同一人物?

「畜生、どうしてくれるんだ」
 老爺はつぶやいた。
 老化して3日が経過したが、簡単に受け入れられるはずはない。白く伸びたあごひげが風になびいて、チラチラ視界に入るのを鬱陶しく感じた。以前の彼は、まだ黒いひげすら生えたことがなかった。そういう年齢だった。「ふんっ」
 老爺は小石を拾い、海に投げ込んだ。 ちゃぼっ、と音を立てていくつもの小石が沈んでゆく。
 あれは、罠だったのか……?  一体どんな悪いことをしたというのだ、良かれと思って行動したまでだ。悪い夢でもみているに違いない。老爺はそう思わずにはいられなかった。

 三日前まで、毎日、暴飲暴食していたとはいえ、さすがに空腹を感じた。食べられるものは近くにないだろうか……。老爺は立ち上がり、岩場をふてふてと歩き始めた。もう以前のように元気に駆け回ることはできない。筋肉は衰え、覇気はなくなっていた。
 岩場を進むと、たくさんのフナムシがいた。くそう、あれを食うしか方法はないのか。貧弱な足腰で追いかけるが、さっ、と足元をかわされる。かつては先回りしたり、端に追い込んだりして捕まえていたのに。瞬発力さえも明らかに低下していた。
 老爺はいちど浜に戻り、地面に落ちている呪いの箱を拾い上げた。これで捕まえてやろう。岩場へ引き返すと、陰で動き回っているフナムシに向かって箱を投げつけた。すっぽりと閉じ込められれば理想だったが、箱は空中で回転し、裏面を下にして落下してしまった。
「外したか……」
 箱を拾い上げると、やはり中には何もいなかった。しかし箱の裏には瀕死のものが2匹へばりついていた。よかった、命中した。美味そうではないが、空腹には耐えられない。老爺は何度か作業を繰り返し、30匹ほど食材を手に入れた。
 老爺は浜に転がっていた流木を石に擦りつけ、火を起こし、虫を炙った。ぱちぱちと音をあげたところで取り出すと、色はさらに黒くなり光沢はなくなっていた。口に運んでみると、海の塩が効いていて美味かった。かつて母親が作ってくれたシャコの塩焼きとよく似ていた。

 ああ、美味しい。
 ああ、懐かしい。
 おっかさん、どこにいるの。
 もう一度会いたい。
 噛み締めるたびに、涙が頬をつたった。炎が液体を蒸発させ、彼の顔には幾筋もの涙跡がついた。

 老爺は、三日三晩フナムシを食べ続けた。今までカサゴの餌としか思っていなかった虫けらを、これほど貴重だと感じるとは思ってもみなかった。昼間、波が穏やかな時には、海面から見えるサザエを採ろうと潜ってはみたが、老体では不可能だった。小さい魚が泳いでは止まり、泳いでは止まりしている様子は、からかわれているように感じ、彼をよけいに腹立たせた。

 あくる朝、目を覚ますと初老の男が顔をのぞき込んでいた。
「やあやあ、お爺さんやい、どこの者かな」
「どこのものとは?」
「村のものが、びくびくと怯えていての。浮浪者がいた、浮浪者の爺さんが浜にいた、とな」
「浮浪者もなにも、むこうの村は僕の故郷だぞ」
 男は怪訝そうな表情を浮かべた。自分より年寄りの爺さんが、僕って言うと思わなかったからだ。しかし、いったん受け入れて続けた。
「わしゃ、ずうっと住んどるけど、爺さんのことなんか知らんぞ。ほらをふいとるんじゃな」
「僕がほらなんかふくわけ……」
「二度と、あの村には近づくでないぞ、みなが不安がるからの」
 男は老爺の言葉をさえぎってそう告げ、去っていった。
 行き場のない怒りが老爺を襲った。後ろ姿に砂を投げつけたが、老体の力では届かず、宙に舞っただけだった。おさまりがつかず、起き上がり、枕にしていた亀を力まかせに蹴飛ばした。甲羅は、ざざざ、と少し動いただけで停止した。老爺はそれを拾い上げ、かつての恨みも込めて放り投げようとした。その瞬間、亀はにゅるりと首を出して彼を見た。その無垢な目に、老爺の乱れた心は少し落ち着いた。

