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小栗の椿 会津の雪⑰


第五章 出陣①
 
 
「アン、ドゥ、トロア、カアトル、アン、ドゥ、トロア、カアトル……」
 少年達の掛け声が夏の青空へ響く。四列に並び行進するフランス式の軍事練習も段々様になってきていた。
「止まれ!」
 行進から停止の号令がかかると、一同がぴたりと止まる。
「立て、銃。肩へ、銃。担え、銃。捧げ、銃」
 銃を肩に載せ、肩から下ろすという動作を身体に馴染ませるまで行う。素早く出来る様になるまで何度も繰り返し、銃が身体の一部である様な感覚に馴らす。
 白虎隊寄合一番隊と二番隊の少年達の銃は重いゲベール銃だ。大人でも、ゲベール銃を持ったまま走るのはきつい。
 銀十郎自身も、繰り返される基本動作に何の意味があるのかと苛立った時期もあった。
 しかし、一連の動作訓練が戦場で役に立った。三国峠の敗戦で、農兵は重い銃を投げ捨て峠道を逃げ帰った。そのため、その後の戦いに迅速に臨むことが出来なかった。
 銀十郎の仲間達は、銃を持ったままの敗走でも、十分逃げ切れる力があったのは、訓練の賜物だっただろう。敗戦の経験は、歩兵訓練の大切さを知る機会でもあった。
 一度の戦で勝敗が決することはまれだ。遠い戦地で野営し、身を伏せて時を待ち、相手と対する。敗走し、場所を変え、再び敵を迎え撃つ。それに耐える力を少年達に身につけさせたい。銀十郎は、厳しい訓練に文句を言うこともなく励む少年達に目を向けた。
「次は弾込めの訓練を行う。射的場へ移動」
「はい!」
 伝三郎の号令に少年達は目を輝かせた。やはり基本訓練より銃を撃つ方が楽しいらしい。
「一月前とは、動きが全く違う」
 離れた所から全体の動きを見ていた銀十郎に、寄合一番隊中隊長原隼太が話しかけた。
「こんな子達を戦場に送り込むのかと、正直気が重かったのだが、板についてきたな」
「あの子達の努力のおかげです。素直に言う事を聞いてくれるので、やりがいがあります」
 銀十郎が言うと、褒められて悪くないという様な表情で頬を緩めた。
 川崎尚之介は上にかけあい、銀十郎達が白虎寄合隊の訓練に加わることを許可してくれた。隊士と同年代の卯吉の素早い身のこなしや銃の扱い方を見て、少年兵達も刺激になっているようだった。
    原隊長は、銀十郎の意見を聞いてくれ、力にもなってくれる頼もしい存在だった。
「戦況はどうですか?」
「よくはないな。……この子らの出陣もそう遠くはない」
 隊を率いる原隊長からすれば、息子の様な少年達の命を預かることになる。深く刻まれた眉間の皺から、その苦悩が感じられた。
 少年達から笑い声が響いた。笑いの中心に卯吉がいた。その周りを取り囲む様に、三人の少年がいる。比較的背が低く幼い顔立ちの三人は、十六、七歳が入隊の条件のところを、一つサバを呼んで入隊した嘉龍二、小太郎、平太だ。年齢の割に身体は大きいが、幼いところがありいつも笑い合っている。
「小太郎は、どうしても遅れるな……」
 一際小柄な少年の背中に目を移しながら、原がつぶやいた。
「ええ。しかし、弾込めは早いですよ」
 小太郎は遅れがちだが、手先が器用で弾込めの作業は得意だった。
「嘉龍二は元気がありあまっているし、平太は年の割に我慢強い」
「銀十郎殿にそう言われると、安堵する。なにせ、年を知っていて入隊を認めたのは、某だからな」
 原は、息を吐き出す様に笑った。もしかしたら、銀十郎が戦場に行くのを反対すれば、家に帰したのではないかと一瞬頭を過ぎる。
「銀十郎殿は、越後で戦ったとか」
 原隊長は少年達の背を追いかける様に歩き出した。
「町野源之助を知っているか」
「もちろんです!」
 原隊長の口から懐かしい名が出て、銀十郎は急き込んで答える。
「町野様には、三国峠で世話になりました」
