東洋医学で治らない理由は明白だ。
ストレスによるものである。私の中でどうしても乗り越える
事のできない問題がある。誰もが騙されているが、私は一番
話していたので父の本性を本当に解っているのは私しかいない。

私には理解者はいない。それが問題であるとカウンセラーにも
言われたが、その通りだ。

話は変わるが、ジョン・ウィックの最後の続きを見た。
盲目の男に勝ちを譲らせて、彼は発砲しなかった。
彼は三カ所を撃たれて、倒れた時、公爵はトドメは私がやると
言って、彼に弾を込めた銃を突きつけたが、ジョンは撃って
いない事はよく見ていたら分かった。

公爵はジョンに撃たれて、盲目の男とジョンは誓約から
解放された。ジョンに命を助けられた旧友のウィンストンは
彼に近づき、いつもの挨拶を交わした。
ジョンは「連れて帰ってくれ」と言った。

ウィンストンは彼の体にある傷を見渡して、
目に涙を溜めて「もちろん」だと答えた。

高台にある教会から階段を下りる途中で、
ジョンは重いものでも捨てるように、ベルトを外して捨てた。
彼の足は止まり、そのまま階段に横たわった。

ジョンはその時、死別した愛する妻との想い出が
頭を過り、彼女の名前を一言だけ口にした。

彼は動かなくなり、そのまま時間だけが過ぎていった。

ウィンストンと、彼に味方した地下の王キングの二人は、
緑が広がる墓石の前に立っていた。

ジョンがもし自分が負けて死んだら、墓石に刻んで欲しいと
言った言葉が書かれていた。
妻ヘレン・ウィックの横に、彼の墓石もあった。

”ヘレン・ウィック  ”ジョン・ウィック
 夫を愛した妻”    妻を愛した夫”

キングが去った後、ウィンストンはジョンの墓石に
手を置いて、

「お別れだ 息子よ」

そう告げると彼もまた墓石の前から去って行った。

ラストにもう一劇あるが、それは敢えて言わずにおこうと
思う。私もそのシーンを見た時に気づいた。

私の体内の裂傷が8年間も閉じずに血を流し続けている
理由を改めて見たからだ。
多くを許せてきたが、最後だけは許せないまま
私はここまで生きて来た。

家の中ではよく転ぶ。血が足りない上に、素の自分だから
緊張してないからだ。
5日ほど前に、冷凍庫付きの一人暮らし用の冷蔵庫の前で
私は倒れた。冷凍庫の下に足先が入り、冷蔵庫のものが
全て倒れた私に降って来た。

暫く動けずにいたが、少しして起き上がってから、
無言で床に散らばるものを冷蔵庫に入れていった。
手や足には傷が治る前に新しい傷ができる日々を送っている。

私は外では家族を演じるようにしつけられてきた。
父母の思い通りになるよう、勉強でも何でも暴力で解決して
いたのが現実であった。

それが普通だった。だが、世間から見てもやり過ぎであった
から警察沙汰にもなった。

私が自殺したとしても、何も残らない。何も語られない。
何があったかを知ろうとする人もいない。
それが現実だ。

そこに私の悲しみは無い。
ただ、今も肺が悪いのか、水を取ってきた息切れなのかは
分からないが、浅い呼吸を何度もついている。

私が今思っている事は一つだけだ。
頭部だけでも冷凍睡眠させるべきであった。
海外ではかなり前から実際に大きな会社があって、
検証結果も出ている。

窒素で冷却後、冷凍睡眠させる方法なのだが、
頭部だけか、全身かで多少の費用が変わるだけで、
劣化は起きていないとの報告は上がっている。
期間は一応決まっていて、100年間保存する事になっている。

中には愛犬や愛猫等のペットもいる。
99%以上は脳や心臓、癌などに関する病気が多いが、
私のようなストレスによる体内に裂傷などが起こる
事は、どの病院でも言っていたが、前例がないため、
治しようがない。

それは私が一番誰よりも分かっている。
痛みには慣れたが、血が足りない。
少量では無く、酷い時には一日に失血死クラスほどの
出血量が出る。

しかし、円安の上に物価上昇、その上に胃の活動も弱い
ことから、非常に厄介である。サプリで鉄分を取ろうにも
硬い錠剤が多いので未消化のままであるし、
何よりも小腸の機能は栄養を吸収する器官であるので、
私の場合は活動してないため、緑便になる。

赤ちゃん等の時にはよくある。まだ器官が発達していない
ことから、緑便が出る。栄養分を小腸が吸収した場合、
普通の便の色になる。

私の場合は良くて緑便、通常は下血となる。
スパイス類等も負荷がかかるので摂取しないように
しているが、全く意味を成さないままである。

どうにもならない苦悩の存在から、私は多くを知るように
なれたが、やはり身を以て体験しなければ、理解に達する
事はできないと深く思う。

ジョン・ウィックのラストの作品は、アクションが多めで
最初はいまいちだと思ったが、死で完結させる事によって
しっかり終わらせた。そして別の一面では輪廻転生の世界に
終わりは無いことを見せていた。

それが人間の世の中の本当の姿である事も、
ケジメをつけるようにして見せていたのも評価に値する
ところだと感じた。

まだ見ていない映画が2本くらいある。
明日、観れる時間があるなら少しは観たいと思っている。

それは私の旅とはまた無関係なものではあるが、
何かを感じる事が出来るかもしれないので、
好きな映画をまた観るのでは感動や涙はあっても、
新しい思想を生むことは出来ないので、新作を観るように
している。




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