傷にそっと。

小説を書いてます。
書いてます、と言っても、さほど作品を完成させたことがありません(じゃあ何してんだよ)。

過去にお笑い芸人をしておりました、と言っても、それほど活動しておりません(ほんと何してんだよ)。
十代の初めに志し、それから養成所に通ったり、誰でも出れるフリーライブ(アマチュアからプロまでエントリー料を払えば出演できるライブ)に出たり、師匠と思ってない人の弟子になってしまったり、親友ができたり、でも友情を感じていた人と女性関係でトラブルになって疎遠になったり……。

中学は、受験してそれなりに偏差値が高いところに通うことになりました。と言っても、勉強はしてません(もはやちょっと自慢)。
算数だけは得意で、算数だけで受験できるところに合格したのです。
国語の偏差値は三十台。その日本語力で、いま小説を書いております。
理科と社会も、偏差値は四十あれば良い方で、授業中も、勉強(机に座るだけ)中も、頭の中でポケモンをしてました。
父の視線を感じたときだけ、文字を書くふりをし、それ以外はボールを投げたり、戦わせたり、そして何度もチャンピオンになり、成績は一向に上がらず、しょっちゅう叱られ、呆れられてた小学生時代です。
そのおかげか、つまみ食いが得意で、読書をしていても、他のことを考える癖が抜けません。
人の視線には敏感になって、その割に心ここに在らずな生き方をしております。
ただ、中学は進学校で、勉強も成績も学校生活もとにかく厳しく、だから、サボることは通用せず。一年も経たずに僕は、もう堂々と部屋に篭ってサボるようになりました。
いまも仕事をほどよくサボることがうまいなと、自分ながらに感じます。
サボり癖は、僕の生き方になったのだと思います。

ポケモンは、ニ歳の時に始めたらしいです。
当時はまだ親戚付き合いがあり、(のちにそれは全て無くなるのですが)(なので僕のお葬式は恐らく妻だけで執り行うことになると思います)(けれど妻も「私を残して死なないで」「死ぬなら私の後に死んで」というのでやはり僕が最後にひとり残ることになります)(子どもは持たない主義です)(()が多すぎ)その親戚からプレゼントされたのが、ポケモンの緑だったかと思います。
パッケージを開けた記憶はあります。それからはずっとやっていたようです。やっていた記憶はあまりありません。ただ思い返すと、その頃から、家族からの、人からの逃げ場が、ポケモンだったのだと思います。
それは、お笑いを始めるまで。お笑いを始めてからは、お笑いからの逃げ場が、ポケモンになり、ファイナルファンタジーになり、ウイイレになり、FIFAになり。

そもそも、人前で喋ることすらまともにできない人間が、やはりお笑いなんてできなかったんだと思います。
でもそれなりに、人前で喋ることができるようになりました。うまいのかどうかわかりません。死ぬほど下手だと言う人もいたし、テレビに出てる人より断然うまいと褒めてくれる人もいました。真実は、いかに。
ただひとつ思うのは、ただ話しているふりだけが、得意になっていっただけだということです。人の話を聞くのが上手だと言われたこともあります。聞いているふりがうまいだけで、ずっと話してくれるから楽だと言われたのも、ずっと何かを話しているふりをしているだけで。

芸人さんや、タレントさんが、過去のエピソードをちらりと話すのを見かけると、なんとも言えない気持ちになります。
家庭環境や、虐待を受けていた過去や、死別や。
スーパーに行くと、いつも絶妙な気持ちになります。
お惣菜を選ぶおばあちゃんや、レトルト食品を手に取る主婦。ウキウキと子ども用のカートに乗る姉妹。
その「言葉にできない、言葉」というものを題材に、今年に入ってから、新しい小説を書いております。いつか発表できたら嬉しいです。発表できなかったら、「言葉にできなかった」という結論になってしまいます。そうはなりたくないな……、三十の偏差値で、頑張っております(それほど頑張ってはいないのかもしれませんが)(自分でも、「頑張る」ということが、あまりわかりません)。

絶妙な気持ちと、なんとも言えない気持ちは、なんとなく、違います。
彼ら(芸人さんや、タレントさんたち)が、うまく言葉にできていることに、羨望と嫉妬を抱いているのかもしれないなあ。と、ふと今日、思った次第です。
いいえ、今日に限らず、ずっと感じてきたものですね。そうです、そんな軽々しく話せるほど、僕の根幹もみみっちくはないのです。いいえ、そう、それは、誰しも。

