第1話[18]~[21]まとめ/小説「やくみん! お役所民族誌」
【前回】
[18]子と親と
*
ブッさんの知る限り、これまでの候補者面談はせいぜいが30分程度だった。つまりそれまでに哲さんが相手を見限ったということだ。しかし、香守充に対する面談は1時間を超え、2時間に迫ろうとしている。
面談当初に比べれば、充の様子はかなりほぐれた。哲さんは充に対して支配的に振る舞わない。充のどのような発言も受け止めて、ボールを投げ返す。コミュニケーションがうまく取れていることが、対人関係の苦手な充をリラックスさせていた。
けれども、そのことが充の特異な資質を一層際立たせているように、ブッさんには思えた。まるで心に欠損を抱えた患者が老成した精神科医の前で油断しているようだ、と。
──俺には香守に候補者としての資質があるとは到底思えない。しかし、哲さんはこいつに、何かを見出しているらしい。俺に見えていないものは何だ。哲さんが見ているものは、なんだ。
ブッさんは応接セットから少し離れたところにひたすら立ち続け、二人の会話を一言も聞き漏らすまいと注意を向けた。
ブッさん、本名・桐淵隼人(きりぶち・はやと)。彼は哲さんが深山哲学(みやま・てつがく)の名でERネットを主宰していた頃の、最後期の受講生の一人だった。
Experience Revolution Network、通称ERネットは、雑に括るならば自己啓発セミナーの一種ということになる。哲さんのカリスマ性を軸として、少人数だが熱烈な集団を形成していた。その思想を実践するために、7年前にERネットの発展的解消として設立されたのが深網社であり、幹部の多くは当時の受講生だ。
一見他愛のない、修学旅行の寝床雑談のように連想で続く会話。その中に、哲さんの人間観察と心理操作技術の粋が込められている。それを間近で観ることは、ブッさんにとって何よりの修行だった。
「そうなんだ、ご家族は優しい人たちなんだね」
「まあ、そうですね」
「家族で誰が一番好き?」
「特に……みんな同じです」
「嫌い、というか、苦手な人はいる?」
「ん……ん、いません」
「ふうん」
哲さんのまとう空気が変わったのを、ブッさんは感じた。ここからモードが変わる筈だ。
「実はね」
哲さんはソファの脇に立てかけていたアタッシェケースを手元に引き寄せた。茶色の革張り、長い年月をかけて使い込まれた風格がある。ばちん、と音を立てて金具を跳ね上げ、中から分厚い書類の束を取り出した。黒のダブルクリップで左肩が閉じられている。
「このブログ、読ませてもらったよ」
そういいながら、哲さんは書類をテーブルの上にそっと置き、充の方へ押しやった。ブッさんの位置からはサイトを印刷したものらしいとわかるくらいで、文字は読み取れない。
たっ、たたっ。
ふいに柔らかな音が鳴り出した。充の膝が激しく震え、スニーカーの踵が床を鳴らしているのだ。その音はしばらく続いた。
「これ、君のブログでしょう?」
「ちちがいます、なんですかこここれ」
歯の根が合わず発語が不明瞭だ。衝撃的な動揺に襲われていることが見てとれる。それほど知られたくない内容なのか。
「オシントって、知ってる?」
哲さんの言葉に、充は頭部を痙攣させた。本人は首を横に振ったつもりだった。
「Open Source INTelligenceの頭文字を取って、オシント。公開されている情報を照合することで、見えない事実を明らかにする技術のことだよ。下世話な表現をするなら特定厨だね。ブログには人名も地名も書かれていないけれど、文章に含まれた情報、写真に映る建物、そうした断片情報ひとつひとつを丹念につなぎ合わせれば、場所・人・時期を特定できるのさ。ネット社会は怖いねえ──もっとも、少しだけ違法な情報も使ったから、8割オシントってところかな。それでも君のことを調べ始めて4日でこのブログを探し当てたんだから、うちのスタッフは優秀だよ」
アンゴルモア情報班のことだ。龍神(たつがみ)ズメウの元から充が逃げ去った後、充は「候補者」候補として優先的に情報探索されていた。その最大の収穫が、充の内面を吐露したブログ「生まれて来なければ良かった」であり、書類はそのプリントアウトだった。
「ブッさん、読んでみる?」
「はい」
ブッさんがテーブルに近づきかけた瞬間、充は書類を掴んで両腕に抱え込んだ。
「読まないでください! お願いだから……読まないで!」
哲さんはこめかみに人差し指を当てて、じっ、と充の様子を見ていた。これまで流れる水のように会話を止めなかったが、今は黙って観察し考えるフェーズだ。
