自己紹介 / 師のまた師の本
自己紹介
はじめまして、みつおです。
本が好きで、よく書店を訪れては一目惚れした本を衝動買いしているのですが、如何せん読むのがあまり速くないので、未読のまま本棚に並んだ本が増え続けています…。
何故読むのがあまり速くないかというと、予備知識が不足している(読む時間より、意味が分からないフレーズを調べる時間の方が長い…)というのは置いといて、気になる一文はその裏に込められた思いを含めて腑に落ちるまで反芻するからです。なので、読み切ったときは「ははっ!どうだ!やっつけて(読み切って)やったぞ!」と勝手に優越感に浸ってしまいます。
ですが、本の感想は数か月も経てば結構忘れてしまうものです。
(数か月経っても覚えている内容や文章こそ財産になり得るのかもしれませんが…)
それがすごくもったいないなと思ったので、本を読んだ直後の新鮮な感想を記事に書き残しておくことにしました。
基本的には僕が振り返りやすいように書き残すつもりなので、この記事を読んでいただいた方々にはイマイチ伝わりづらい内容になっているかもしれませんが、あしからずご了承ください。
その他、風景や空間の体験記、ぼーっと思ったり、考えたりしたことなども書けたらなーと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
師のまた師の本
自己紹介して終わりというのは少し寂しいので…、
早速、最近読んだ本の感想を書き残しておきます。
先日、所属していた大学研究室の教授とお会いする機会があり、1冊の本をいただきました。教授の師であり、建築家の吉田研介氏(こういうときの敬称ってなんて書くのがいいのだろう…)が書いた「建築コンペなんてもうやめたら? 建築コンペの醜い歴史」という本です。
建築設計に携わる人に向けて言ったら、思わず顏をしかめてしまうようなタイトルで、僕がこの本を受け取ったときもさぞかし微妙な顔をしていたと思います…。
その反面、一体何が書いてあるんだろうと興味がそそられるタイトルでもあって、おそるおそる読み始めました。
建築コンペに公平性など存在しなかった
「建築コンペなんてもうやめたら?」と言われると、「コンペで1等を獲る作品が必ずしも良い作品とは限らないから」とか「もし2等の作品が建っていたら…」みたいなよく言うフレーズやタラレバを続けて、コンペの面白くなさを嘆くのかなと予想していましたが、この本はそのような作品の良し悪しに一切触れていませんでした。
では、一体何を書いているのかというと
「今までの建築コンペは不正ばかりだったという事実」です。
建築コンペというものは大きく分けて2種類存在します。1等の作品が実現される「実施コンペ」と賞金や賞状のみ贈られる「アイデアコンペ」です。この本はそのうちの実施コンペに論点を置いています。
そもそも建築コンペを行う理由は1等(実現する)に相応しい案を公正公平に選ぶことが出来るからというのが建前です。この公正公平が疑わしくなった時点で建築コンペをする必要はほとんど無くなってしまいます。
しかし残念なことに、これまで日本で行われた実施コンペはお世辞にも公正公平とは言えないものばかりでした。
全く別物の国会議事堂
我が国の国会議事堂は実施コンペによって建てられたものとされています。
しかし、どう見てもコンペ1等案と現在建っているものが違うのです。
コンペ1等案は建築家の渡辺福三(他2人と共同設計)がつくったものですが、現在建っているものとは随分違います。どうしてこんなことになったのかというと、コンペの結果を受けて実施設計を行った大蔵省の建築局が勝手に意匠変更を行ったのです。
ちなみにコンペの結果が出た直後は「欧米的なデザインをなぞっていて、全く新しくない」といった意匠変更を求める声が飛び交っていたらしい(その中にはあの伊東忠太もいたとか)です。
どうしても構造が成り立たない場合や現行法に抵触する恐れがある場合は、百歩譲って仕方がないと思いますが(そういった与条件も含めて慎重に審査すべきと思いつつ)、そのような問題とは無関係のところで、ただかたちが気に入らないから変えるというのがまかり通ってしまっては、建築コンペをする必要なんてないんじゃないのかと思うのはおかしいでしょうか?
