今の社会、生きやすいと感じている人はどのくらいいるのだろうか

トー横で補導された少年少女のニュース記事を読んだ。補導の理由はOD。ODの動機は「話を聞いてもらいたい」と答えた人もいたらしい。大半は親元に帰されてしまったらしいが、数人は保護されたとのこと。
弱冠26歳。フリーターと通信制大学のなんとも言えない私は、この記事を見て「辛いよなぁ」と泣いた。対岸の火事ではあるけれど、未成年にそんなことを言わせてしまう社会にしてしまった、と感じた。

希死念慮ともはや人生のパートナーのごとく歩んでいる私は、自死を目的としたODを止めようとは思えない。状況にもよるけれど、私のように漠然とした希死念慮に対してはどうしようもできないと考えている。(そのため、私はパートナーに対して、私は急に死ぬかもしれない、と告げている)
しかし、ここ数ヶ月ODがあまりに目立っている。このODの多くは自傷行為であろうが、それをニュースで取り上げすぎだ。だからODが増えるんだよ。

平成初期だっただろうか。若者の間でリストカットが流行った時期があった。それは、自傷行為であり、ファッションであり、「皆がやっているから」やっていた。
今まさに、リスカ流行の新たな歴史として、ODが加わった。
メディアが流行らせた。

……、流行云々は、どこかの有識者が語るだろう。すでに語っているかもしれない。誰も触れていないなんてことは無いだろうけれど、メディアはこれ以上ODに触れるな。

タイトル回収

さて、今回のニュース記事を見て私がふと思ったのが、今の社会で「生きやすい」と感じている人はどのくらいいるのか、ということだ。
いるだろう。どの時代でも利益を得る人はいる。
便利な世の中にはなった。しかし、余裕が無い人は増えただろう。未成年の話を聞く余裕すら無い人が多いのだと思う。

私自身、高校中退やニートを経て、19歳からバイトを始め早7年、紆余曲折しながらようやく生きようと思っている。到底、未成年を支えるに足る人間とは言えない。一方で、何とかしたいと思う自分もいる。
私自身、親に話を聞いてもらえた記憶は小学生までだ。中学、高校以降は母の愚痴を聞くことで会話が終わり、私の話なんて些細なことだと話すことを諦めていた。
そんな経験もあり、「話を聞いてもらいたい」という動機を見た途端、過去の自分と重なり涙が出てしまった。
今の私が、彼らの話を聞こうとすると、それは少年少女を通して過去の自分を慰撫しているにすぎず、自己満足で終わってしまう。

何年先になるかはわからない。しかし、少年少女はいつの時代もいて、生まれた彼らは尊重される存在だ。
まずは、まっとうに生きようと思う。そうして、話を聞いてくれる変なおばちゃんとして、少年少女の歩みを支えたいと思うのである。

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