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小栗の椿 会津の雪②
第一章 斬首①
慶応四年四月。濤市が文机の前で難しい顔をしている。
「お呼びですか」
眉間の皺が深く刻まれた夫の表情に、さいは一瞬部屋に入るのをためらった。
「ああ。ここに座りなさい」
さいの方に目を向けた濤市は、いつも通りの穏やかな顔だった。
「頼みがあるのだが……。さいが嫌なら断ってもいいのだ」
曖昧な言い方は、それほど頼みづらいことなのか。それとも、娘を亡くして塞いでいるさいを気づかってのことだろうか。
「何でしょうか?」
背筋を伸ばして、さいは尋ねた。
「さいに、東善寺の手伝いを頼まれたのだ」
「東善寺の? それでは、小栗様の?」
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、将軍が江戸に逃げ帰った後、小栗は徹底的に戦うべきと主張した。薩摩や長州を中心とした西軍を陸と海から挟み込んで壊滅させる作戦を立てたが、将軍は既に戦う気をなくしていた。
小栗は職を解かれ、隠遁の地に権田村を選んだ。仮住まいとして東善寺にいる。
三左衛門はしょっちゅう東善寺に出入りしていて、その分濤市も家業を任され忙しそうにしていた。
「いや。ご用人の塚本真彦様が乳母を探しているのだ」
「ああ。それなら……」
さいは、ほっとして胸に手をあてた。
乳の出の悪い母親から、時折もらい乳を頼まれていた。人の子に乳を与えるのは、死んだ娘を思い出して辛くもなったが、同時に誰かの役に立つことが嬉しくもある。
「かよちゃんも、手伝いを頼まれたそうだ。賑やかな方が気も紛れるのでは、と大旦那が言うのでな……」
三左衛門も、娘に気をつかっているのだろう。そう言えば、母も、妹も、やんちゃな弟にでさえ、腫物に触れるみたいに扱われていた。
「私でお役に立てるのであれば……。けれど、どうして今頃?」
小栗上野介とその家族が権田村に移って来たのは、二か月も前だ。話があるなら、もっと早くあってもよさそうだ。
「乳母も女中もみな里に帰したのだ」
「どうしてですか?」
「高崎、安中、吉井の三藩が、小栗様を引き渡せとやってきた」
濤市の眉間の皺が深くなる。
「その後ろにいるのは、薩摩や長州などの西軍だ。小栗様が新たな城を築き、大砲を隠し持って、世の中の転覆を狙っている、と」
「そんな、根も葉もない戯言ですよね」
「もちろん。高崎藩は数日前も検めに来たが、築いているのはお住まいだけで、大砲も弾のない飾りだと、納得して帰られたはず。しかし、今度は有無も言わさずに連れていくと言ってきた。弁明のために養子の又一様と塚本様が高崎藩に向かったが、牢に繋がれているらしい」
「まあ……」
そんな難しい局面に立たされているなど、さいは全く知らなかった。三左衛門の姿をここ数日見なかったはずだ。
「でも、小栗様にはそんな意思はないのですもの。弁明は聞いてもらえますよね」
希望を込めて、さいは夫の顔を見る。
「それが、疑われるだけの根拠があるのだ」
「え?」
「小栗様が村に来たばかりの頃、金を狙って暴徒が押し寄せたことがあっただろう」
「ええ」
さい達は、萩生村の親戚の家に預けられていたので詳しいことは知らない。
でも、噂では、ならず者らが周辺の村々に押し寄せ、仲間にならないと村に火をつけると脅した。しぶしぶ従った近隣の村人も含め、二千人にもなった暴徒が、権田村に押し寄せた。
それを十数人の歩兵と村人百人足らずで追い払ったらしい。
「二千人の暴徒を一日で追い払ったのは事実だ。小栗様は、御公儀の要職を歴任された切れ者で、外国との繋がりも強い。生かしておくには危険と思われているのかもしれん」
「そんな……」
さいは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そんな状況だから、わしは、さいを巻き込むのは反対だ」
絞り出す様に、濤市が言った。眼差しからさいを心配しているのがわかる。
それでも、さいの心は決まっていた。
「乳母も里に帰して、小さなお子様が不安に過ごしているのでしょう。だったら、お手伝いしたいと思います」
畳に手をついて、夫の顔を見上げた。思いがけず、力のある声が出た。
