神戸1995 ②
1月30日にJR神戸線は神戸まで再開した。
後々語り継がれる昼夜問わずの復旧工事だった。
電車から見た壊れた建物や傾いた鉄塔、更地になった光景はいまだに忘れられない。
でもその先、「がんばろう神戸」の看板が掲げられ、「営業中!頑張ってます」とか
「WE❤️KOBE」など沿線の手づくりポスターや横断幕に目が留まる、そんな光景もずっと覚えている。
会社には自転車が買い揃えられた。ひとりで外出しないというルールになっていたので、いつも先輩と一緒に行動していた。
あちこちが通行止めで、近くだが行くのに一苦労する取引先があった。
会社を出て、少し歩けばすぐ山側にその事務所は見えているのだが、東西に走る幹線道路が陥没して北側に渡れないのだった。
道路の下は地下鉄だった。
片側三車線道路の中央が深いV字型に陥没していて車両は通行止めだった。通行できる歩道をずっと先まで行って、車道の窪みの角度が緩やかになったその先の平らな横断歩道をようやく渡り、来た道の反対側の歩道をUターンして取引先に行くしかなかった。
取引先での仕事が終わって、帰りも遠回りの道を自転車で走り始めた。
しばらくしたら、ひとりのおばちゃんが自転車で先輩と私を抜かしていった。
おばちゃんの自転車は車道に出た。
そして緩やかとはいえ中央がへこんでいる道路を斜めにシャーッと横切って向こう側に渡り、南の路地に消えていった。車は走っていないのでおばちゃん無双である。
目が点になった。
そこ行くかー?
私たちにそんな勇気はなかった。
でもそこが生活の場の人にはいちいち遠回りなどしていられなかったのだろう。
危険だしよくないことだが、その時はあのおばちゃんのたくましさにガッツを感じたのだった。
神戸駅地下の商業施設の再開は早かった。
見知った顔の店員さんがいたらほっとしたものだ。
鉄道の再開区域は少しずつ広がって、
会社ではホワイトボードにその一覧を書いていた。
大阪方面からの通勤はなかなか困難で、大阪支社での勤務もできたが、結局私鉄やバスを駆使して神戸のオフィスに通勤している人が多かった。
当時リモートワークという方法はなかった。
スマホもなかった。
ホワイトボードには、取引先の仮事務所の電話番号や住所も書き入れた。
社内の伝言板にもなった。
「〇〇部〇〇チーム〇〇さん
赤ちゃん無事生まれました♡」
はみんな心配していたので格別に嬉しかった。
よく行く居酒屋の再開をこっそり書いとく上司もいた。
三宮、元町、神戸に物見遊山の人が増えてきたように思えた。
会社の近所で、店舗を再開する前の喫茶店がコーヒースタンドを始めていた。
スタバやドトールはまだなくて、テイクアウトのコーヒーは結構売れていた。
父は職場に行きっぱなしで、時々帰宅した。
家の食器がだいたい割れて、私がモロゾフのプリンのガラスコップで何かを飲んでいたら、
「みんなモロゾフのプリンのコップは割れんかったって言うとったわ。」
と父が言った。
食器棚の開いた扉から落ちた食器類はだいたい割れた。
地震対策などゼロだった。
高級な陶磁器は割れて、モロゾフとミスドのおまけのマグカップは割れなかったというのが当時のあるあるだった。
人と会って集まれば、どこでも地震の話になった。
体験を話すことで癒されていたのかもしれない。
震災後の会社で、自宅の近所で、神戸の人は神戸が好きなんだと再認識することは多かった。
地震は起こってほしくなかった大変な経験だった。
それぞれの人が辛いことを抱える中で、日が暮れて朝がきた。
困難な毎日でもほっと和む瞬間は確かにあった。
阪神淡路大震災以降、日本で世界で自然災害があった。
そのたびに「私だったかもしれない」という思いは30年経った今も常にある。
立ち上がる人々のニュースを見るたび、困難な日々の中に小さな和みの瞬間があることをいつも祈っている。