丹下健三のパトロン
日本の歴史に残る大きなコンペとして、広島平和記念会館の実施コンペは外せません。ご存じの通り、コンペの1等は建築家の丹下健三が勝ち取り、そのまま設計を手掛けています。
しかし、このコンペの審査員には「丹下健三のパトロン」とされ、多くの実施コンペで丹下の案を押していた東京大学教授の岸田日出刀が名を連ねていました。彼は当時、日本建築学会の会長をしていたことから「建築界の黒幕」とも言われ、多大な影響力を持っていたことが窺えます。
結論から述べると、このコンペは岸田の存在によって丹下が大逆転勝利を収めたのです。
まず、応募案140点の中から予備審査・1次審査を経て、16点が最終審査に進出しました。最終審査は審査員9人がそれぞれ3点に投票し、1票でも獲得した案の中から再投票によって1等案を決めるというものでした。つまり、最終審査は2度の投票が行われるのです。
最終審査1度目の投票によって半分の8点が残りました。暫定1位は5票を獲得した建築家の山下壽郎の案で、丹下の案は2票を獲得して5位でした。
本来なら、このまま2度目の投票によって1等案を決める予定でしたが、その前に意見交換の時間が設けられました。そして今度こそ2度目の投票を行った結果、丹下の案が過半数の票を獲得して1等に決定したのです。山下の案は2等となりました。
このコンペの審査経過は一応公表されているものの、一体どのような意見交換が行われたのかは分かっていません。
ちなみに、1度目の投票で5票を獲得したものの、2度目の投票で逆転を許し、惜しくも2等となった山下の案も魅力的な案であったことは間違いありません。
山下の案は、上図の下側にある元安川を上(敷地)側に拡幅して、川の中に記念塔を建てるというものでした。
原爆によって酷いやけどを負った人々は水を求めて川に飛び込み、そして命を落としました。山下の案はそうした人々に向けて鎮魂の碑を建てるというコンセプトが明快で、市民が共感しやすいものでした。多くの票を獲得するのも納得出来ます。
一方で、丹下の案は今でこそ世界的に高く評価され、市民に深く愛されていますが、当時は解体運動まで起こっていた被爆建造物の広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)を軸線の先のシンボルとすることに反対の声が多く上がっていました。
審査員を務めた岸田が案の内容とは無関係に、私情を持ち込んでいたかどうかについては本人のみぞ知るところですが、それでも私は丹下の案でなければ、コンペから75年が経った今でも世界中から賞賛され続ける建築にはなり得なかったのではないかと思います。
そのくらい丹下健三が設計を手掛けた広島平和記念会館は、当時の審査員や市民が求めていたものに留まらず、建築の普遍的な価値に対して貪欲であったと言えるのではないでしょうか。
日本武道館が八角形である理由
1964年にオリンピック東京大会が開催され、この東京大会から柔道が新種目として加えられました。その柔道を含めた国技の総合会館として日本武道館を建設することになります。
ところが、この日本武道館こそ我が国の歴史に残る「不正コンペ」だと言われているのです。
(その裏に財団法人日本武道館側と東京オリンピック組織委員会側の政治的な駆け引きがあったのというのも非常に面白い話でしたが、ここでは割愛します。興味のある方は是非本書を読んでみて下さい。)
2年前は新国立競技場のコンペが問題となったように、いつの時代もオリンピックの準備期間というのは切羽詰まっているようで、このときも例外ではありませんでした。
なんと、建設敷地が決定したとき、既にオリンピック開催まであと1年を切っていたのです。
ここでようやく、5名の建築家による指名コンペがスタートしました(スタート直後に1名が辞退し、4名となりました)。しかし、その日の新聞記事に驚くべき内容が掲載されていました。
「八角形」の武道館が東京オリンピックの柔道会場として着工!