「さいなら、そう言うと思っていた」
心配そうに見ていた夫の目尻が、ふっと下がる。
「家を空けることになりますが、きちんと食べてくださいね。おっ母さんには、よく言っておきますから」
「ああ」
「旦那様は、放っておくと食を忘れるのですもの。これ以上痩せられては、私が尻に敷いているのかと疑われます」
「それは、沽券に関わるな」
「ええ、お互いに」
くすりと、さいは笑った。唇に笑みを浮かべる夫と向かい合いながら、こんな風に笑い合うのは、久しぶりだと思った。
「元気が出た様だな。大旦那の言う通りだ」
笑っているのにどこか寂し気な雰囲気を漂わせた濤市は、ほっとした様につぶやいた。
◆
「わあ!」
東善寺の境内に、竹蜻蛉が上がると、子供達から歓声が上がった。十歳と五歳と三歳の女の子は、目を輝かせて竹蜻蛉の飛ぶ方へ、競う様に走って行く。
一番小さな赤子はもう一歳になりそうな男の子だった。さいが到着していた時にはぐずっていたが、抱いて乳をくれようと抱き上げると、すぐに寝入ってしまった。お腹が空いているわけではなさそうだ。
恐らく、この寺を包む不穏な空気と、母親の心細さを敏感に感じ取っていたのだろう。
赤子を布団の上に寝かせたさいは、不安げな表情でこっちを見ている女の子達を庭に誘った。障子を開け放った部屋に暖かな春の日差しが差し込む。外から聞こえる姉達のはしゃぐ声にも起きず、赤子は寝息を立てている。
「まあ。楽しそうね」
鮮やかな着物を召した少女が顔を覗かせた。
「よき様。聞いてください。さいが抱いた途端、泣き止まなかった弟が寝てしまったの」
「さいが、竹蜻蛉をくれたの」
幼い女の子達が口々に言って駆け寄る。
「よき様ですね。お初にお目にかかります。さいと申します」
さいは、畏まって頭を下げた。
小栗上野介の養女のよきは、今高崎藩の牢で囚われの身の又一の婚約者だと聞いていた。
「あなたが、三左衛門の娘ですね?」
そう言って目尻を下げたその目は、昨夜泣きはらしたかの様に赤い。華奢で色白の、百合の花の様な可憐なお姫様だった。
◆
「こんなに家を空けて、旦那様は平気なの?」
東善寺の一室で、高価な着物を行李に入れながら、かよが尋ねた。
結局、泊まり込みで世話をするようになって、もう二日になる。今日になって動きがあった。権田村のすぐ隣三ノ倉まで兵隊が押し寄せているという。
万が一のために、荷物を運ぶ準備をしていた。
「平気よ。うちの旦那様は、お優しいもの」
着物を畳む手を止めずに、素っ気なくさいは答える。
「あら。ごちそうさま」
かよは、からかう様につぶらな瞳を細めた。
「そう言えば、さいちゃんの旦那様って、怒ったところとか、威張っているところとか、見たことないわ」
「私も、ないわよ」
「へえ」
かよの目を見開いて驚く姿が、どこか小動物の様に見える。
「権田村有数の大尽様の若旦那とは思えないわね」
「大尽様なんて、大げさよ」
村役人をしている三左衛門は、小作を使って田畑を耕させたり、酒蔵を営んだりもしているが、家族はみな質素に暮らしている。贅沢が似合う名主の佐藤藤七の弟とは思えないほど、夫も地味で質素な暮らしに馴染んでいる。
恐らく、婿としても、夫としても、申し分ない方なのだと思う。父の選んだ人に間違いはなかったということだ。
「羨ましいなあ。お年の割には、いい男ですもんね」
「年の割には余分じゃない」
「でも、何て言ったらいいかなあ……」
かよは、幼さの残る丸みを帯びた頬に指をあてて、小首を傾げた。
「さいちゃん達って、老夫婦みたいなのよね」
「……」
かよの言葉に、思わずさいは艶やかな臙脂色の打掛に伸ばした手を止めた。
「老夫婦?」
言葉にして、合点がいった。くすりと、鼻から笑いがこぼれる。
「もう、失礼ね」
口ではそう言いながら、笑いが止まらなかった。
本当に、その通りだと思う。激しく求めあうことも、感情をぶつけ合うことも、胸がときめくこともない。一緒にただ寄り添って、同じ方向を向いて、時々遠慮がちに触れ合って、お互いの傷を真綿に包んでそっと見ないようにしている。生まれたばかりの子を亡くしてから、それは顕著になった。
そう言えば、前に一度だけ力強く抱きしめられたことがあった。