「再び越後へ出兵するらしい。朱雀隊士中四番隊隊長の佐川官兵衛殿を呼び寄せ、町野殿を隊長にという話が出ている」
「町野様が、越後へ……。だったら、俺達も、隊に加わることはできませんか」
 考えるより先に、銀十郎は口にしていた。
 いずれにしろ、自分達だけで戦うことができない。どこかの隊に加わるとしたら、最も信頼できる隊長の元がいい。
「町野殿が同じことを言っていた。小栗様の家臣達が、再び戦場へ行くつもりがあるのなら、一緒に戦ってはくれないかと」
「是非。仲間も賛成してくれます」
「そうか。白虎隊寄合隊の出陣ももうすぐだ。恐らく越後口防衛の予備隊だ。銀十郎殿が一緒に戦うと思えば、やつらも心強いだろう」
 原隊長はそう言って遠くの山々に目を向けた。
 
 
                ◆
 
 
 町野源之助の屋敷は、鶴ヶ城の北、本二ノ丁の通りが桂林寺通りと交わる辻から西へ三軒目にあるという。原隼太に教わった場所に、銀十郎は一人向かっていた。
 目当ての屋敷を見つけ、どう声をかけようかと息を整えると、「わあ!」と無邪気な子供のはしゃぐ声が聞こえた。
「上手いぞ! そうだ!」
 聞き覚えのある男の声だった。声の方を見やると、日の傾きかけた白っぽい青空に竹蜻蛉が一つ浮かんだかと思うと、消えた。
「父上もやって下さい!」
「ようし! そら!」
 かけ声と共に、高く空に竹蜻蛉が飛び、塀を飛び越えて、銀十郎の足元に転がった。
「あ、あの……」
 裏門から顔を出したのは、幼い姉と弟だった。竹蜻蛉を拾った見慣れぬ男に、一瞬戸惑っている様だった。
「町野源之助様のお宅は、こちらでしょうか」
 銀十郎はそう尋ねながら、竹蜻蛉を姉に手渡した。
「ありがとなし」
 少女は恥じらうことなく受け取り、「父上」と門の中に入って行く。
「おお。銀十郎ではないか。久しいのう」
    着流し姿の町野が、厳つい顔に笑みを浮かべる。
「その節は、大変世話になりました」
「まあ、入れ。むさ苦しいところだが」
 深く礼をする銀十郎に、気軽な口調で町野は言った。
 縁側に腰を下ろすと、女性が茶を運んで来た。子供達は町野の膝に乗ったり、首にじゃれたりする。
    優しい父の一面を、銀十郎は微笑ましく見つめた。
「さあ、父はお客人と話があるから、叔母上のところに行っていなさい」
「はい。ごゆるりと、おくつろぎ下さいませ」
 町野がそう言うと、娘はませた口調で言った。弟の手を引き、家の中に入って行く。
「可愛らしいお子様ですね」
「ずっと京や越後にいたので、家にいるのが珍しいのだ。いつもは母が厳しく言うからもちっと大人しいのだが、今日は甘えていてな」
 町野が寂しそうに笑って続けた。
「もうすぐ再び父がいなくなることを、知っているのだろう」
「越後へ赴かれるとか」
「ああ。佐川官兵衛殿を知っているか」
「お名前だけは」
「白河の方も苦戦していて、数々の武功をあげている佐川殿を呼び寄せるらしい。その後釜にということだが……、縁のある御仁だ」
 奥歯に物が挟まる様な言い方で、町野は苦笑した。
「名誉なことではないのですか?」
「無論。ただ姉が一度佐川殿に嫁ぎ、出戻っておるのでな」
「あ、先ほどの……」
 茶を煎れてくれた女性は、町野の姉だったのかと納得した。どおりで鼻のあたりが源之助に似ている。目元は美少年だった久吉の面影もある。どこか寂し気な印象だった。
「まあ、やるからには、命に代えても敵を防ぐ。出陣すれば、家族と二度と会うことはないだろう」
 町野は、姉の煎れた茶を美味そうに口に含んだ。三国峠で初めて出会った時の、自信に満ちた瞳とは違っていた。どこか迷いがある様に見える。
「銀十郎。会津は負けると思うか」
 突然問われ、銀十郎は一瞬言葉に詰まった。「茶は美味いか」と聞かれたのかと思う程、静かな問いだった。