コンペの要項には八角形を用いるべしといった旨の記載は一切ありません。そもそも八角形というのは、指名された建築家の1人である山田守の案でした。
山田は八角形にした理由を「柔道会場には東西南北を表すかたちが必要」「どの席からも会場の様子を見渡すことが出来る」とまとめていましたが、八角形は方向性が無いため、どんな敷地でもアプローチを確保することが出来ます。
つまり、山田は建設敷地が決定する前から、自分が指名されることを知っていて、敷地に依存しない案を用意していたのです。それが新聞記事に掲載された…。
これだけでも不正コンペと言うには十分ですが、ここからが本番です…。
胡散臭い空気が取り巻く中、無事4名の案が出揃いました。そして6人の審査員による投票を行い、建築家の大江宏の案が5票を獲得し、山田の案が1票を獲得する結果となりました。このまま大江の案が1等になると思いきや、後日再投票を行うことになったのです。
さらに驚くことに、新たに6人の審査員を加えて再投票を行うというのです。再投票の結果、大江の案が5票のまま、山田の案が7票となり、山田の案が1等に決定しました。つまり、新たに加わった審査員全員が山田の案に投票したのです。
ちなみに1度目の投票で山田の案に入っていた1票は、彼が以前勤めていた会社の後輩だったと言われています…。
以上が、我が国の歴史に残る不正コンペの全容となります。
日本武道館の実施コンペは、最初から山田守が設計を手掛けるために仕組まれた出来レースだったわけですが、こんなに回りくどいことをしてまでコンペを行う必要は果たしてあったのでしょうか?
そして皮肉なことに、敷地を見ないで考えた、いや、見なかったからこそ導かれた「八角形」というかたちは、今や武道場としてだけでなく、ライブやコンサートの会場として多くの音楽人が憧れる夢の舞台となっています。
建築設計において、敷地や周辺環境、歴史や文化を重要視することは当たり前のこととされていますが、それによって建築が獲得出来るものについてはより精緻で論理的な追求が必要なのだと思います。
それでも建築コンペに夢を託す
ここまで読んで下さった方々は、きっと建築コンペというものにさぞ嫌気がさしていることでしょう。
しかし、この本の内容と全く逆のことを言うようで恐縮ですが、それでも建築コンペは必要だと僕は思います。
確かに公平性に欠けるコンペによって、多くの建築家が涙を呑んで来ました。この本の著者である吉田研介氏もコンペに負け続け、借金がかさんで事務所を閉じたとおっしゃっています。それだけ建築コンペは建築家にとって魅惑的なのです。
私はコンペに落選した案が無駄だとは全く思いません。それはコンペに挑戦したこと自体が自身の経験値となるからではありません。
特に若い建築家や学生は建築コンペから学びます。それは1等だけでなく、2等、3等、佳作、今の時代はSNSで日の目を見なかった案まで見ることも出来ます。つまり、未来の建築設計を志す人達は過去のコンペ結果を点で捉えるのでなく、コンペ結果からその時代の潮流を面で捉えるのです。
何十、何百名の建築家が同じ課題に向かって取り組み、それぞれの解を出す。そしてその結果を余すことなく後世に伝えることで、建築は歴史をつくり上げてきました。
自分の案が実現しなかった悔しさは計り知れませんが、それらももれなく建築の歴史の礎となり、未来へメッセージしているんだと思えば、幾らか肩の荷も下りるのではないでしょうか(気休めかもしれませんが)。
あとがき
今回は僕の師のまた師である吉田研介氏の著書『建築コンペなんてもうやめたら? 建築コンペの醜い歴史』を読んだ感想を書きました。素敵なご縁であることを差し引いても、とても興味深い内容が詰まった本なので、皆さん是非ご一読下さい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今後もこのような記事を不定期で投稿する予定なので、どうぞよろしくお願いいたします。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?