いつだったか、珍しく分別がつかぬ程酔った濤市が夜遅く帰ってきたことがある。布団に寝かそうと寝所へ連れて行くと、思いもよらぬ強い力で抱きしめられた。『悪かった。すまなかった』と、濤市はうわ言の様に繰り替えし、そのまま寝入ってしまった。
あれは、何に対して謝っていたのだろう。少なくとも、取り乱した夫の姿を見たのはその時だけだ。
「けなしているわけじゃないのよ。似合いの仲のいいご夫婦だと思うわ。……でもさ、さいちゃんが、大人しくいい奥さんしているのが、何だか似合わないんだもの」
かよは、必死で取り繕うとするかの様に続けた。
「あんなにお転婆で、男の子と遊び回って、花嫁修業から隙あらば逃げようとしていたさいちゃんが……」
「かよちゃんだって! 一緒に裁縫の手習いをしないで、柿を採りに行ったじゃない!」
「でも、柿の木に登って、枝が折れて落っこちそうになったのは、さいちゃんよ」
「その後、三つも柿を食べて、お腹を壊したのは、かよちゃんよ!」
ぷっと、かよが噴出した。我慢しきれずに、さいもふふふと笑う。
「男の子に柿を盗られて泣いている私に、追いかけて取り返してくれたのも、さいちゃんだったよね。頼もしかったなあ」
懐かしそうに、かよがつぶやいた。
「……もう。何だか、褒められている気はしないわ」
着物を仕舞い終わり、行李に蓋をしながら、さいは苦笑した。
こんな風に、おしゃべりをして過ごしたのはいつ以来だろう。内心反対をしていても、ここに来ることを許してくれた濤市に、さいは密かに感謝する。
「さいちゃんは、銀ちゃんにはもう会った?」
かよの口から、唐突にその名が出た。本当に唐突で、不意打ちだった。一瞬、笑みが固まる。
「会ってないわよ」
さいは立ち上がり、障子を開けて、そっけなく答える。
小栗上野介と一緒に帰って来ているのだろうとは思っていた。
東善寺には、護衛に当たっている歩兵がいた。歩兵達は権田村の出の若者だけれども、見慣れない黒い軍服姿は近寄りがたかった。
銀十郎の姿は敢えて探さないようにしていた。人妻になった自分が、どんな顔をして会ったらいいのか、わからなかった。
「私、さいちゃんは、てっきり銀ちゃんと結婚するとばかり思っていた」
「かよちゃん」
さいはほんの少し低い声で諫めた。
かよは失言だったと言いたげにぺろりと舌を出し、肩をすぼめる。
軽口を叩き合える友と過ごす時間は貴重だ。幼なじみならではの遠慮のなさも心地いい。けれど、決して口にしてはいけない言葉もある。もう子どもの頃と同じわけにはいかないのだ。
「かよちゃんこそ。許嫁様とは再会できたんでしょう?」
さいが振り返り、お返しにからかおうとすると、かよは頬をぷくりと膨らませた。
「ううん」
「伝三郎さんは、戻っているんじゃないの?」
かよの許嫁池田伝三郎は、信濃の相撲取りの息子だった。大きな体躯をした力の強い男で、須賀尾村に養子に来た後、池田家の養子に入り、小栗上野介の家来になった。
村に帰れば、かよとめでたく祝言の運びになるものと思っていたのに。
「帰って来ているけど、私とは目も合わせようとしないんだもの。たまに家に来ても、兄と難しい話ばかりで」
「お殿様の一大事だもの、仕方ないわよ。これが終われば、祝言の日取りの話があるわよ」
さいは、そう言って浮かない顔のかよを慰めようとした。
「私、本当に結婚しなきゃいけないのかしら……。あ~あ、かけ落ちでもしようかな?」
かよが、ふうっと溜息を吐いた。
「かけ落ちするようなお相手がいるの?」
物騒な話題に、さいは思わず身を乗り出した。
「……そうねえ」
「さいちゃん。運ぶものがあるかい?」
縁側の外から光五郎が顔を覗かせた。大八車でかよの家に運ぶように、三左衛門に頼まれて来る手筈だった。
「光五郎さんなんて、どうかしら?」
かよがあっけらかんと言ったので、さいは思わず吹き出した。
「何だい? 何の話だい?」
「かよちゃんが、光ちゃんとかけ落ちしたいんだって」
笑いを含んだ声でさいが言うと、光五郎は真っ青になった。
「冗談でもそんなこと言うなよ。伝三郎さんは、歩兵の中でも有名だぜ。銃だけじゃなくて、剣でも殿様から褒美をもらう腕前らしいじゃねえか。そんな人の許嫁を奪ったなんて知れたら、命がいくつあったって足りねえよ」
「だめかあ……」
かよががっかりと肩を落とした。その幼さの残る横顔が、思いがけず真剣で陰りが見える。
「ほら。持っていくものをよこしな」
