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「えんとつ町のプペル」は、まさに今の日本そのものだった

お久しぶりです。今日は少し政治そのものからは離れた話です。

筆者は去年、お笑い芸人「キングコング」の西野さんのオンラインサロン「西野エンタメ研究所」に入りました。

このサロンは、創始者の西野さんのビジネスに関するお話が聞ける(投稿が見れる)だけでなく、FacebookやTwitterを通じてメンバーと交流もできます。サロンメンバーさん(現在7万人以上)の経営するお店の情報なんかがマップに記載されていたり、サロン内で職と働き手を見つけられるよう、求人を出したりも出来るようになっています。コロナ渦で人々の生活が不安定な今の時代を考慮した、いろんな意味で「仲間との助け合い」ができるよう工夫がされていて、いわゆる「今どきの最先端のコミュニティ」だと筆者は思います。

さて、ちょうど筆者が入会した頃に、西野さんの絵本「えんとつ町のプペル」の映画が公開間近で、サロン内もその話でもちきりでした。ずっと以前から西野さんを見てきたサロンメンバーさん達にとっても、コロナ渦で様々な困難がある中で映画公開に至ることになった西野さん本人にとっても、とても大事な一大イベントです。新人メンバーの私は、とりあえず絵本を買い、映画を見る前に読んでみたのですが、絵本だけ見ても、とても感動する良い作品でした。(その後、自分自身の中国語の勉強も兼ねて、中文翻訳版の朗読にも挑戦しました。)
偶然、映画公開初日の前日に「彼女と別れた」と筆者に連絡してきた中国人留学生の友達がいたので、「暇なら一緒に来る?」と誘い、日本に来てまだ1年程度の中国人大学院生と共に、プペルの映画を見ることになりました。

映画「えんとつ町のプペル」は、今の日本そのものだった

前置きが長くなりましたが、映画のストーリーはとても良くて、筆者はサロンで西野さん達の頑張っていた姿を知っていたことも相まって、いろんな場面で泣くことになりました。ふと隣を見ると、日本での生活がまだ1年程度の留学生も、同じように泣いていました。正直、日本語の映画を理解してもらえるんだろうか?と不安がありましたが、彼のおかげで「プペルは日本語が完璧でない外国人でも感動する」と証明されました。

西野さん(作者本人)は、よく「煙で覆われていて、上を見上げて夢が見れない状態は、コロナ渦の世界とマッチした」「えんとつ町のモデルは江戸時代の鎖国中の日本」とおっしゃっていますが、それ以外でも「いかにも今の日本と同じだなぁ」と思う部分が幾つかありました。

① 「海には怖い怪物がいるから、海に入ってはいけない」と、政府から海へ出ることを禁止されているが、そんな怪物はいない。
今の日本も、メディアによって「この国は怖い」とか、「この政党は危険思想」とか言われているけど、実は事実と全然違うことがあります。「怖い化け物」は、無い物でも「ある」として、権力者の都合で作れてしまうのではないでしょうか。

② 「空に星はない」として、上空を煙で覆い、空を見上げることも政府から禁止されています。もしそのルールを破って「星が見えた」とか「煙より上に星があるらしい」とか言うと、「異端者」として政府に捕まります。でも実際には煙より上の空に星があり、信頼できる相手からそれを聞いて信じた主人公たちが、「嘘じゃない」と証明するために奮闘するのがこの映画のストーリーなのですが、ポイントは、あるものを「無い」こととして、隠しているところだと思います。
今の日本でも、不祥事の隠蔽など、「偉い人がバレたくなくてみんなに必死で隠している大事なこと」は、結構あると思いませんか?
また、個人個人の人生においても、本当はあるのに「自分には選択肢がない」と思ってる人(思わされてる人)が沢山いるように思います。「自分はそんなに賢くないから、安い時給のアルバイトをするしかない」「コロナだからどこにも行けない」「野党がだらしないから自民党しか選択肢がない」とか、皆さんも聞き覚えのあるセリフじゃないでしょうか?

③ みんなと違うことを言ったりやったりしようとすると、否定される
えんとつ町の場合、政府が「異端者は捕らえる」というルールを敷いてるので、半ば強制されているようなものですが、心の中では本当はやりたい気持ち、信じたい気持ちがみんなあって、だけどそれを表に出してはいけないとされて、お互いを注意しあってギスギスしたり、実は誰かがやってくれるのを待ってたりします。
日本の場合は「みんなの常識」っていうものが半強制的に人に作用していて、「やりたくてもやれない、言いたくても本音が言えない、本当のことが言えない」。皆さんも、経験したことがあると思います。

映画「えんとつ町のプペル」の惜しかった点

えんとつ町のプペルの作者である西野さんの目標は「エンタメでディズニーを超えて世界一になる」です。「日本人だってアメリカに勝つ気で臨んでもいいじゃないか、世界で一番面白いものを目指すんだ」という考えです。「愛国心のある日本人」なら尚更、みんなでこういう人を応援すべきだと筆者は思います。実際その作品自体も、自分が西野さんのサロンメンバーというのを抜きにして考えても、ストーリー的にもクオリティ的にも、素晴らしかったと思います。

でも期待して見たからこそ、一般的にそこまで浸透しきれていない原因や、映画の中身的なことでちょっと惜しいなと思う点がありましたので、筆者個人的に思ったことを書いておきます。ネタバレになってしまうので、見る前に知りたくない人は、ここから先は読まないでください×。批判的な話を聞きたくない人も、この下には読み進めないでください。

