院試勉強中に米津玄師を垂れ流す
数日一人きりで部屋に籠ってずっと院試の過去問を解いている。が、今書きたいのはそれではなくその間流し続けている音楽である。
ユーチューブで米津玄師さんの曲やラジオと称した彼の喋りをひたすら垂れ流しながらやっているのだが、米津玄師って凄いんだなと素直に思った。割とその通ってきたコンテンツに共感できる。映画が好きで、宮沢賢治が好きらしいことが分かる。し、この人の映画経験は明らかに自分より蓄積されているぞ。話の中にちょいちょいビートたけしや黒沢清や深作欣二などの映画監督を挟んでくるのは、なんか映画ネタを語り合いたい欲求とかあるんかと思う。折角映画から受け取ったものをさあ、やっぱ他の人と分かち合いたく言いたくなるよな。などと勝手に解釈して共感していた。
映画や宮沢賢治の物語が我々に時に暴力的な贈与を行うように、米津玄師の歌にも確かにこちらに投げかけるものがあると感じる。ラジオで「自分が何かの作品で感動して、それと同じものを作ろうとしても、ネットからイラストをダウンロードして再アップロードしたら解像度がガタガタになってしまうだけ」みたいなことを言っていて、(※うろ覚えなので注意。こういう例えをするあたり自分の知らないインターネット黎明期からネット住人だったことの表れやなーいいなーとか思うというのは置いといて)世に様々な表現法があって良いよねと思った。
例えばドン・キホーテという戯曲は、当時の社会を風刺するという気概があって生まれたものであるが、それが演劇やバレエの演目になり、それ用の音楽も制作されている。或いは現代インドの民族的調和を糾合するのに、政治の面から呼びかけることもできるし、RRRのように「論を捏ねてないでこれ観ろや、千の言葉を連ねるより実感するやろが」的やり方もある。
同じ一つのものを表現するために、様々な表現方法があっても良い。それを受け取った我々消費者もまた、独自の文脈の中でそれを消化して、他のものと組み合わせ拡大再生産していけば良いんちゃうと思う。再生産と言えば、宮沢賢治に感銘を受けた幾原邦彦が輪るピングドラムを作り、その弟子である古川知宏がレビュースタァライトで「アタシ再生産」を謳ったのも繋がりが感じられて好きである。