「過去の亡霊」という、ハリウッド用語があるようです。最近知りました。
物語の登場人物には、誰しも、バックストーリーがあります。お笑いの養成所でも、習ったことです。
「コントの台本に、漫才の台本に、バックストーリーを盛り込め」。先生は、話します。
僕は、「いやいやコントも漫才も、見てる人はそんなの気にしないから」。そんなことを思って、聞いてました。それが僕のバックストーリーとなっている、なんて、皮肉なものですね。養成所で習ったことは、ほとんど覚えておりません。覚えているのは、そんな皮肉的な出来事の数々。「お笑い」を通して得た経験も、然り。皮肉的で、傷として残るものばかりでした。

「過去の亡霊」とは、バックストーリーと似て非なる。厳密には、バックストーリーの一部である、しかしバックストーリーではない。言わば、傷、のようなものを指す。とのことです。

そもそも、バックストーリーとは?
人物の背景。僕で言えば、ポケモンをしていた、勉強も学校も仕事もサボってきた。お笑いをやっていた。など。いつか、小説を書いていた、となるかもしれません。それを、誰かに語られるようになりたい次第です。がんばります。
一方、「過去の亡霊」とは、傷です。
僕で言うなら、、、。例えば、「芸人さんやタレントさんが話していることになんとも言えぬ気持ちになる」ことや、「スーパーで絶妙な気持ちになる」こと。そこにある、傷です。

ボクサーをしていた。
目の上に治らない傷がある。
だから、片目だけ視力が悪い。
バックストーリーと、「過去の亡霊」の違いは、そんなようなことだと思います。

人にはみんな、傷があって、必ずやそれは、見えるものをぼやけさせている。

傷なんてない人はいなくて、いいや、傷なんてない人は、魅力的ではないのかもしれません。でも、だからといって、芸人さんやタレントさんが一様に「すごい過去」を背負っているかと言うと、そうでもなくて、ただ、傷が、かっこよく見える。傷がかっこよく見えるから、傷を見せたがる人もいて、反して、かっこよくないと言われる人は、実は傷を隠している人だったり。魅力的ではない人や、芸人さんやタレントさんと比べたら、目立たない例えば一般人の人が、傷がないわけではなくて、傷に自覚していなかったり。傷を傷とも思っていない。傷とは、痛みを伴わない物が大半で、痛みはあったはずなのに、すぐに消え、残る物が傷だから、だから、人は、傷に鈍感になるのかもしれません。
ぼやけた視界でも、曲がった骨でも、人は、歩けるものだから。

はっきりと、物を言える人に、やっぱり、いつまでも憧れるし、妬みがあります。
憂鬱や鬱憤を抱えていても、舞台に立つ人に、尊敬と、どこか軽蔑があります。
その人は、傷という物を、傷としてではなく、過去として線引きして、新しい人生を歩んでいる。華やかさを身にまとい、美容手術をしたように、傷を隠して、隠して、いつからか、その傷を、痛みとともに忘れて。
そして、まるでそれを、立派なように胸張って語る人ほど、僕はあんまり、信用ならないです。
そうこう語れるようになったのは、もしかしたらまだ傷が疼くから、いいや、もしかしたら、傷は癒えているから、か。
それとも、その人たちの傷が、僕にはわからないのかも、しれません。
同様に。その人たちは、僕の傷も、人の傷もわからなくて、そもそも人なんて、人の傷を、わからないのかもしれません。わかっていても、言葉には、できないの、かも。
いいや、もしかしたら、僕もご立派に、こうして言葉を並べるということを、頑張っているから、かも。

でも僕は、せめてもっと、頑張りたいなと思っていて、これは正直に、真剣に頑張れているのが、小説なのだと、はっきり言えることのひとつです。もうひとつは、家族を大切にすることです。それらも、わからないことだけれど、わからないなりに、わかってきています。

たった一分。二分。四分。舞台では、語りきれない。語りきってしまいたくない。そんな物語を、いま、紡いでいて。
でも、そうして簡潔に語り切る姿勢に、複雑な気持ちはいつまでも抱いて。
いつか語りきってしまう時がきたら、そのときはたぶん、僕はなんの言葉も出なくなるのかもしれなくて。
ただそれでも、それでもやはり、言葉にはできない、僕の、家族の、他人の傷にそっと。
触れて、寄り添って、見つめて、大事にしていけたら。

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