グローバル化と資本主義
AIに文書を校正させると「グローバル化」という言葉が付け足される。これはもとの文にはない。現代社会へ向けた文にするにはグローバル化という言葉を付け加えなければならないということらしいが、もとの自分が書いたものではないので、よくわからない。それ自体が儀礼文の定型語のようにみえてくる。レーニンの帝国主義論における金融資本主義なるものとどう違うかもよくわからないし、そもそも資本主義と言う言葉もわからないので資本主義批判もよくわからない。マルクス主義は「搾取」概念をアプリオリに立ててしまうので、その範囲では搾取を実現するのが資本であるとしか言っていないトートロジーでしかない。それでは商品化と言い換えたらどうかということだが、商品化とは何か?東大名誉教授の安冨歩氏は、自身が住友銀行で働いていたバブル期に、自分は資本論を読んでいたから自分がやっていたことがわかっていたが、同僚はわかっていなかった、と言っていた。この資本論とは主に2巻であり、当該部分を探してみるとおそらくはじめの三章までの簿記会計部分と思われる。それは貨幣資本1→生産資本→商品資本→貨幣資本2の循環で2が1より大きいということだが、要するに買った値段より高く売るということだけである。ここで生産資本は原材料と生産道具(インフラを含む)と労働力の3つで構成されているのだが、(更に商品資本は倉庫や物流経費も含む)要するにこの循環で世界は構成されているのだと見ることに等しいように思われる。レーニンは国家独占資本主義における管理社会から必然的に社会主義的管理社会への移行が生じるとみなして、実際には経営の仕方はわからないから専門家とプロレタリアートの工夫に任せると投げ出したが、商品化から出てくる矛盾を国家が補填するのが国家の役割ということになり、漸次的に修正していくものであってとくに資本と国家の関係について大雑把な補完関係以外の定義は必要としないと言うか不可能にも見えなくもない。国家は労働力の再生産の基盤インフラを教育・医療・福祉によって作り出す役目であると言えば資本主義に合致してしまい、その全体循環を問題にしないで自由主義者も反自由主義者も一面しか見ていないといえなくもない。この路線を極限化すれば人類の生存の意味自体無いように見えるからだ。リュック・ボルタンスキー「資本主義の新たな精神」では資本主義自体は先の安く買って高く売る自体とかわらない定義だが、国家を無化する動きがあらわれているということだけが新たに付け加えられている。しかしそれは一部のエージェントであり、国家自体がどうなっているかについては特に無い。
ここまでで論旨が見えなくなってきたので以下のようにAIにかけたがより不明瞭になっている。いま私の感想は国家論において一般論が意味をなさないように財政論もいみをなさず、技術論という一般化もできないということである。
chatgptによる改変
改善後の文章
タイトル案:
「資本主義の循環構造と国家の役割—現代社会における変化と課題」
本文:
現代社会を語る際、「グローバル化」は頻繁に適当なキーワードとして用いられる。では、資本主義の構造と国家の役割について考察し、それらがどのように現代社会において再編されつつあるかを論じる。
資本主義の本質は「買った値段より高く売る」という単純な構造がある。 この循環は、貨幣資本が生産資本と商品資本を経由して再び貨幣資本に向かって戻ってくる仕組みである。プロセスは、原材料、設備、労働力のこの基本原理は、マルクスが『資本論』で論じた「搾取」の概念に基づいており、資本主義社会の動態を理解するための重要な敬意を提供しています。
レーニンは『帝国主義論』に関して、この資本主義の進歩が金融資本主義と国家資本主義を経て、管理社会移行する過程を指摘した。教育や医療、福祉などのインフラ整備労働力の再生産を担う役割を果たしてきた。
今では、ボルタンスキーの『資本主義の新たな精神』に見られるように、資本主義の構造自体は大きく変化していないもの、国家の役割が縮小し、一部の要因による管理が強調される動きこの変化は、国家の介入を否定し、市場原理の自由化を推進する新自由主義の傾向と重なり合う。危険を孕んでいる。
資本主義は平和経済システムではなく、社会全体を支配する文化的・政治的でもある。そして、資本主義が持つ自己増殖的な論理が、最終的に人類の生存や社会的意義を疑う可能性があることを注意しなくてはならない。