 確かに老化してすぐに村に行ってみたが、男の言う通り、知り合いは一人もいなかった。老爺は不思議に思ったが、故郷とは別の、よく似た村かもしれない、という思いもあった。もう一度、村に行って確かめてみるか。老爺は亀をそっと放し、へたへたと歩き出した。途中で拾った木船の残骸を杖にして、1時間ほど林を進んだ。昔なら15分で歩くことのできた距離だった。

 到着すると、布切れで顔を隠してあたりを見て廻った。入り口の案内板・家屋の配置・収穫した野菜のへたを切り落とす作業場・墓地の場所、間違いなく生まれ故郷だ。しかし、彼の家だけがなくなっていた。正確には、そこには新しい木造家屋が建ち、知らない家族が住んでいたのだ。
老爺は玄関先で遊んでいる母親と子供たちに話しかけた。
「誰だ?」
「いきなり、なんですか」
 母親は不審に思ったのか、子供を家の中へ隠した。
「僕の家がなくなってる、ここはおっかさんと暮らす家だったのに」
「まあ、爺さん、おかしなことを」
「おかしなことが起きているんだ、友達もおっかさんも、みんな消えた。残ったのは村と、知らない人だけだ」
「暑いから狂ったのね、向こうに行け、しっ、しっ」
 母親は取り合おうとしなかった。

 その時である、家の中から子供が竹槍を持って飛び出してきた。
「やい、貴様、浜の浮浪者だな。みな、みな、浮浪者だ。あやしい浮浪者がきたぞ」
 叫びに呼応して、周囲の家から次々と男があらわれた。竹槍のほかには、こん棒や石を持っているものもいる。彼らはあっという間に、老爺を取り囲んだ。
 だめだ、逃げられそうにない。老爺がそう感じたとき、真ん中をかきわけて、浜であった男が出てきた。
「村には来るなと言ったはずじゃが」
「僕の村だと言ってるだろ」
「わけのわからん事を言うでない」
 男がそう言った瞬間だった。老爺は背中に痛みを感じ、のけぞるように地面へと倒れた。近くには大きな石が落ちていた。
「みな、とりおさえろ」
 老爺はあっという間に縄でぐるぐる巻きにされてしまった。そして若い男にひょいとかつがれ、村の真ん中まで連行された。体は大木にくくりつけられ、身動き一つとれなくなった。
「処分はあした決めるからじっとしておれ」
 彼はそう告げられ、それから一時間おきに見張りが交代しながら時間だけが過ぎていった。

 老爺が目をさますと夜は更け、見張りは眠っていた。そこへ、大きな荷物を背負った老婆がやってきて囁いた。
「あんたさんや、起きとるかの?」
「ええ、起きています」
「日が昇ったら、あんたは殺されることになっての、その前に逃げませんか」
 老爺はたじろいだ。殺されるのか、何もしていないのに。
「なぜ、なぜ殺されるのです?」
「そんりゃあ、知らん爺さんが、村の中をあちこち見て回ったら、殺されるじゃろう」
 彼はちっとも納得がいかなかった。しかし殺されたくはない。逃がしてください、とお願いすると、婆さんは縄の縛りを解いた。老爺は立ち上がろうとしたが、一つの疑問が浮かび上がった。

 本当に、この老婆を信用していいのだろうか……。

 もたもたしていると、見張りが目を覚ました。
「おい、婆さん、何をしとる」
「おお、童よ、ご苦労じゃの。どれ、酒でも」
 老婆は荷物から徳利を取り出すと、見張りに勧めた。一口、二口と飲むと、彼は再び睡魔に襲われた。
「これは眠り酒と言ってな、私みたいな未亡人が寝れん時に飲むんじゃ、わはは」
 老婆はそう言うと、縄を完全に老爺から外し、肩を持ち上げて立たせた。老爺はお礼に彼女の荷物を背負った。二人は手を取り合って、可能なかぎりの最大限の速さで歩き出した。
「もうここに、戻って来ることはありません」
 老婆は村の出口でそう呟き、さらに速度を上げた。林から浜へ出て海岸線を歩き、夜が明けるころには山陽道へ出た。朝日に照らされた二人の影が、長く長く伸びていた。

 老爺は歩きながらも、婆さんが信用できるかどうか長らく考えていた。わざわざ老体を連れて、村を出る目的がわからなかった。それに、若い女に騙されて老化したのだ。二度と女は信用しまい、と決心していた。
 その時、少し前を歩く老婆が振り向いた。
「もう少し早く歩けませんか。追っ手が来たら困るでの」
「なぜお婆さんは、村から逃げるのです?」
「あんたにゃ、関係ありゃあせん」
 そう告げて、老婆はさらに歩き続けた。老爺は、ほかにあてもないので後を追ったが、不信感は募るばかりだった。

