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ゴム屋の仕事と日本語習得(ベトナム語 翻訳・通訳者 ハー・ティ・タン・ガさん:その4)

最初に住んだのは香川県の丸亀市

F:来日後、姫路に来たあとは、どうされたのですか。

姫路には半年、子どもが生まれるまで置いてもらいました。
それから主人の仕事で丸亀市(香川県)に行きました。
丸亀の仕事は半年だけで、終わったころに2番目の子が生まれました。

そのときの夫の仕事は、海上保安庁の船の浮き輪の掃除で、とても過酷でした。
あの浮き輪はすごく大きいよ。
そこに付いた貝や錆を落とし、ペンキを塗りなおして家に帰ってきたら、顔も鼻も真っ黒。
給料は月13万円しかなかった。

それで私も、ジーパンの縫製工場で働きました。
子どもは勤め先に預けて、ボタンを付けたりステッチを走らせたり、一生懸命働いて皆勤でも7万円だから、時給400円くらいしかなかった。

神戸に来たのは、丸亀で地震があったからです。
震度は2か3ぐらいで大したことがなかったと思う。

でも私たち家族はびっくりして外へ飛び出し、公園のベンチに座りました。通りかかった日本人がどうしたのかと聞くので、地震があったからと言うと「このぐらいは何でもないよ」と笑われました。
そう言われても、心細かったし怖かった。

それで、神戸に支援センターで一緒にいた人が住んでいたので聞いてみると、神戸は仕事が多いからとにかくこっちに来いとなり、夫と私の家族は神戸に移りました。

阪神・淡路大震災前に神戸市長田区の自宅で撮影した家族写真

神戸で探すと仕事がたくさんあり、しかも時給は550円というので天国だと思った(笑)。ちょうど1983年、バブルの時代なので仕事が多くて、働けてよかったですね。

より稼げる仕事を求めて神戸へ

神戸ではゴム屋、つまりケミカルシューズの仕事です。
何もわかってないから、製品になった靴を箱に入れたり、清掃したりするところから始めました。

昼休みがあっても張り工さん(分業体制で行う靴づくりの工程で、靴のパーツに糊を塗って貼り合わせる作業や、靴の底付け作業を行う職人)は休まないので、その隣で拭き掃除などして手伝いながら「どんなふうに靴を作るのかな」と見ていると、一瞬でやっている。

張り工は時給じゃなくて出来高払いだから、ものすごくすばやい。
「私も覚えたい」と言うと「無理や。おまえにはできへんやろ。技術がいるよ」と言われました。

でも、ベトナム人はだいたい手先が器用です。
私も見たとおりやってみると、意外と簡単だと思って、張り工になりました。簡単とはいっても、今なら機械でパーツを引っぱりながら張り合わせる作業でも、昔は全部、手作業です。

それから阪神・淡路大震災(1995年)までは、紳士靴、婦人靴の張り工をしていました。

最初の時給の仕事とは、全然違います。
前は1日5000円も稼げなかったのが、張り工は1足90円で1日100足できれば9000円にもなる。

それで技術を覚えて働いて、子どもも何人も生んで。
子どもが小さかったからこそ、張り工の仕事はよかった。
時給だとしれているけど、張り工のときは子どもの送迎をするのに朝10時に出勤して夕方4時には帰っても、けっこう賃金をもらってたかな。

今も、張り工をするベトナム女性は多いと思う。稼げます。
ミシン工も魅力ですね。
ミシン場を持っているベトナム人も今は多い。
ミシン工は時給もあるけれど、仕事に慣れている人はだいたい受け取り(出来高制)にしています。

靴工場で覚えた日本語

F:日本語は支援センターでの3ヵ月の勉強後は、工場で靴の仕事をしながら覚えていったのでしょうか。

「教科書は何もなかったので、台所に行って茶碗、皿とか、物を指さしながら単語を覚えました」

定住が決まってからは、長崎にいるときも日本語を勉強していたけれど、教科書がなかったので、台所に行って茶碗、皿とか、物を指さしながら単語を覚えました。

できるだけ単語は覚えて、支援センターに行ったときは文法だけ教えていただいたら、そこからは、かなりしゃべれるようになりました。

私の考えでは、例えば「私は塩を買いたいです」という表現を勉強するより、実際にスーパーに行って塩を見つけて買うほうが簡単でしょう。

そういう考え方だから、とにかく単語だけは覚えようとしたけれど、3ヵ月だけの勉強でもけっこう話せるようになったのは、それが役に立っていたんですね。

でも、ゴム屋の言葉はわりと汚くて、「飯食ったか?」「おまえ、来んかい!」とか、そういう感じです(笑)。

その感じでずっとしゃべってたけど、1997年にKFC(神戸定住外国人支援センター)に入った時点から、私の日本語が少しずつ変わりました。

こういう汚いしゃべりかたはちょっと恥ずかしいとだんだん思うようになって、修正するようになりました。

発音は悪くても、NPO関係の言葉はだいたいわかるようになった。

でもその前の阪神・淡路大震災のときは、まだ災害関連の言葉がわかっていなくて、できなかったんです。

「救援物資」といわれても「物資って何?」、「被災証明書」というのも「被災って何?」とか。

最初はわからなかったけれど、自分の性格もあって、人に聞くんですね。「仮設ってどういう意味?」「被災ってどういう意味?」と。

工場で身につけた荒っぽい日本語は、阪神・淡路大震災後にNPOで働き出してから
丁寧な言い方を覚えて修正していった。

それを聞いて理解したうえで、新しい情報を避難所に持ち帰って、避難所にいるベトナム人に説明して、と当時はそんなふうにやっていました。

だから言葉は場面ごとにやってみて、だんだん覚えていった。
勉強はどちらかといえば嫌いですね。
だから直接、その時期、そのことに合わせて覚える。

例えば、地震がないうちにわざわざ地震関連の言語を覚えるなんて、私はできないタイプです。
でも地震が起きたら、やはり地震の言葉を覚える。
病院に行けば病院の言語を覚える。そうやって少しずつ覚えて、言葉がたまっていく状態。
そういうやり方ですね。


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