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小栗の椿 会津の雪⑫


第3章「三国峠」③

 三国峠で会津兵が長い敗走の道を進んでいた閏四月二十四日、越後では堀之内に北陸道監府軍が侵攻した。
 三左衛門は路銀調達に出かけた兼五郎の帰りを待てず、堀之内の母堂らと合流していた。
 伝三郎は新潟へ足を伸ばし、紙問屋の藤井忠太郎に繋ぎをつけた。藤井家は、小栗忠順の父、忠高が新潟奉行の際懇意にしていた関係で、母堂のことも覚えていた。敵方の侵攻の時期を見極め、藤井屋の船を手配して川で堀之内を出たのが、閏四月二十三日。敵兵が堀之内に侵攻する一日前のことだった。
 炭の間に身を隠し、奥方の身体を気にしながら船に乗るさいは、川幅の広く悠々と平野を流れる信濃川の大きさに圧倒されていた。山が遠ざかり、風に潮の香りが混ざる。海の気配に、さいは故郷から途方もなく遠い場所まできてしまったという気持ちになった。
「さいは、海を見たことがないのですか」
「ええ。一度も。海は、おっかねえっていうじゃないですか」
「さいにも恐いことがあるのですね」
 奥方が突き出た腹に手を乗せてクスッと笑う。隣にいたよきが、突然さいの手を握った。
「恐いなら、私が手を握っていてあげるわ」
「まあ、よき様」
 自然に笑みが浮かんだ。慰めるのは自分の役割なのに。
    すぐそこまで、敵が迫っている。身重の身での辛い長旅。それでも、奥方もよきも明るくくじけずに振る舞い、時折微笑むこともある。
「まあ、あれが海?」
 二日後に新潟に着き、さいは初めて見る水平線を見渡した。
 藤井忠太郎は、以前の奉行の未亡人である母堂らを快く迎えてくれた。亡き夫の墓参りに付き添い、小栗家が供養のために預けた五十両のうちの半分以上を返してくれた。
 さらに、朗報がもたらされた。新潟港は重要な佐渡金山の中継地点であったため、幕府直轄地となっていた。会津にとっても物資を運ぶ重要な港。近くに酒屋陣屋が設けられていた。その副元締をしているのが秋月悌次郎だという。
「秋月殿が?」
 先に酒屋陣屋に出向いた伝三郎からその名を聞いたその奥方は、懐かしそうに口にした。
「権田へ向かう前日にも、秋月殿は来て下さいました。その時も、上州は不穏ゆえ会津へと何度も誘って下さって……」
 奥方がその時のことを思い出したのか、袖でそっと目頭を押さえる。
「秋月様に、事情をお繋ぎして参りやした。会津の鶴ヶ城に特使を派遣し、横山様にも知らせて下さるとのことです」
 伝三郎の言葉に、奥方も母堂も手を取り合って喜んだ。
 二日の藤井家の滞在の後、一向は駕籠に乗り酒屋陣屋で会津藩士秋月悌次郎と対面した。
 奥の間に通された母堂や奥方は上座に案内され、恭しく頭を下げた面長の男が秋月悌次郎だった。顔を上げ奥方や母堂と目が合うと、途端に涙ぐみ、再び頭を畳に擦り付けた。
「小栗様のこと、大変御労しく無念であります。こんなことなら最後にお会いした際、テコでも動かず上州行きをお止めして、会津にお越しいただくべきでした」
「お顔を上げて下さい。殿こそテコでも動かぬ御気性。秋月殿のせいではありません」
 奥方はその時のやり取りを思い出したのか、どこか寂しそうに笑った。
「みな様も、よくご無事で……。ここまでの道のりの苦悩を想像すると慚愧に堪えませぬ」
「この者達に大変世話になりました」
 母堂がそう言って、続きの間に並ぶ三左衛門達を示した。
「権田村村役人中島三左衛門と申します。殿のご遺言を受け、ご家族を会津の横山主税様のお屋敷へお送りするつもりでございます」
 三左衛門がそう言い、さいらも頭を下げる。
「うむ。ご苦労であった。本来なら、わしがお送りしたいところではあるが、こちらも立て込んでおるゆえ、会津までの護衛を引き続き願いたい。行く先々の宿場には使いを出し、粗相のない様申し伝える」
「ははあ。有難いことでございます」
 秋月の配慮に、三左衛門は深く低頭した。
「秋月様に一つお聞きしたいことがあるのです。先日、我等の仲間が三国峠に向かったのですが、その後の行方が分かりませぬ」
「三国峠か……」
 秋月が渋い顔をした。越後での戦が苦戦しているという話は耳に入った。長岡を中心とした越後諸藩が、新政府軍に対し不戦の交渉をして決裂したという噂も。
「三国峠では上州側で衝突したが、小出島陣屋へ撤退したと聞いた。小出島では、今でも睨みあっておるとことだ」
「そうですか。無事だといいのですが」
 奥方の眉が下がる。
「お仲間のことは、気にかけておきましょう」
 秋月の言葉に、伝三郎は無言のまま拳を震わせた。
「撤退……」
 さいは、この言葉を口の中で噛み締めた。
 兵が衝突し、撤退する。戦の激しさを、さいは想像することしかできない。
「大丈夫だ。銀十郎達は訓練を受けている。ちょっとやそっとのことじゃ死にゃしねえよ」
 伝三郎が、さいに耳打ちした。
「……うん」
 伝三郎の言葉を信じるしかない。さいは、引きつる笑顔で頷いた。
 三国峠に旅立ったのは、歩兵として訓練を受けた仲間だけじゃない。敵討ちをすると言って聞かなかった富五郎と、富五郎が暴走しないように見張っていてくれと伝三郎に頼まれた光五郎だ。二人は大丈夫だろうか。
 みんな無事でいてくれるといい。
 さいは、思わず両手を合わせた。最後に話した夜の、銀十郎の手のぬくもりを思い出した。
 