「この辺で、飯でも食いませんか。山へ入る前に、最後に、海のものでも食いましょう」
 しばらく歩いたあと老婆はそう言い、漁師町の定食屋へと入っていった。老爺もそれに続いた。海鮮どんぶりを頼むと、辺りの名物である車海老・たこ・さば・あじなどの刺身が盛り付けられていた。美味い。数日フナムシしか食べてなかったので、いっそう御馳走に感じられた。中でも鯛と平目は格別だった。城で味わっていたものも美味しかったが、やはり自ら舞って踊る魚より、潮流で揉まれた魚の方が身が引き締まっていた。老爺は肉体の隅々まで栄養がいきたわる感覚を得た。蘇ったように感じた。老婆も満足した様子で、強張っていた表情がやっと和らいだ。老爺は初めて彼女の笑顔を見た。とても悪人の顔とは思えなかった。

 店を出ると、再びせっせと歩き続けた。山の麓に着くと、老婆が口を開いた。
「わたしは爺さんにも先立たれ、独り身じゃ。一緒に来てくれとは、よう言わんが、一人が辛うての。そこで、あんた、身寄りがないなら、山で一緒に暮らしてはくれんか」
 老爺は驚いた。老体に成り果てたのに、告白されるとは。嫌な気はしないが、どうも腑に落ちない。罠かもしれない。すぐに忌々しい海姫の事を思い出した。
「返事をする前に聞いておきたいんだけど、なんで村を出たんですか? 僕と2人、村で暮らせばいいじゃないですか」
「爺さんは、村長だったんじゃ。先立たれたとはいえ、別の男と一緒になるわけにはのう。この歳じゃけど、世間体ってものからは、離れられんわ」

 そう言うと、老婆は山へと向かった。老爺も追いかけた。ひと山越え、ふた山越え、木の実を食べ、また山を越えた。陽が沈みかかったころ、大きな切り株で休憩していると、老爺は向かいの山の中腹を指差した。
「お婆さん、あれが見えますか」
「あれは、家じゃ、家じゃ」
「泊めてもらいましょう」
 2人は夕暮れを急いだ。

 到着して中をのぞくと、人の気配はしなかった。空き家だった。暗闇のなか、2人は手探りで土間から居間へと上がった。そしてすぐさま、疲れ果てた体を仰向けにして寝転がった。老爺は先ほどの告白の返事していない事を不憫に思ったが、横を向くと老婆はすでに寝息を立てていたので、自分も眠ることにした。

 翌朝、老爺が目をさますと、部屋の全貌が見えた。畳は古びていたが、台所があり、ちゃぶ台があり、2人で暮らすにはちょうどいい空間だった。これも運命かもしれない。亀や女に裏切られ、罠にはめられ、親も友達もいなくなってしまった。体は老いぼれ、この機会を逃すと結婚すら出来ないだろう。この老婆は人生を助けてくれる存在かもしれない。諦めかけた青春を取り戻させてくれるかもしれない。呪いの箱を開けた後は二度と女なんか信用するかと思ったが、もう一度だけ信じてみようか。

「ここは、いい家です。とても気に入りました。ここで暮らしましょう」
 老爺は、老婆が目をさますとそう告げた。
「ありがと、ありがとごじぇえます」
 老婆は老爺に抱きついた。彼は彼女の涙を優しく拭った。
「たくさん歩いて、汗をかきました。風呂でも入りませんか」
「そうじゃのう、服も臭いしのう」
「では僕は、その辺で燃やせる木を拾ってきます」
「はいはい」

 老婆は自分の着ている服を嗅いだ。すぐに原因は自分だとわかった。素敵な人と結ばれた記念すべき朝に、嫌われたくない。臭いと思われたくない。何より臭い自分が許せない。彼女は老爺が山の奥へと出かけるのを見送って、服を洗うため川へと向かった。

 老爺は薪を拾いながら、この不思議な一ヶ月のことを思い返した。間違いなく、人生で一番濃いものだった。おとぎ話みたいだった。亀を助けたことから全てが始まり、気がついたら老化していた。もう人生でこんなに驚くこともないだろうな。老爺はしみじみとそう思った。家に帰ると、老婆が川から持ち帰った巨大な桃から、赤ん坊が生まれるとも知らずに……。

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ファビアン_ ✍🏻第一芸人文芸部
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