みくのしんさんの「喉元過ぎれば熱さ忘れる」についての葛藤
今朝の長イキ先生のツイートをみて胸がざわついた。
というのも、このセリフ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」といえば、みくのしんさんのある日のnoteを思い出す。それがこれ。
ここで、喉元過ぎれば熱さ忘れるについて語っている。
喉元過ぎれば熱さ忘れるについて語るってなんだ?ではあるが。
なぜ僕がこのnote(※以下、喉熱note)を覚えているか。
それは、みくのしんさんのnoteまとめ本作成のためのアンケートに答えるために、今までのお気に入りを選別して僕なりにまとめて送信をする作業をしていた時に、これもリストアップされていたからだ。
でもかなり量が多くなっちゃたし、あんまり送りすぎても迷惑になるかと思って泣く泣くリストから外した。
そのセリフをみくのしんさんがつぶやいてた。
ざわついて当然である。
仮に、仮にだ。
僕がその喉熱noteをリストに入れてアンケートに送信していたとする。
すると僕は今朝の長イキ先生のツイートを見て、
「俺のアンケート読んで気に入ってくれたのかな!?やったーーー!!」
と、狂気乱舞しただろう。
でも、実際の僕は送っていない。
それなのにみくのしんさんが「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とつぶやいていたとなると、可能性は2つ。
・他の誰かが送信して、みくのしんさんがそれを読んだ。
・実は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のセリフはみくのしんさんにとって、ふとした拍子に口をついてしまうほど心に根付いたフレーズである。
まぁ確かに、ながみくイベントが終わってしまって興奮した様子が冷めていく様子(長イキ先生へのフラストレーションが溜まっていた日々も、ライブが終わってみると楽しい時間だったってことの方かも)を表すのに的外れな言葉ではないから、自然に口をつくこともあるかもしれない。
でも僕は前者の可能性に嫉妬してしまう。
僕ではない誰かが喉熱noteの良さに気づいて、みくのしんさんに届けたということが悔しくて悔しくて。
だけど、待てよ。
たとえ僕が喉熱noteを送っていたとしても、僕が送ったか送らなかったかに関わらず、さっきの可能性のどちらかを引いてみくのしんさんは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とつぶやく訳である。
それを見て僕は、
「ざまあみろ!!俺のアンケートがみくのしんさんの人生を動かしたぞ!!ハッハッハッーーー!!」
と、欣喜雀躍することになる。
盛大な勘違いだ。危ない危ない。
送らなくてよかったかもしれない。
と、結局みくのしんさんへの歪んだ自己認知欲求はまだ全然捨てられていない事がわかって、また自分を戒めることになった。
こんなことばっかりだ。