縁側から上がった光五郎が、着物でいっぱいになった行李を持って出て行く。
「これから、どうするのかしら?」
障子を閉めるさいの後ろから、心細げなかよのつぶやきが聞こえた。
「小栗様のこと?」
かよの傍らに膝をつき、さよは小声で尋ねる。かよは、こくりと頷いた。
夜の闇に紛れて、街道沿いにある東善寺から、かよの家に避難することになっていた。
敵兵から小栗上野介を匿う。それが、どんな罪になるのかわからない。そもそも、なぜ小栗が狙われているのかも、濤市の話を聞いても理解できない。いや、納得ができなかった。
「大丈夫よ。かよちゃんは、先に家に帰っていたらどう? 今晩、お殿様達がお邪魔するのに、準備もあるでしょう。そのまま家にいたらいいわ。お世話は私一人でも大丈夫だから」
さいは安心させようと、目を見合わせて言った。
ここにいたら危険だ。そのために、一旦逃げる。
詳しい話は聞かされていないけれど、それは容易に想像できる。さらに危険が迫れば、村境に近い大井磯十郎の実家へ移る算段になっていた。
「小耳に挟んだけど、会津に逃げるって話もあるらしいじゃない?」
かよが小声で言った。
「ええ」
さいも、三左衛門から聞いていたが、それは最悪の場合だと思っていた。
会津がどのくらい遠いのかわからない。でも、万が一そうなった場合には、さいも同行すると心を決めていた。
◆
『三左衛門には、いつも世話になっています』
昨晩、東善寺の奥の間に呼ばれたさいは、緊張して頭を伏したまま柔らかい声を聞いた。
『あなたも、乳母としても大変よくやってくれていると、感謝しておりました』
『そんな、滅相もございません』
有難い言葉に、さらに身が縮こまる。
江戸育ちのお嬢様に、境内いっぱいに駆け回って遊ばせるなどと、父の三左衛門から苦言を指されたばかりだった。
『さいに、子供達もすっかり懐いた様です。どうでしょう。このまま、私の子の乳母としても、務めてはもらえまいか』
『え?』
さいは思いがけない言葉に、顔を上げた。
絵巻物から出てきた様な美しく白い顔。年は三十を過ぎた頃と聞いていたが、実際はもっと年若く可憐に見える。白く細い手を、膨らんだ腹に当てていた。
その傍らに寄り添い身重の奥方を気遣うようにしている男がいた。目の細く浅黒い顔、決して大きいとは言えない体躯の男は、御公儀の要職を歴任した偉い方とは思われなかった。
『わ、私などで務まりましょうか? 私は自分の子さえ育てることのできなかった不甲斐ない母なのです……』
そう言いながら、思わず目を伏せた。
生まれたばかりの子を死なせてしまった。その後ろめたさは、子供達と遊び笑っていても心の奥底で消えることはなかった。
自分の子どもを死なせてしまったように、今度はお殿様の大切なお子を死なせてしまったら……。想像するだけで、心の臓が凍り付く。
『あなたにお願いしたいのです』
奥方の張りのある気品に満ちた声が、耳に入った。顔を上げると、奥方がまっすぐにさいを見つめている。
『子供達があなたに懐くのは、あなたが子供達を慈しむ心が通じているからです。私の子も同じ様に慈しんでくれませんか』
『……奥方様』
奥方の言葉が、胸の奥深くに凍り付いていた何かを溶かした。乳母になる。お殿様の念願の初めてのお子を、この手に抱いて育てる。そのために、自分は生かされたのではないか。
『私でお役に立てるのであれば』
『三左衛門にも、そなたにも、迷惑をかける。申し訳ないと思っておる』
小栗上野介の声が、胸に響いた。身分の高いお殿様の言葉とは思われない、偉ぶるところがない、心からの言葉に思われた。
三左衛門が、この方を生かすために奔走している理由がわかった。
『村に、これ以上迷惑をかけたくはないと思っている。しかし、わしは、我が子だけはなんとしても守りたいのだ』
小栗は、そう言って奥方の腹に優しく手を添えた。奥方の表情が柔らかくなる。
『力を貸してくれるか』
『もったいないお言葉にございます』
さいはそれ以上言葉に出来ず、再び頭を伏せた。
◆
「さいちゃん、まさか……」
かよが小柄な身体に似合わない強い力で、ぎゅっと手を握った。
「会津まで行く気じゃないわよね」
真剣な眼差しでさいを見上げるかよに、さいは微笑みかけた。既に気持ちは決まっていた。
「大丈夫よ」
さいは、かよの小さな手を握り返した。