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坂本龍馬

“時勢に応じて自分を変革しろ”

私の中で、日本を救った二人のうちの一人が、
坂本龍馬だと思っています。

この言葉は彼の言葉です。

彼の人生は充実に満ちた人生であった事だけは
確かです。
有り得ない世界を、有り得る世界に変えたのは
彼がいなければ成し得なかった事だからです。

彼がまだ二十歳前後の頃、日本の言葉に、
「自由主義」という言葉はありませんでした。
私も知った時には驚きました。

自由という言葉自体が存在しない世界が、
約150年前までは無かったのです。

つまりは徳川幕府が約264年の間、殆ど
世界との本当の繋がりが無かった事を意味します。

当時、日本は実際、諸外国に狙われていました。
世界との繋がりが浅かった事は、色々な事から
見えてきます。

例えば、世界ではもう誰も買わないような
古い銃等を売りにきていた事や、
日本中の陸地に面した海の深さを知ろうとして
いましたが、無知識故に、徳川幕府はそれを無料で
容認していた事などから分かります。

日本に売りにきていた銃は、既に古く誰も買わない
為、捨てられていた銃でしたが、それに関しては
諸外国は敢えて言わず、各国は売りにきていました。

しかし、海の深さを図る事に関しては、日本を狙う
諸外国は、世界ではそれは絶対に許されない行為だと
いう国も出ていました。

自分たちも狙っていた為、教えるしか無かったのだと
思います。陸地に近い水位を図るという事は、
どこまでなら船で陸につける事が出来るかになるので、
それは危険すぎますと、対立する国は進言していました。

徳川家康がそれを簡単に容認した程、世界から時代遅れ
だったと言わざるを得ない状態でした。

そして時が経ち、再び争いが生まれようとしていた時に、
生を受けたのが坂本龍馬でした。

全てを知っている訳ではありませんが、これは徳川家康
のミスだったと言える事だと思っています。
徳川家康が関ケ原で総大将であった毛利勢は
大坂城守備に付いていた為、石田三成との戦になりました。

誰もが長く続く戦いの始まりだと思っていました。
この戦いは関ケ原の他でも、徳川派か毛利派かに
よって各地で戦が始まりました。

まずはどのくらいの規模だったのかを知ってもらう
為に東軍と西軍に分けて書いていきます。

   西軍          東軍

総大将・毛利輝元    総大将・徳川家康

本軍・石田三成     本軍・松平忠吉
   毛利秀元        黒田長政
   宇喜多秀家       藤堂高虎
   大谷吉継        浅野幸長
   小西行長        井伊直政
   島津義弘        本多忠勝
   島左近         福島正則
   安国時恵瓊       細川忠興
   前田玄以        織田長益
               加藤清正

 東軍に寝返り組     中山道軍
   
小早川秀秋       徳川秀忠
   脇坂安治        榊原康政
   朽木元網        仙石秀久
   赤座直保        真田信幸
   小川祐忠        本多忠政

東軍への内応者      対上杉守備軍 
   
吉川広家        最上義光
               伊達政宗
               結城秀康

上田城守備軍       大津城守備軍
   
真田昌幸        京極高次
   真田信繁

奥羽本軍         田辺城守備軍
   
上杉景勝        細川幽斎
   直江兼続
   本庄繁長
   前田慶次

大津城攻撃軍
   
毛利元康
   立花宗茂

田辺城攻撃軍
   
小野木重次
   織田信包
   前田茂勝
   小出吉政

美濃・尾張守備軍
   
織田秀信

西軍兵士数       東軍兵士数
約8万以上         約7万4千人~
              約10万

戦死者         戦死者
約8千人~3万3千人   約4千人~1万人 

このように数では東軍が勝っていたが、
本軍同士の戦いの場であった関ケ原の陣形では
西軍は圧倒的有利な陣を配していた。

一番大きな敗因は、小早川秀秋の裏切りだと
言える。1万以上の軍勢を率いていた為、形勢は
一気に西軍が不利となった。

上杉景勝の軍勢も最上義光を圧倒していた。
この際、最上は政宗に援軍要請を出したが、
政宗は形式だけの留守昌景に三千だけつけて派遣した。
そして上杉と最上が争う中、
上杉領内にある湯原城を攻め取った。