ブログは彼が中学二年の時に始まり、大学一年の今も続いている。5年間で600件を超える記事。書きたい衝動が文章の量に繋がり、量が次第に質を向上させ、その蓄積の中に様々な出来事と思考と感情が記録されていた。
担任教師の「いじり」が悔しかったこと。
優しくしてくれる女子への恋慕。
酷いいじめをしてくる幼稚な奴らに凄惨な復讐をする妄想。
倫理の授業で学んだ思想の評価。
学習成績の自負と、愚かな級友への侮蔑。
人と違う自分についての悩み。
進学が決まった時の明るい未来予想。
上京後の絶望的な未来予想。
自分を理解してくれない父への、憎しみと愛情の交錯。
明るく社交的な姉への羨み。
弟の可愛さ。
母だけが自分をそのまま受け入れてくれること。しかし、自分を産んだことは恨めしく思っていること。
生きることはつらく苦しいということ。
楽に死ねる方法の探索。
自死の試みと失敗──。
家族の前でも、心配してくれる友人の前でも、充は「いい子」「問題のない子」を演じてきた。なぜならそれが家族や友人から期待される姿だと、彼自身が思い込んでいたからだ。自分の弱さは見せたくなかった。心配されるのは自尊心を損なうことだった。だからいじめられても、それを大人に訴えることができなかった。
一方でブログには、誰にも聞かせることのできない彼自身の魂の言葉をしたためていた。自分を理不尽に追い詰める連中への黒い呪詛。前向きと後ろ向きを往還する心。性的な欲望、そして自分には永遠にセックスのパートナーが現れないのではないかという恐れ。実名では誰にも話すことのできない、匿名の露わな本心だった。
だからなのだ。偽名で悩みを相談しかけた龍神ズメウが自分の本名を言い当てた時も。哲さんがブログを読んでいたと知った今も。最も秘すべきものを知られた羞恥に、充はいたたまれなくなったのだ。
哲さんはそうした充の心の襞をあらかた読み取ると、ふっ、と集中を解いた。
「本人が嫌だというんなら、やめとくさ」
哲さんの言葉に、ブッさんは伸ばそうとしていた手を引っ込め、元の位置に戻った。
「──世の中には、強者と弱者がいるんだ。君は、自分はどちら側の人間だと思ってる?」
「……弱者」
充の声はほとんど泣き出しそうに聞こえた。
「正解。今の世の中の『普通』から見れば、こういう魂」といいながら充の持つブログを指す「を抱えている君は、間違いなく弱者だ。紫峰大学に入れるだけの優れた頭脳と集中力があっても、それを適切に活かせる環境に出会わない限り、君は弱者のままだ。例えばね」
哲さんはブッさんの方を見て「通帳、受け取った?」と尋ねた。ブッさんは頷いて、脇に持っていた白の大型封筒を手渡す。哲さんは封筒の中身をテーブルに滑り落とした。充の通帳、印鑑、キャッシュカードが三組。
「──今回はかなり雑な手に引っかかったって聞いてるよ。怪しい女についてこいと言われた時。監禁状態で押し売りされた時。通帳を作って渡せなんて非常識な要求をされた時。普通の人は断る場面で、君は断らなかった。だから君は今、ここにいる」
充は書類を抱きかかえて俯いたまま、何も言わない。
「この通帳はね、うちの顧客からの入金先として使うんだよ。もう気がついてるかもしれないけれど、俺たちは違法な商売をしている。振り込め詐欺とかね。つまり犯罪者だ。でも──香守君は、自分も既に犯罪者だと気付いてる?」
充はちらりと上目で哲さんの顔を見て、すぐにまた目を伏せた。
「他人に渡す目的で銀行から通帳とキャッシュカードを騙し取るのは、刑法の詐欺罪。その通帳を他人に渡すのは、犯罪収益移転防止法違反。騙されてやりました、脅されてやりました、なんて主張しても免責はされないよ。君はもう、犯罪者だ」
「……知ってました」
充は俯いたまま声を絞り出す。
「そんなの、新聞読んでれば、普通に分かります」
「ふうん、そうなんだ」
世の中には、それを知らず安易に通帳を他人に渡す人間が多数いる。だから俺たち詐欺師の商売道具が整うのだ。新聞を読んでいれば普通に分かる、そう言えること自体が実は世の中の特権的知性であり、恵まれた環境で育った証なのだと、香守は気づいているだろうか。
「知ってて、なんで通帳渡したの?」
「だって……そうしろって言われたから」
普通はあり得ない思考回路だが、充にはこれが自然体だ。理不尽だと思っていても、他人の圧力に抗することができず、従ってしまうこと。それが悔しくて悔しくてたまらないこと。充のブログで繰り返されたモチーフだ。
