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FACEができるまで 【前編:デザイナーが働く環境に対する想い】

富士通のデザイナーサイトとして設立された「FACE」。
設立時のメンバーである平田 昌大さんに、FACEへの想い・きっかけ、企業とデザイナーのあり方として感じていることをインタビュー形式でお聞きしました。

- インタビュイー:平田 昌大
- インタビュアー:小田 彩花
- 撮影:鈴木 祐太郎


【FACE設立のきっかけ】
日本における「デザイナー」の正しい理解を


(小田)まずはじめにFACEをやろうと思ったきっかけ、できるまでの背景を教えてください。

(平田さん:以下敬称略)FACEを立ち上げた背景として「デザイン」がこれから様々な領域に溶けていく中で、「デザイナー」という存在が重要になるのは自明なのですが、一方で、その存在の意味が正しく理解されていないんじゃないか。という危機感がずっとありました。(これからお話する「デザイン」が意味するのは主にインダストリアルデザインやメーカー系における範囲となります。)

大学時代の恩師がイタリアで10年以上インダストリアルデザイナーとして活躍された方で、その先生から「日本のデザイナーの地位の低さ」についてよく聞いていました。
イタリアではミラノサローネのような国をあげた大きなデザインの見本市が60年以上も続いているように、デザインの意識や理解が文化に根付いています。それに比べて日本はまだまだというのは何となく頭では分かってはいても、当時学生の自分に実感はありませんでした。


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デザイナーの地位の低さを実感した大学時代

ただ、それを痛切に感じる出来事があって。大学院卒業を目の前にした時期に、とてもお世話になっていた非常勤の先生が急病で他界されました。
その方は、僕からすれば何でもできるスーパーデザイナーで、日々目にする生活用品や家具家電のプロダクトデザインから、誰もが知っているような大手企業のブランド戦略、サービスの企画開発など、幅広いデザインの可能性を体現しているデザイナーの一人だったと思います。


その方が亡くなったと聞いた時は、すごくショックだったんですが、さらに追い打ちをかけるようにショックだったのが、その方が亡くなったことが、ニュースにも、新聞記事にもならなかったんですよね。例えば世界で評価された建築家、誰もが口ずさむ曲をかいた作曲家、新しい食を開拓した料理家とかとかいろんな高名なクリエイターがいると思いますが、そういう方々が亡くなったとき、何かしら記事になると思うんです。
だけど、みんなが知っているもの、誰もが触れているものをデザインした人が亡くなったときに誰も知らないっていうのは何故なんだ何故こんなにデザイナーへの関心や地位が低いんだって、当時の自分はとても悲しく悔しい想いをしたのを覚えています。

アノニマスからの脱却を目指さなければいけない

それがきっかけで、何故こんなにデザイナーへの関心・地位が低いのかを、自分で書籍をあさったり、有識者に話を伺ったりして調べました。その中で分かったことの一つに、柳宗悦さんがやっていた民藝運動・アノニマスデザインがありました。
無名・匿名(アノニマス)なモノに用の美を見出した同ムーブメントですが、
同時に“能ある鷹は爪を隠す”的な「名前を出して個が主張=ナンセンス」というようなムードを助長した側面もありました。


そしてその雰囲気の中、パナソニック(旧松下電器)創業者の松下幸之助さんが日本で初めてデザイン部隊を作りました。ただ問題は、そのときにアメリカから「色・形=デザイン」という「狭義のデザイン」を輸入したことです。
つまり、「個は主張しない方がクールである」という中で、「色・形に限定した狭義のデザイン」として日本のモノづくり系インハウスデザインが根付いていったことがわかりました。


そこから高度経済成長期に入り、大量に同じものを安定的に提供できることが企業に求められ、デザイナーに限らず会社員は、企業の看板の影でいかに同質的な価値を提供できるかが命題でした。そんな環境下でデザイナーたちがどんなに高度なパフォーマンスを発揮しても、そこにある広義の価値を説明できるはずはない。ということです。

それを知ってから、ずっと頭の中にあったのは、インハウスデザインにおける「アノニマスではない選択肢」として、個々が持つ多様なデザインの専門領域、バックグラウンド、考え方、可能性などを伝える仕組みをつくることが、日本社会からのデザイナーの理解・興味関心の向上につながると考えました。
FACEの原型になるような思想はこの時に生まれました。

