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小栗の椿 会津の雪⑥
第2章 逃避行①
本宿村関谷の高橋家で奥方達を休ませ、入りきれない護衛の半分は伝三郎の実家である須賀尾村の上原家に向かった。
高橋家の裏門を内側から見張りながら、銀十郎は銃の手入れをしていた。
明るい昼間の移動は避け、ご家族は奥の間で休んでいる。一刻も早く離れたい気持ちはあるが、次はいつ布団の上で休めるかわからない。身重の奥方を思えば無理は出来なかった。
『銀十郎、おまえは将来何になりたい』
いつだったが、殿にそう聞かれた。夜は身分など関係ないと、殿は銀十郎らを座敷に上げ、学問を学ばせてくれていた。
『はい。俺は、殿のお役に立てるよう強い侍になりたいです!』
そう答えたのには、殿に忠義を示すのだという下心が少なからずあったのだと思う。
『なんだ。つまらんな』
殿は、興をそがれた様な顔をした。
『おまえの銃の腕前はたいしたものだ。遠くの標的を捉えられるのは、目がいいのだな』
殿に言われて、初めて自分の目が人より優れていることに気付いた。
『おまえは若く、何にでもなれる。その目で、もっと広い世界を見よ。学問という船は、おまえをどこにでも連れて行ってくれるぞ』
地球儀を示し、遠くを見る様な目をした殿の顔を忘れることはできない。
権田村に来て、殿は自分の屋敷の中に学校を併設しようと考えていた。村の子供達や若者に学問を教え、『のちはこの谷間の小さな村から太政大臣を出すのだ』と夢を語っていたのに……。
光五郎から聞いた殿の最期を思うと、熱いものが胃の辺りまでせり上がってくる。
弁明を聞く機会もなく、武士としての死に様さえ与えられなかった。殿の最後の願いさえ、無下に打ち砕かれようとしている。
薩摩や長州のヤツ等は鬼か。血も涙もないのか。もし自分がその場にいれば、殿から頂戴したこの銃で、薩摩や長州の者どもを端から撃ち殺してやったのに。
そうして何人かの敵兵を殺した後、西軍の兵に殺されただろう。歩兵の仲間の誰が見ていても同じことが起こるに違いない。
護衛の数が減れば、ご家族を会津にお連れすることは難しくなる。そういう意味では、三左衛門が光五郎を供に連れて行ったのは賢明だ。
「少し、話をしてもいいか?」
考え事をしていると、三左衛門に声をかけられた。銀十郎は思わず立ち上がり、姿勢を正す。
「まあ、座ってくれ」
手頃な山波石に腰かけた三左衛門に促され、銀十郎は同じように座った。
ふうっと三左衛門は、大きく息を吐き、空を眺めた。
白髪の混ざる髷。目尻に深く刻まれた皺。横顔を盗み見ながら、銀十郎はどこか落ち着かなかった。ガキの時から、この人のことが苦手だった。
「ここからは、二手に分かれようと思う。わしは、奥方様を連れて山を越える。母堂様とよき様は、伝三郎に案内させて、万騎峠から狩宿の関所を通る。他の者をどう振り分けたらいいか。おまえの考えを聞きたい」
「どうして、俺の……?」
尋ねた声が掠れた。
「銀十郎は、小栗様に認められた歩兵頭ではないか。わしは江戸で暮らした連中はよく知らん。養子に入りすぐ江戸へ行った伝三郎は、村の者のことは知らんだろう」
説明されて、そういうことかと納得した。ほっとしている自分がいる。掌の汗を太腿に擦り付けた。
「山道は、敵に見つかる心配は少ない。腕の立つ者、背負う力のある者を少数でいいでしょう。俺も、そちらへ行きます」
銀十郎は、銃の腕前の優れていて、力持ちで、忠義の篤い四人の名前をあげた。後ろめたい気持ちを隠し、早口で続けた。
「それ以外は、万騎峠に向かうのはどうでしょう。街道は、何が起こるかわかりません。護衛は多いにこしたことはない」
「……なるほどな」
三左衛門は思案する風に顎に手をあてた。
さいはどっちに行くのだろう。そう思いながら、銀十郎の口から、その名を出すことは憚られた。