世の中は自己責任論で動いている。断れない方が悪い、とみなされて、誰も助けてくれない。弱者は一般社会からも見捨てられ、追い詰められていく。
こうした状況の中で「自分はこの社会では生きていけない」という充の希死念慮が生まれていると、哲さんはブログの文章群から推測していた。
おそらく香守は、遠からず自ら命を絶つつもりだ。だから、犯罪者になっても構わないと思っているのだ。
克っちゃん、見つけたよ。
世の中を見通す知性。
強者に踏み躙られてきた感性。
此岸から彼岸へ跳躍するための条件。
彼は、全部持っている。
社会的弱者の彼を、反社会の強者に育てあげること。傷ついてきた魂に、傷つける勇気を与えること。それが今も生きながらえている俺の役目だ。
克っちゃん、見ててくれ。
「こっち向いて。結論をいうよ」
充が顔を上げるのを待って、哲さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「この世の中は強者のルールで動いている。学校もそうだ。社会もそうだ。そのルールに従う限り、弱者は決して報われない。香守君には、その意味がよく分かっている筈だ。
「俺たちは、そんなルールの外にいる。社会的弱者の集まりだけれど、強者に勝つ術を知っているし、実際に活用し成功している。
「でも香守君は世の中のルールの中にいるから、これまでも散々嫌な目に遭ってきたようだし、今回は俺たちの術中にはまってしまった。
「そんな人生、嫌なんだろう? だから──」
死にたいんだろう、といいかけて、言葉を飲み込んだ。
「──うちの社員になれよ。そうしたらこの通帳は使わない。俺なら、君に生きる道を示せる。強者の作った世の中のルールを捨てればいいんだ。「ふつう」な奴らの都合に合わせる必要なんかない、そんな世界では俺たちは生きていけない。俺たちのルールで強者を弱者に引き摺り下ろせ。奴らに反撃し食い物にして、俺たちが強者として生きるんだ。
「君は、これまで周囲に散々傷つけられきただろう。仕返しもできずに自分を抑え込んできただろう。それこそが生きづらさの正体だ。生きるために、ルールを踏み越えろ。自分を解き放て。これまで君を傷つけてきた他人を、社会を、傷つけ返してやれ。その社会の傷が、君がこの世に生まれてきたことの、確かな証になる」
充は書類を抱えたまま、じっ、と哲さんを見つめていた。何秒でも、何分でも彼が口を開くまで待つ覚悟で、哲さんはその視線を受け止めた。
*
その夜、みなもは再び実家に戻ることにした。おばあちゃんの次々販売被害について家族に報告するためだ。
県庁に戻ったのが18時前。定時は17時15分なので、小室はもう退庁していた。みなももすぐに帰され、県庁前からバスに乗って松映駅で各駅停車に乗り換える。
電車の中からLINEで秀くんに「ごめん、用事があって、今夜も比嘉今に帰るね。詳しいことはまた後で」と知らせると、ぷるぷる震えながら涙を堪えて「ぼく頑張る…」と呟くすまいぬのスタンプが返ってきて、キュン死しそうになる。可愛い奴め。明日こそはアパートに戻って、ちゃんといちゃつこう。
家に入ると、ダイニングチェアに座って真面目な顔をしている父・朗に、母・和水が背後から抱きついて頬擦りをしていた。
「あ、珍しいパターン」
思わず声に出すみなも。母しゃんはそのままの体勢で応えた。
「おかえり。なんか父しゃん、ご機嫌斜めなのよ。和ませるために仕方なくやってんの。すりすり。好きでやってんじゃないのよ。すりすり。すー、はふう。ん、ちょっと汗くしゃい。くんくん」
臭いのにまた嗅ぐのかー。愛だなあ。
愛妻にベタベタされて、父しゃんの頬がついに緩んだ。両手を前に出してバタバタさせながら
「たすけてー、母しゃんに捕まっちゃったよー、食べられちゃうよー」
とちらちらみなもの方を見る。父しゃんの構ってサインは冷たくあしらうのが香守家の流儀だ。
「そのまま食べられたら。本望でしょ」
「母しゃんは好きだけど、母しゃんのうんちになるのはやだよー」
みなもと和水は同時に噴き出した。ソファの方からも笑い声が上がり、歩がソファに寝転んでいたことが分かった。両親のいちゃつきぶりが正視に耐えず隠れていたようだ。
食事を終え、20時半頃から家族会議が始まった。まずはみなもから、おばあちゃんちで見聞きした概要を説明する。
おばあちゃんちの座敷・居間から廊下にまで溢れ出していた段ボールは全部で35箱。そのおよそ2/3はナチュラリズム健康革命協会からのもので、残りは別の複数の業者から数箱ずつ届いていた。
「そげだねえ、多すぎて食べ切れんやなねえ。よお覚えちょらんだあもん、自分で注文出しちょったみたいだけん、頼んだもんは貰わないけんが」
