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チェロと珈琲
お店の写真は一枚もないのだけど。
築70年以上の建物をリノベーションしたカフェだった。
週3日のオープン。
「3人以上のグループのお客様、お子さま連れのお客様の入店はご遠慮ください」
「空席に関わらず長時間のご利用はご遠慮ください」
と書いた小さな看板が出ている。
重厚な引き戸から中の様子は伺えない。隣りの壁の小さな窓から灯りは見える。
気難しい店主がいるのだろうか。
気を使いながらコーヒーを飲むのは嫌だな。
他にお客様がいるのかさえわからない。
私はひとり客で入店の条件はクリア。
怖そうな店主だったら、どんなに熱いコーヒーでも最短で飲み干しお会計をすればいい。
躊躇することはない。
ドアの取っ手に両手をかけ右方向にゆっくりスライドする。
店の中に入る。
ごろごろとドアを閉める。
「こんにちは」と明るい声がした。
「お好きな席にどうぞ」
気難しそうな店主も怖そうな店主もいない。
正面からはわからなかったが、壁の厚みがわかる小さな窓が並ぶ。
蔵?
壁は漆喰だ。
天井は高く古い梁が見える。
席数は10くらい。
アンティーク、ビンテージ、古い時計が飾り棚にいくつも置いてある。
古くてかわいい動物たちの置物もところどころに。
気難しさはまったく感じない店内。
お客は私だけ。
窓際のカウンター席の重い椅子を引くと、その音が心地よく響く。
メニューはコーヒーと紅茶とハーブティー。
季節の手作りスイーツ2種。
コーヒーと栗のショートケーキを注文した。
小さくバロック音楽が流れている。
小さい音だが響きがいい。
豆を挽く音がして、ハンドドリップのコーヒーと手作りケーキが運ばれてきた。
この方がひとりで切り盛りしておられるのだろうか。
土ものの長方形の黒いお皿にケーキとキャラメルソース、ローズマリーが添えてあり美術的。
あまりの静謐さに
「写真を撮ってもいいですか?」
と聞けなかった。
ケーキはスポンジもクリームも栗もすべて美味しかった。スポンジの軽さが特に好きだった。
ちょっとくすんだように見える色のスポンジだ。
パティスリーSATSUKIのスポンジもこんな色だったな。
「〇〇を使っています」など
材料についてはどこにもなんにも書いてないが、いい素材を使っていらっしゃるのだろう。
ほろ苦のキャラメルソースがまた美味しい。
コーヒーも好きな味だった。
ゆっくりと飲むことができた。
バロック音楽に耳をすませる。
バッハ。チェロの短い曲集。
私のほかにお客様はいない。
チェロの音が静けさを増す。
店主はどこかに行ってしまった。
コーヒーを飲み終わってから2曲聴いたところで席を立った。
ごちそうさまでした、と声をかける。
店主がにっこりと現れた。
ただ静かに過ごしたい人のためのカフェだった。
コーヒーも栗のケーキもチェロの音色もひとりの時間をしっくりと満たしてくれた。
ドアを開けて外に出る。
外の方が明るく感じる。
重いドアを左にスライドして静かに閉める。
静けさはそのまま大事にしたい。
小さな思い出に、見上げた夕焼け雲を一枚だけ。