理解と所有、意識と無意識

 そもそも理解とは何か?何かを所有することか?ある著作家の全貌、あるいは特定のジャンルの内訳を所有仕切るなどできるはずもないし、試験の通過以外に認定もできないし、理解=把握というシニフィエ、実体は無い。とすればそのジャンルを物理的、経済的、人員的に構成する共同体の加入離脱の循環の中で、専門家の維持という集団の暗黙知によるのだろうか。だからすべてを理解することは出来ない、というのは同義反復である。それでは何を持って全貌なりジャンルの境界確定とみなすのか。で、何千冊とか全集とかの「外形」あるいは数値基準がでてくる。一方は定量、一方は不可知である。このような二元的な言葉のトートロジーである。

 知と不可知というが、知るとは何なのか?問題の建て方が間違っていたはずなのに、元に戻してしまっているのではあるまいか?堂々巡りのトートロジーの飽和した問いを散種だの多様性だの多元性と言っているだけなのではあるまいか?

 知覚の構造などとしてしまえば知覚とは何かが予めわかっていることになる。一般的な調節機構などとしてしまえば何も言っていないに等しくなる。身体の構造ならまだ問いかけたりうる。その場合構造を問題にすることが即身体を問題にすることになるが。

 フーコーは主体、意味、意識、情報を遠ざけた。その結果書かれたものの集積が知となった。それは知ることではなく制度化された知の平面である。問題構成を変えてしまったのだが、非常に機能主義的である。

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