徳川秀忠は別動隊として中山道を進ませたが、
真田の守る上田城には2千しか兵は居らず、
それに引き換え、秀忠の軍勢は3万8千と大軍で
あった事から降伏勧告の使者を出した。

真田はハッキリとは言わず、帰順するような態度を
見せた。当然、真田は降伏する気は無かった。
その為にわざわざ、真田家の行く末をどちらに
転んでも血脈が途絶えないようにするため、
真田信幸を本多忠勝の娘を正室として娶り、
東軍に味方した。

真田家は非常に優れた人材ばかりいた。
それに対して、秀忠は2千と侮り、兵力にものを
言わせて攻城戦をしたが、戦略に長けている昌幸に
策略を駆使して徳川軍を寄せ付けずにいたが、
忠勝と縁を持った真田信幸は戸石城に攻め寄せると、
同族での流血を避けるため、戸石城を守っていた
信繁に、戸石城から撤退命令を出して上田城に
戻らせた。

これにより、真田信幸の功績となるようにするため、
昌幸は秀忠を挑発し、時には城門を開いて攻め込む等
をして、秀忠軍を引きつけておいた。

その結果、関ケ原の戦いに遅参する事になった。
東軍は勝ったが、大軍を預けていただけに、危うい橋を
渡る事となった事は、徳川の文書にもその大敗ぶりは
書かれる事となった。

素通りすれば良かったが、2千の兵と上田城を取れば
跡継ぎとして他の将たちにも、認められたいという
気持ちから攻めたが、戦い慣れた昌幸からすれば、
兵力は問題では無かった。

しかし、約3万8千の大軍が遅参した結果となり、
小早川秀秋の裏切りが無ければ、徳川軍の勝敗は
分からなかったであろうと私は思う。

昔の事なので、兵士数や戦死者などには多少の誤差
はあれども、豊臣政権下にいた有能な武将たちは、
秀吉の元にいた石田三成とは怨恨に近いものがあった
事もあり、東軍に走らせた結果となった。

中でも豊臣秀吉の正妻であった寧々は、非常に賢い
人物であった。夫である豊臣秀吉が死去した時には、
徳川政権になることも承知していた。

黒田長政や藤堂高虎、浅野幸長、福島正則、加藤清正
等は豊臣秀吉の配下であった。
特に福島正則や加藤清正は秀吉子飼いの人物たちで
あっただけに、本来なら西軍に属するのに、東軍に
ついたのは、石田三成との不仲が原因だったと
思われる。

上記に載せた人物たち以外もいたが、
主要な人物たちだけを載せる事にした。

関ケ原の戦いでは東西合わせて、約18万人の大戦
であっただけに、約6時間で決着がついたのは、
誰もが驚いた。

現代になり、アメリカの戦略家に関ケ原の戦いの
陣形を見せた所、彼はすぐに西軍の勝ちだと言った。

裏切りが無ければ西軍の勝ちは譲らない程までに、
見事な陣形であったが、何が起こるか分からない
のも戦いの一つでもある。

“時勢に応じて自分を変革しろ”

徳川幕府から約264年経った幕末に、起きた
大政奉還は、ある意味、常に詰めの甘さを見せない
家康であったが、微かな油断から徳川幕府に
終止符を打った。

山内一豊は東軍に属した武将であったが、
徳川家康から与えられた領土は土佐だった。
しかし、長宗我部一族等がまだ粘っていたので、
一豊は家康にどうすればよいのか話を持ち掛けた。

この時、家康は珍しく、一喝した。
「力で制圧せい!」と言われた一豊は土佐を
力で攻め取った。

その遺恨は約264年後に土佐藩15代目藩主となった、
山内容堂の時には、日本で一番酷い扱いを受けていた
のが、長宗我部一族やその配下たちの末裔である
坂本龍馬たちであった。

彼等の時代には勿論、知られざる事ではあったが、
徳川幕府を倒す事となったのは、
運命的なものを感じて止まない。

長年に渡り、差別化された土佐藩の郷士と呼ばれる
身分の低い意味を持った言葉で蔑まれ、それが定着化
していた時代に坂本龍馬は生まれた。

その後、吉田松陰や勝海舟と出会い、
彼は大きく羽ばたいた。

土佐藩の奴隷制度を無くし、徳川幕府も崩れ落ちた。
長い月日は経ったが、龍馬も知らずのうちに、
264年前の恨みを果たせたと言えるだろう。

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