「……私のような者が申し上げるのは、差し出がましいかも知れませんが……」
「よい。言ってくれ」
「勝つのは難しいでしょう。敵の数は圧倒的で、ますます増えていると聞きます。何より銃や大砲の性能に差があります」
 以前伝三郎に問われて、ずっと考えてきたことだった。
「しかし、負けると決まったわけではありません。相手の姿が見えれば戦い方はあります」
「戦い方?」
「こちらの銃の主流は、ゲベールやミニエーです。飛距離は短いが、命中度は悪くありません。いかに相手を引き付けて撃つかです。待ち伏せして敵方の大将を狙い撃ちし、相手が崩れた隙に接近戦に持ち込めば、会津の方々の剣や槍の腕前は、他藩を圧倒する。相手が大勢を立て直す前に一旦引き、さらに銃撃を続ける。そうすれば、相手に打撃を与えることができるでしょう」
 ゲベール銃は撃つのにどうしても一定の時間がかかる。敵は、連射できるスペンサー銃やサスポー銃を持っているかもしれない。真っ向からの勝負では、相手にならない。
「待ち伏せか……。武士道には反するな」
「武士道に反しているのは、我が殿を罪なく捕え、殺した敵方です。負けないためなら、どんな手段でも使わなければなりません」
 銀十郎の声色は揺るぎなかった。迷っていては、卑怯で巨大な敵と戦うことはできない。
「そうだな」
 町野はふっと口元だけで笑った。
「大事なのは時間を稼ぐことです。冬まで何とか持ちこたえれば……」
「そこは、某も同じ考えだ。会津は雪国。薩摩や長州などの西国の兵は耐えられんだろう。冬の間に、奥羽越列藩同盟の絆を強め、外国から新型の銃や大砲を購入する。それまでは、一匹たりとも敵を国境に入れぬ」
「俺達も、町野様と共に戦わせて下さい!」
 銀十郎は立ち上がって腰を折った。
「顔を上げてくれ。こちらから頼みたいと思っていたところだ。朱雀隊付の誠志隊の一員として戦って欲しい」
 顔を上げると、町野と目が合った。
「会津の雪は厳しいぞ。銀十郎とて、耐えられるかな」
「上州も雪は降ります。……雪は好きです」
 冬は農閑期で、光五郎の家に泊まり込んで遊んだものだった。
 さいは、真っ白な野原に飽きることなく足跡をつけていくのが好きだった。何が楽しいのかとからかいながら、その後ろをついて行く。それから、三人で雪玉をぶつけ合って、かまくらを作る……。もう戻らない子供の頃の楽しかった日々。
「頼りにしている。一緒に仇を討とうではないか!」
 町野の太い声に現実に戻された。小栗上野介の仇、そして、久吉の仇。
「はい!」
    銀十郎は力強く頷いた。
 
 
                 ◆
 
 
 夕飯を馳走になり、横山の屋敷に辿り着いた時には、暗い空に月が出ていた。
 連絡もせずに遅くなったことを仲間達が不審に思っているだろうと、急いで裏門にまわる。納屋の隙間を抜け、長屋へ向かおうとしていると、納屋から一人の女中が勢いよく出てきた。
「あ、失礼」
 ぶつかりそうになった女に一声かけると、女は驚いた顔をして一瞬銀十郎の顔を見つめた。
 月明かりにぼんやりと映る女の顔がほんのり朱くなっている。まずいところを見られたという様に袖で口元を隠し、ぷいと顔を背けて女は駆け出した。
 銀十郎は視線を女が出てきた納屋の中に向けた。中で壁に寄りかかり、ぼうっとしているのは、龍作だった。無造作に伸ばした散切りの髪が乱れている。
「龍作。こんなところで、何しているんだ」
「無粋な事を聞くんじゃねえよ」
 龍作は悪びれる様子もなく言った。
「だって、おめえ……」
 錦絵から飛び出した様な美男だった龍作は、昔から女に好かれる性質ではあった。けれど、村に将来を誓い合った仲の娘がいて、江戸では浮いた話は全くなかった。
 会津に来た龍作に、熱い視線を送る女中が複数いることは、何となく気が付いていたが。
「……大概にしろよ。村に帰って、くらさんが聞いたら泣くぞ」