【FACEができるまで】
「組織」をテーマにした施策を提案

運良く富士通デザインに入社してから数年は信頼できる人にちょっとずつ考えていることを伝え、フィードバックをもらいながら企画を練っていました。そしてある時、昇格試験があってそのときのテーマが「組織価値の向上」で、これだ、と思いました。

温めていた案を企画書にしてプレゼンして、現在のFACESITEのカタチを企画として通しました。そのときにちょうど自分の一個下の代がクリエイティブ実習(若手が集まって予算を使って企画を考え、実践する実習)という研修で、デザイナーが他業種の人たちと出会う場「FACE」というコンセプトでやっていました。僕はそれにすごく共感して、これを研修で終わらせるのはもったいないと思ったので、そのコンセプトを「個が見える、顔が見えるWebサイト」として一緒にやらない?と誘って始めたのがスタートになります。


自然と集まった仲間との検討
社内合意を得るためのチャレンジ

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(小田)FACEが実際に形になっていくところでの、仲間集めや社内外含め苦労したこと・印象に残ったストーリーはありますか?

(平田)仲間集めには特に苦労しなかったです。一番最初に声をかけたメンバー以外にも、常々組織への課題感を持っている社内の人とかに「こういうこと考えてるんだけど」って話したら、すぐいいねって言ってくれる人たちが沢山いたので自然と活動のメンバーになりました。

とはいえ会社の中で新しい取り組みを実現していくにあたってハードルだったのはやっぱり主に経営陣含めた社内交渉だったと思います。
特に会社のリスクとして「情報漏洩どうするんだ」「副業斡旋になったらどうなんだ」といったコメントを多くいただきました。

否定的な意見が多かったので心が折れそうになりましたけど(苦笑)
でも、そういうリスクに対して1個1個丁寧に会社の仕組みやルールをまず変えるところから始めて、「これだったらいいですよね」っていう下地を作っていった結果、最終的には社長も「うん」と首を縦にふってくれました。

特に印象的だったのが、幹部にプレゼンしていく中で、終わった後に複数の幹部社員の人から応援のメッセージが直接来たことです。社長はああ言ってるけど実は応援してるんだよとか、何か俺にできることがあったら言ってね。と言ってくれる方々がいて。
そういう背中を押してくれる人が幹部層にいるといのは、当時とても支えになっていたし、頑張ろうと思えた理由の一つだと思います。


(小田)今となっては副業OKの会社が増えている中で、その先駆けだったんだなということを実感しました。

当時は、この取り組みがどれだけ投資対効果があるんだ、会社の利益にどう繋がるんだ。という点も問われたことがすごく記憶に残っています。
ただそこに対してもKGI/KPIを定めて、損益の仮説を示せばちゃんと納得してくれました。普段の業務でROI設計にデザイナーが携わることはほとんどありませんが、このときの経験は意思決定者としての経営層と対峙する際のよい練習にもなりました。

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前編:デザイナーが働く環境に対する想い、は以上です。後編では、FACEサイトのこだわりのポイントや社外イベントでの反応などを深堀りしてお話を伺います!

ぜひ後半もご覧ください!


平田 昌大 Masahiro Hirata

長野県上田市出身。法政大学大学院デザイン工学研究科卒業後、 富士通デザイン入社。専用機のUI/UXデザインを担当した後、流通・産業の顧客向けの新規事業デザイン、サービスデザインに従事。現在はブランディング視点による組織デザインや製品デザインをチーフデザイナーとして牽引する。

■主な受賞歴
・LG DESIGN AWARD 2011 (JAPAN) / シルバー受賞(2011)
・BASF DESIGN AWARD (GERMANY) / 準グランプリ (2011)
・KOKUYO DESIGN AWARD(JAPAN) /審査員特別賞(2013)
・iF DESIGN AWARD (GERMANY) / 受賞(2016)
・GOOD DESIGN AWARD (JAPAN) / 受賞(2016)
・GOOD DESIGN AWARD (JAPAN) / 受賞(2017)
・TOYAMA PRODUCT DESIGN COMPETITION / グランプリ (2017)
・LIXIL IoT Design AWARD(JAPAN) / グランプリ(2018)"


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