『たった二年なのに、人って変わるものね』
そう言われた時、変わったのはどっちだと言い返しそうになった。
男勝りでお転婆だった女の子は、妻になり、母になり、子を亡くした悲しみを胸に抱えたまま、強い意志を持った女になった。
日の当たる明るい場所で昔の様に、自分が気軽に触れていい相手ではなく、手を取りたい衝動を抑えるのに必死だった。
身重の奥方の側にさいがいてくれれば安心だ。しかし、山道を女の身で歩くのは容易なことではない。
「さいは、母堂様と行ってもらう」
心を見透かす様に、三左衛門が言った。
「でも、それでは……」
万が一見つかった時に、さいが奥方の身代わりになってしまう。
喉元まで出かかった言葉を、銀十郎は飲み込んだ。そんなことは、実の父親であるこの人が一番よくわかっている。
「うむ。さすが、殿の選んだ歩兵頭だ。これからも、頼りにしているぞ」
三左衛門がそう言って立ち上がる。
「誰も欠けることなく、再び村に戻れるといいが……」
夕日に目を向けて、三左衛門は厳しい顔でつぶやいた。
「恐れながら」
銀十郎は立ち上がり、口にしていた。
「江戸で殿の恩を受けた仲間はみな、命をかけるつもりでいます!」
「わかっている。……だからこそ、判断を誤れんのだ」
背を向けて母屋に向かう男を、銀十郎は黙ったまま見送った。
あのじゃじゃ馬が、無茶しなきゃいいが。
銀十郎は無意識に溜息を吐いた。
奥方の身代わりになることも厭わない。敵に自らの体を晒す。無茶な性格だとわかっているから、さいが仲間に加わるのは反対だった。
あの藩士に敵意がないことは明らかだった。それでも、男が懐から手を出そうとした瞬間、引鉄を引きそうになった。
自分はさいの危機に際して、冷静でいられるだろうか。
もうすぐ夜だと告げる様に、夕焼けの空を烏がねぐらに向かう。銀十郎は、西の空を睨みながら、拳を握った。
◆
夜がふけ、須賀尾村の上原家にいた半数の護衛達が、高橋家に集まった。
母屋の戸口には、三つの駕籠が用意される。
地味な着物を着た母堂と奥方が、しばし耳元で言葉を交わし合うと、母堂が駕籠に乗った。村娘の様な質素な着物を着たよきと、鮮やかな打掛を羽織ったさいが続けて駕籠に乗り込む。
「ありゃあ、花嫁御料の様だのう」
誰かの間も抜けた様な声が聞こえた。旅装束に着替えた男達に守られながら、駕籠がゆっくりと動き出す。
美しい衣を身にまとうと、自然に背筋が伸びる。奥方の身代りをするには、その様に振る舞わなければならない。さいは、男とは別の静かな戦いに向かっていた。
祝言の日もこんな気持ちだった。二十も年上の旦那様の妻になる。隣に並ぶ男とつり合うように、背伸びをして気を張っていた。
誰もがめでたいと言い、酒を呑んで笑っていた。新郎は穏やかに微笑み、慣れた様子で酒を酌み交わす。隣に座るさいを気遣い、時々声をかけてくれる。
好ましい人だと思った。背が高く、ほっそりとした身体も、涼やかな目元も、決して大きいわけではないのに、よく通る声も。
この人が年の離れた兄だったら、まとわりついてわがままも言っただろう。けれど、この人が自分の夫だという現実に、さいはどうしても気持ちが追いつかなかった。
幼い頃あこがれていた花嫁衣裳は、重くて窮屈で、やっとのことで重い着物を脱ぐと、婚礼の式よりも気の重い夜が待っていた。
真新しい夜具の敷かれた部屋で、夫はさいよりも先に座っていた。
『お腹が空いていませんか』
緊張の面持ちで部屋に入り、畳の上に正座をしたさいに、濤市は言った。
『え?』
『ご馳走に、少しも箸をつけなかったでしょう。顔色も優れなかったし』
濤市が、さいの顔を覗き込んだ。
『台所から何かもらってきましょうか』
『大丈夫です!』
立ち上がろうとする濤市をさいは制す。指先が触れ、さいは慌てて手を引いた。