 祝言をあげたばかりの若妻の顔を思い出した。華やかさには欠けるが、真面目で気立てのいい芯の通った女という印象だった。
「村ね……。俺は、村に帰れんのかな」
「何だよ、それ」
「くらに、合わせる顔がねえんだよ。あいつは、曲ったことが嫌えな女だ。……この汚れちまった手で、あいつのことを抱いてもいいのかなあ」
 いつもはふざけている龍作が、この時ばかりは神妙な顔をしていた。双眸に陰りが走る。肌蹴たままの胸が妙に白く艶めかしく映る。
「……何言ってんだよ。だったら、こんなことすんじゃねえよ」
「そうじゃねえ。……そうじゃねえんだ」
 龍作は、俯いたまま首を横に振った。そう言えは、最近こいつは痩せた。顔を背けた首筋を見ながら、銀十郎は思い当たった。
「三国峠の戦以来か……。ちゃんと眠れていねえのは」
 同部屋の龍作が、夜中に何度もうなされていることは気付いていた。こいつだけではない。戦の後で、仕方ないことだとは思っていた。
「小出島で、何かあったのか?」
 敗走の混乱で、龍作だけが一時はぐれたことがあった。次に会った時、こいつは足に怪我をしていた。
「……子供を殺したんだ。敵兵三人に囲まれて、無我夢中で銃を撃って……。その中の一人は白虎隊よりも小せえ、少年兵だった」
 そう言う龍作の身体が震えていた。
「敵の兵だろう? だったら、当たり前じゃねえか」
 しっかりしろと、銀十郎は龍作の肩を揺すった。微かに酒の匂いがした。
「俺も、そう思っていたさ。でも、白虎隊のあいつらを見ていると、そん時のガキを思い出すんだ。あいつが撃たれた時の、真ん丸な眼をおっぴろげて驚いた顔が忘れられねえんだ」
 龍作が、銀十郎の手を振り払う。ふらりふらりと後づさり、壁際でうずくまる。
 悪夢から逃げるために、酒に溺れ、優しくしてくる女に癒され、一時の平穏を得ているのだろうか。
 銀十郎には、それが少しも龍作の心を癒している風には見えなかった。妻を裏切り、ますます自分を追いつめている様に見える。
「おい。こんなところで、何しているんだい?」
 うっすらと灯りが灯る。提灯を持って近付いて来たのは、桂輔だった。
「桂輔さんこそ、どうしたんですか?」
「馬鹿言ってんじゃねえ。銀十郎がなかなか帰って来ねえから、探しに行こうかと思ったのよ」
「ああ。そりゃあ、すみません」
 銀十郎は素直に頭を下げた。この人の言葉に裏はない。本当に銀十郎を心配してのことだろう。
「ありゃ、龍作も一緒かい?」
「呑んでいて具合が悪くなったらしいんですよ。ほら、部屋に帰るぞ」
 銀十郎は、龍作の腕を取り肩に回した。龍作は、大人しく立ち上がった。
「まったく、仕方ねえなあ。強くねえくせによ」
 怒るわけでもなく、桂輔は龍作の腕を支え、足元に光が当たるよう提灯を低く持った。そういうこの人は酒豪だが、少しも酔って乱れることはない。
「酒は陽気になるために呑むもんだ。好きでもねえヤツに呑まれた酒が、気の毒だぞ」
「……へえ」
「わかりゃあいい。また、明日も朝から鉄砲撃つのに、二日酔いなんかなってたら辛いぞ」
「へえ」
 龍作は、大人しく宥められている。
 気の荒い歩兵の仲間も、兄貴の様なこの人の言うことは素直に聞く。普段は陽気だが、自分の言いたいことははっきりと口にする十も年長の男を、銀十郎も嫌いにはなれなかった。それが、さいの夫の親友だったとしても。
「桂輔さん。後で、ちょっと話があるんですが……」
    声を潜めて銀十郎が言うと、桂輔は男の割にぱっちりとした目で銀十郎を見つめ、ひょいっと顎をしゃくった。
 二人で龍作を支えながら長屋の部屋の戸口を叩く。顔を出した伝三郎に龍作を渡すと、二人は再び外へ出た。
「珍しいな。あいつがあんなに酔うなんて。銀十郎も一緒に呑んでいたのか」