また、「見てないけどどうせつまらないだろう」と思ってる人は是非、見てからどこが惜しかったかを教えてほしいです。

では以下に続けます

・トロッコ→スコップのシーンは後半にあった方が良かったのでは?
凝ったCGアニメのダンスシーンから始まり、その後少しして、主人公達が出会い、アトラクションのようなトロッコのシーンが入りますが、序盤に幾つも派手なシーンを入れすぎのように思いました。
これはおそらく、「子どもは最初の15分程度しか集中力が続かない」ということに配慮して、子どもが見て楽しいシーンは序盤に入れようとの考えだと思いますが、正直、出会いのシーンは絵本通りにして、トロッコのような長尺でハラハラドキドキする部分は、ある程度キャラクター同士が仲良くなって、ひと悶着あってから(例えばアントニオに殴られて川に落とされた後とか)の方が、自然な形だと思います。
また、視聴者もキャラクターや世界観に徐々に馴染んで、少しゆったり落ち着いた気分になっている後半に、再び興奮して見れるようなシーンがあった方が、見終わった後の印象にも残ると思います。
トロッコのシーンの後、町の地下でスコップと出会い、「この町に隠された秘密」という物語の核心に触れた部分に入りますが、ここに関しても、序盤で出た話をまたラスト付近で思い出させるよりも、後半~ラスト付近に集中させたほうがいいように思いました。

・歌入りのBGMのシーンが多すぎる
筆者はデジモン世代なこともあり、挿入歌がアニメに効果的に使われることには賛成なのですが、セリフがなく曲を聴かせるための映像のみのシーンが3回もあると、「雰囲気アニメ」のような感じが、かなり増してしまうように思いました。
3曲使うにしても、聴かせたい部分だけ曲強め・セリフ無し、他の部分はキャラクターのセリフも被せる等、もう少し、あくまでBGMっぽくなるような、自然なやり方もあったように思います。

・ルビッチの母は絵本でも病人として描写した方が良かったのでは?
予備知識なく、絵本を読んでから映画を見ると、絵本ではごく普通の健常者だったルビッチの母が、映画では車椅子+肺炎のような症状の病人になっていて、この母は同一人物か?と疑問に感じてしまうと思いました。「絵本は映画の宣伝として難しい設定を省いた物」と位置付けられていますが、「父がいなくて、母も病気で」という設定は統一されておいたほうが良かったんじゃないかと思いました。

・敢えて「日本のアニメオタク層」を客層から排除しようとしているように見える作り
以前、西野さんはご自身の絵本をネットに公開してPRした時、まだそのような売り方をする絵本が存在しなかったため、アニメ声優からも「無料で公開するなんて」という意見がネットで書かれ、「あなたの出ているアニメも無料で公開してるじゃないか」と反論したことがあったそうですが、映画「えんとつ町のプペル」は、本職が声優の人の起用がとても少なく、主要キャラは名の知れた芸能人ばかりです。
よく日本のオタクは「プロの声優じゃない芸能人が声優をやっても、演技が下手だ」と言いますが、筆者はプペルの映画を見て「芸能人の声の演技が悪かった」とは全く思いません(個人的には、キングコングの梶原さんの演技がすごく自然で、芸人さんなのに声優としても素晴らしいと思いました)。それに、原作者が拘りを持ってキャスティングし、あてがわれた人達が原作者のイメージする「キャラクターに合った演技」が出来ていればいいので、良い悪いの基準は「声優としての上手い下手」だけではないと思います。
しかしながら、あくまでプペルは「日本のアニメ映画」というカテゴリーである以上、ほかのアニメ映画と比べてしまいますし、「ディズニーを超える」という目標を知っていれば、ディズニーともつい比較してしまいます。
西野さん自身が、元は(今も)芸人さんなこともあって、アニメ業界よりも芸能界の方が人脈が強いと思いますが、一連の流れから「あえてアニメ声優を避けている」ように見えて、「普段からアニメをよく見るオタク、アニメ好き層」に見てもらえていないように思いました。
また、プペルの感想を語る人の中に「二次創作したくなるような魅力的なキャラクターがいない」と言った人がいたらしく、それに対して西野さんは「そんな風に二次創作されなくていい」と反論されていました。勿論それはごもっともなんですが、そこを意識してるということは、西野さんは「日本のアニメオタク層には見てほしくない」として「見る人を選んでいる」のかもしれない、とも感じました。
ディズニーもジブリも新海誠監督の映画も、ヒットしている映画はみんな、芸能人が声優に起用されていることもあるし、キャラクターも美男美女ばかりとは限らないです。しかし「日本のアニメオタクを避けるように作る」ようなことは、されていないように思いますし、老若男女問わず、オタクもギャルもみんな抵抗なく見れる作品が多いと思います。
子供向けの映画で、アニメオタクへのウケを狙う必要は勿論ないですが、いい作品は、アニメ好き層からの評価も、自然とついてくるもなのではないでしょうか。あえて彼らが見ないよう、避けるように作られていると感じられるのが、少し惜しいと思いました。

その他、政府や通貨の設定、製作者サイドのやりたい演出や見せたいクオリティと、受け取り手が見てすんなり馴染めるかの、違和感やズレが、今後の作品ではセンスが磨かれて、改善されていくんだろうなぁと思っています。筆者は副音声の第一回、第二回も全て聞いて、演出への拘りや裏設定も聞いています。音声ガイダンスを聞くと「ここはこうしたくてやったんだなぁ」と納得できる部分も多くあります。ですが、筆者のように音声を聞いて何度も見に行って楽しむ人は多分限られてくると思いますし、世間一般からの評価は、映画そのものだけを見ての判断になりますので、もっとたくさんの人が見てどう感じるか、感想や意見を聞きたいと思いました。

最後にもう一度改めて今回の記事のテーマを。

えんとつ町のプペルはただの映画じゃない、日本の現状そのものだ。

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