                 ◆
 
 秋月が手配した駕籠に奥方達三人が乗り、さいは奥方の駕籠に寄り添い、三左衛門らが護衛を務め、一行は会津へ向けて出立した。街道沿いは不穏な輩もおらず、敵の目を気にすることもない。
 新緑の低い山々、阿賀野川の濁った水が堂々と流れ、見上げる青い空には雲雀が鳴いて飛んでいる。遠くにそびえる山を越えれば、そこは会津だ。
「会津に着くのですね。本当に」
 誰に言うでもなく、さいはつぶやいた。
「着くのが残念って風じゃねえか」
 前を歩いていた桂輔が、耳聡く聞きつけた。
「そんなことはないけど。のんびりと景色を見ながら旅をするなら、悪くないなって……」
「そうだなあ。ひでえ道ばっかりだったし、街道では人の目が気になったしなあ」
 そう言って、桂輔が伸びをした。
 人目を避けて歩いた獣道。いつ追手が来るとも分からず足の竦む真っ暗闇を歩いた夜。命を狙われ舐める様な視線を感じた恐怖。それを思えば、街道をゆるゆると進む峠越えなど苦ではなかった。
「こんな景色、うちのヤツにも見せてやりたかったなあ」
 桂輔が振り返って、船の行き交う川の方に目をやる。さざめいた水面に、日の光が差す。
 一瞬さいの隣に濤市が立っている気がした。密やかな笑顔をした横顔を見上げる。そこには誰もおらず、柳の枝が風に揺れているだけだった。
「桂輔さんは、どうして来てくれたの? お父っつあんに頼まれたから?」
 江戸に行っていないのに、逃避行に協力してくれた村人は、みな普段から三左衛門と懇意にし、信頼のおける者ばかりだ。桂輔もその一人に違いない。
 けれど、桂輔は四番目の男の子が生まれたばかりだ。子煩悩で、嫁さんのことも大事にしている。誘いを断ることもできたはずだ。
「それもあるけど、濤市さんと約束しちまったからなあ」
 懐かしそうに川面を眺めながら、桂輔は独り言の様につぶやいた。
「旦那様と?」
「ああ。男同士の熱い約束ってやつよ。濤市さんに頭を下げられちゃ、断れねえからな」
「……」
 桂輔は、濤市が珍しく心を許している数少ない友だった。恐らく、さいの知らない濤市を知っているのだろう。
 日に焼けた横顔を、さいは少し羨ましい気持ちで眺めた。
「濤市さんも、本当はさいちゃんと一緒に来たかったと思うぜ。あっちでやることがあるから仕方ねえけどさ」
「やること?」
 さいは、横を歩く桂輔を見上げた。川面を流れる風が心地いい。
「まあ。濤市さんにしか出来ねえことだよ」
 桂輔が日焼けした顔にニッと笑みを見せる。さいの母や妹弟を守るだけではない何かを含んでいる様な言い方だった。
 そう言えば、濤市が一度だけ正体の掴めない程酔っぱらって帰って来た時、送り届けたのは桂輔だった。『さいちゃん、すまねえな』と、目配せをした桂輔の顔。呑ませすぎたことを詫びたのだとばかり思っていた。
 けれど、あの晩痛いくらい力強く濤市がさいの身体を抱きしめた。『すまない』と何度も謝りながら。あれは、桂輔の詫びと関係があるのだろうか。
「それにしても、すげえ川だなあ」
 桂輔が、川を眺めながら言った。
 黒く濁った川は、どこまでも豊かな水量を湛えて流れる。故郷の権田村を流れる澄んだ清流とは、全く違う。目の前にそびえる山を越えれば、そこは会津だ。
「さい。御簾を開けてちょうだい」
「はい」
 駕籠の中の奥方に声をかけられ、さいは小窓を開けた。
「本当に豊かな川ね」
 小窓から外を眺めた奥方が、眩しそうな表情をする。
「会津の御家老、横山主税様という方は、どの様な方なのでしょうか」
「若くて見目麗しく、とても聡明な方よ」
「お若いのですか?」
 さいは意外に思った。小栗上野介が真っ先に頼る会津の家老なら、年配の気難しそうな侍ではないかと勝手に想像していた。
「殿が、横山様をフランス留学の際にお世話したのです。それ以来懇意にして下さって」
 横山主税のことを話す奥方の目が優しい。日頃から親しくし、お互いを信頼している様子が感じられた。
「それなら、きっとお子様のことも、温かく迎えて下さいますね」
「ええ」
 奥方が駕籠の小さな窓から街道の風景に目をやる。小さな子供二人はしゃぎながら走っているのを柔らかな視線で見送った。


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