「……いえ。俺は、三国峠で共に戦った町野隊長に会って来ました。隊長は、朱雀隊士中四番隊の隊長として越後へ向かうそうです。一緒に戦わないかと、誘われました」
「そうかあ」
 桂輔は、特に驚いた様子もなく月を見上げた。いつかはこんな日がくると、予想していたのか。
「桂輔さん。龍作を連れて村へ帰りませんか」
「え?」
 銀十郎がそう提案すると、桂輔は意外そうな返事をした。
「もちろん、その他のヤツも……。村で帰りを待つ人がいれば、帰った方がいい」
「龍作は帰るとは、言わんだろう。他のヤツだって……」
「龍作は戦には向いていねえ。そりゃあ、動きもいいし、銃の腕もなかなかだ。だけど、気持ちが優しすぎる。だから、あんなことに……」
「銀十郎」
 桂輔が銀十郎の言葉を遮った。
「戦に向いている人間なんていねえ」
 ぴしゃりと言い切る桂輔の言葉に、そうだろうかという疑問が過った。
    戦に向いている人間がいないのなら、どうしてこんな戦が起こるのだ。罪のない者を捕えて間違いで殺す。そいつらは、戦に向いていないと言えるだろうか。
 そして何より、笑っているのか怒っているのか、表情までもくっきりと見える敵をためらいもなく撃つことができる自分は、戦に向いていないと言ってもいいのだろうか。
「おれは帰らねえよ。きっと、龍作も、他のヤツも、誰一人帰るとは言わんだろう」
「しかし、越後は長岡城辺りで両軍が睨みあっている。一度出向いたら、生きて帰れねえかもしんねえ」
「素人の俺がいたら、邪魔かい?」
 桂輔の右の眉が上がった。気分を害している風には見えなかった。
「そうじゃねえ。一人でも兵は多い方がいいに決まっている。しかし、村で待っている女や子どもがいるなら、帰った方がいい。生きて二度と村に帰れなくなってもいいんですか?」
「銀十郎。だったら、おめえも一緒に帰るか?」
「……」
 桂輔の穏やかな口調の一言が、銀十郎の喉元に突き刺さった。
 村に帰る。村に帰って、どの様に暮らすのか、銀十郎には全く想像できなかった。人妻となったさいのいる村で、どんな顔をして暮らせばいいのか。
「ひょっとして、さいちゃんの旦那さんから俺のことを見張るように頼まれているんですか? だったら、余計な心配だ。越後に行けば、もう簡単には会うこともできねえし、旦那さんが怪しむ様なこと、俺は……」
 何を慌てて弁解をしているのだろうと、頭の中が真っ白になって声が掠れた。
 桂輔の表情は変わらなかった。穏やかな瞳で、まるでやんちゃな弟を見守っている様な目で銀十郎を見ている。
「そりゃあ、おめえ。……ずい分濤市さんも見縊られたもんだなあ」
 桂輔は、乾いた笑い声をあげた。
「見縊る……?」
「ああ。それこそ、濤市さんは、そんな人じゃねえんだよ」
 明るい物言いをした桂輔は、一瞬遠くを見る目をした。銀十郎には、その表情の下で桂輔が思っていることを窺い知ることはできなかった。自分とは全く違う世界で生きている。所帯を持って、家族を養い、まっとうに暮らしてきた人。
「濤市さんのことは関係ねえ。俺が会津を離れるのは、みなが会津から離れる時だ。会津が奥方様を守ってくれている限り、ここを守るために戦う。誰もが、そう覚悟を決めているんじゃねえのかい?」
「……すみませんでした。忘れてください」
 感情的になって、気持ちを晒したことを恥じた。
 気持ちが乱れると、弾は思うところに飛ばない。いつも自分の気持ちを乱さず律してきたのに。『戦に向いている人間なんていねえ』と言った桂輔の言葉が身に染みる。
「戦のこと、三左衛門様にもきちんと報告しろよ。きっと、心配をしている」
 桂輔はそう言い残して、銀十郎に背を向けた。自分の部屋の方に歩いて行く。
 月明かりに背中を向けて歩いている桂輔の後姿を見送りながら、銀十郎は溜息を吐いた。



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