『あ、あの……、着物の帯が苦しかっただけで……。でも、脱いだら途端にお腹が空いちゃって、さっき、おっ母さんのおやきを食べたから』
『そうですか』
『おっ母さんのおやき、おいしいんです。村でも有名なんですよ。おっ母さんほどじゃないけど、私も結構上手いんですよ』
『それは、楽しみだな』
柔らかく笑みを含んだ声で、濤市は言った。
『あ、他の料理はおっ母さんほどは、上手にできないんですけど……。でも、ちゃんと習って腕をあげますから』
『はい。期待しています』
まるでごねる子供の話を聞く様に、濤市が相槌を打った。
『あ、だけど、私、裁縫は得意なんです。この布団も、私が縫ったんですよ』
どうでもいいことを、さいは話し続けた。夫になった男と二人きりになって、どうしようもなく緊張していた。
『きれいな縫い目ですね。だけど……』
濤市が急に手を伸ばし、さいの手を取った。
『大変だったでしょう。これを縫い上げるのは』
行燈の灯りに映る男の顔の、目尻に皺が寄る。さいの指には、針で指した小さな跡がいくつもあった。
『綿を入れて縫うのは、ちょっと難しくて……。着物を縫うのなら、もう少し上手くできるんですけど……』
言い訳をする様に、さいはつぶやいた。
背伸びをしたかった。それでも、この人には、すべて見通されている気がした。一人で舞い上がっている様で、恥ずかしくなった。
『手が、冷たい』
濤市がさいの指を持ったまま、頬に当てた。
指が夫の頬に触れると、胸が疼いた。ドキドキと心臓が飛び出すかと思うほど。
『休みましょうか』
夫が静かに声をかけた。
行燈の火が消されて、真っ暗の中、自分が丹精込めて縫上げた布団に、夫となる人と横になる。
初夜の晩に何をするか、一足先に婚礼を上げた女友達から、何となく話は聞いていた。『そりゃあもう、痛くて痛くて死んじゃうかと思った』と話をしていた友は、今年赤ん坊を授かったと聞いた。
痩せていて頼りなげに見えていた男の身体は、暗闇の中ではとても大きかった。骨ばった腕を枕にし、すぐ近くで男の呼吸を感じていた。男の手が、さいの頬を、頭を、肩をそっと撫でる様に触れる。
その度に、息を止めてさいは身体を固くした。
『……』
男が長く息を吐いた気配がした。ぽんぽんと、男がさいの背中を叩く。
『今日は疲れたでしょう。もう寝ましょう』
『え?』
随分と間の抜けた声を出したのかもしれない。微かに男が笑った様な気がした。
夫は、それからさいが眠りに落ちるまで、背中を優しく叩いてくれていた。
緊張していた身体から力が抜ける。そう言えば、朝からずっと肩の力が入りっぱなしだった。急激に眠気に襲われた。
さいの額が、男の首元に触れている。こんな風に、誰かの温もりに触れて眠ることなど、久しぶりだった。恐らく、妹が生まれる前に、母に抱かれて眠った以来だろう。
眠りに落ちる瞬間、さいは夫の香りを嗅いだ。なぜか、柑橘の香りがした。
カタンと小さな音がする。駕籠が地面に降り、さいは現実に引き戻された。
「母堂様、それでは」
「三左衛門、頼みますよ」
前を進んでいた母堂の駕籠の方から、三左衛門と話をする声が聞こえた。
須賀尾宿を過ぎ、矢竹の集落に着いた様だ。駕籠の小窓を開けて外の様子を窺う。
「窮屈じゃねえかい、さいちゃん」
光五郎が腰を屈めて、目を合わせる。
「ううん。大丈夫」
小柄な奥方は、草籠にすっぽり身体を隠し背負われている。その周りに男達がいる。その中で、細身の男が銀十郎だと、さいは暗がりの中でもわかった。
奥方とその護衛の一行が須賀尾峠に向けて歩み出した。
「我等も、参ろう」
母堂とよき、そして、奥方に扮したさいを乗せた駕籠は、兼五郎の合図でまたゆっくりと歩き出した。
命の危険の迫るこんな非常事態に、どうして婚礼の日のことなど思い出したのだろう。
故郷が遠ざかって行く。さいは不安に押しつぶされそうな胸をそっと抑えた。