困難に直面したときこそ知恵と工夫を(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その8)
自分のことは他人任せにできない性格だから
F:まだ日本語や日本の社会に慣れていないときに、どうされていましたか。
日本語ができなくても、誰かに何か頼んで代わりにやってもらうことはしませんでしたね。
たとえ今、完璧なベトナム語通訳者に、私が言いたいことを伝えて訳してもらったとしても、私は絶対、満足しない。
通訳者さんが95%を正しく訳してくれても、あとの5%は「私はそういうつもりではない」と思ってしまいます。
たぶん昔からそうで、片言でも自分でしゃべるようにしていました。
ひらがなとカタカナしか読めないときでも、教会に行ったら必ず日本語の聖書を持って、文字を追って読む。学校の書類も、子供が小さいときからずっと見ていると、水筒とお弁当がいるんだなとか、何が必要なのかなんとなくわかるようになっていました。
あまり、覚えようとしては覚えていません。
いろいろ、自分なりに工夫はしました。
日本に来たころは、砂糖を買いに行ったのに塩を買ってしまったことがありました。
ベトナムの塩はざらざらして粒が大きいのに、日本の塩はきれいで細かいので、分からなくて間違ったんです。
腹が立ったから、それからは砂糖の袋を店に持っていって、同じものを買うことにしました。
日本語の手紙に返事するのに封筒の宛名を書けなかったときは、向こうから来た封筒に印刷してある日本語の住所を切って貼りつけて送った。
役所の書類をもらってこいと言う人がいたら「それを書いてください」とお願いして、区役所ではそのメモをそのまま見せました。
若かったから必死にやっていたけれど、あまり失敗したり困ったりした覚えはないかな。
子供は保育所にちゃんと行かせて、予防接種もちゃんと受けさせることができたから不思議ですね。
一番上の子は丸亀にいたときに生まれたけど、周りにベトナム人はいなかった。どうやって問診票を書けたのか。
どうやってビザの更新ができたのか。記憶がありません。
インフルエンザの問診票なら同じものをもらって帰ったり、入国管理局に出す書類は提出前にコピーしたりして、次からは見ながらそのとおりに書くといった、何らかの工夫はしていたと思います。
父から受け継いだ「生き抜くための知恵」
F:生き抜いていくための臨機応変な知恵は、お父さんから受け継いだのかもしれませんね。
子どもは自立させたいというのが父の考えでした。
家では役割分担をして、3歳、4歳、5歳ならそれに応じてお手伝いをする。10歳になったら水を汲み、ご飯を作り、市場に行けるようになる。
財産がなく、お父さんやお母さんが死んだとしても、おまえたちが生きていける力だけは育てたいと言っていた人です。
だから子供のときは、遊ぶ間がなくて忙しかったよ(笑)。
きょうだいを馬鹿にしてはいけないとも、よく言っていました。
年長のきょうだいと話すときは「フンお兄さん」「タンお姉さん」のように、ベトナム語でも丁寧な、名前を入れた呼び方をするもので、絶対に「おまえ」「俺」のような言い方をしてはいけない。「anh」(兄さん)、「chị」(姉さん)のようなよくある言い方でも、ちょっと馬鹿にしているようだからだめ。
父自身も、子供には自分のことを「お父さん」と言い、子供にもそう呼ばせるし、両親に対して子どものほうは「con」と言います(*註)。
それは父から、しつこいほどしつけられました。
なぜそんなにこだわるかというと、敬語を使うことで人の価値を生かせる。例えば「お父さん」という言葉を使えば、父親としての立場を考えて言葉を伝えることになる。
おまえ、俺という言い方をしていては、そこから人を軽蔑することに繋がると言っていました。
おかげで今もきょうだい仲良く、「おまえ」「俺」でなく、ちゃんと相手には名前を呼び、自分のことは「私」のように言って接しています。
父は若いときに両親を亡くしたのに、どこからそのようになったのか、すごい人だと思う。
その父も13年前、母は2年前に亡くなりました。
F:今日は貴重なお話をありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?