おばあちゃんはどこか申し訳なさそうにそう語った。
二階堂が箱の中の書類をひととおり確認した。先日行政処分をしたばかりの悪質定期購入の手口とは違うようだが、注文実態があるかどうかは慎重に判断しなければならない。検討のため書類は預かって持ち帰ることにした。
段ボール箱はおばあちゃんが中の振込用紙を取り出すため全て開封されていたが、商品パッケージはほとんど未開封のままだ。
これ以上注文する気はないこと。返品できるものは返品したいこと。そうしたおばあちゃんの意思を聴き取って、二階堂とみなもは茂乃宅を後にした。
八杉から松映に戻るロシナンテの中で、二階堂が解説してくれた。
「次々販売の鍵は名簿なのよ。認知症でも、性格でも、理由はなんでもいい。『この客は断れずに商品を購入してくれる』という情報は、悪質業者にとっては有望なカモ候補。だから情報はリスト化されて、高額で販売される。例えば百人分の名簿に5万円払っても、そのうち買わせるのに成功するのが十人、一人平均三十万円計三百万円の売り上げが生まれたら、大成功よね。悪質業者の商品は利益率がむちゃくちゃ高く設定されてるし、もっと多額の被害も当たり前に発生してる。
「推測だけど、ナチュラリズム健康革命協会が購入開始時期が一番早くて量も圧倒的に多いから、ここが最初におばあちゃんに健康食品を売りつけたんじゃないかな。その情報を名簿屋に売って、名簿を買った別の業者が参入し始めたところ。または、同じ業者が別名義で畳み掛けている可能性もある。ここでケリをつけておかないと、被害が膨らむよ」
こうしたみなもの話を聞くうちに、父しゃんが次第に難しい表情になってきた。
「それで、これまで払った金額はどのくらいになるんだ」
「さあ、そこまでは」みなもは言葉を濁した。みなもが数枚確認した伝票の中で一番高額だったのは3万円台。仮にそれを平均として×35個で……この数字は迂闊に言えない。もっと多いかも知れないし、少ないかも知れない。
「明日、消費生活センターで何ができるか、検討してくれるって。その結果を待つしかないよ」
ふう、と父しゃんが大きく溜息をつく。
「どうしてこうも不合理な買い物をするかなあ。今日の振り込め詐欺だって、見え見えの嘘じゃないか」
また不機嫌のトーンが混じり始めた父しゃんの言葉を、母しゃんが受け止める。
「お年寄りはそういうものよ? お義母さんは八十歳、判断も行動も若い頃のようにはいかなくて仕方ない年齢と思わなきゃ」
「まあそりゃあそうかもだけど」
父しゃんは憮然とした表情で、今ひとつ納得いかない様子だ。
高齢者介護の初期段階、とりわけ認知症高齢者とその家族の間で、こうしたことはよく見られる。幼い頃に自分を育ててくれた、なんでもできる大人だと思っていた親が、年老いて様々なことが不如意となる。子供はそれを受け入れられず、イライラしたり叱責したりする。その先に、高齢者虐待も起こり得る。
高齢者に老化現象の回復を期待するのは、無理のある話だし、往々にして酷だ。大切なのはむしろ、家族の側の認識の変容なのだと、受け止める必要がある。「できる筈だ」と思っている限り「なのに怠けている」という思いが拭えない。「できない状況なのだ」と事態を受け入れることで「ならばどうするか」に発想は展開する。
「私たちがお義母さんをほっておき過ぎたのよ。もう少し頻繁に様子を見に行ったり、場合によっては同居も必要なんじゃない?」
「そうは思うよ。でもお母さんの方が、俺たちが家に行くことをあまり歓迎してないじゃないか。生活のことにあれこれ言われるのが嫌なものだから。同居にしたって、余程のことがなければ、向こうが首を縦に振らないよ」
「客観的には、その『余程のこと』が、既に起きているように思うな」
和水の言葉に、朗は考え込んでしまう。
朗と茂乃の仲は決して険悪ではないのだけれど、顔を合わせる度、朗は何かしら小言を言うことが多かった。茂乃にとってそれは煩わしく、一人息子への愛情はあっても、一定の距離を置きたいと明に暗に言っていた。実のところ、かつて八杉で同居していた朗たちがローンを組んで比嘉今に家を建てることになったのも、当時の二人の大喧嘩が発端だったのだ。
実の親子だからこその、互いに遠慮のない関係が、母子の間に溝を作っていた。
明日は茂乃宅で八杉署の事情聴取がある。朗は仕事を休んでそれに同席することにしていた。そこでまた妙な諍いが起きないか、和水はそれを案じていた。
「お義母さんに判断のおかしなところがあっても、それは歳のせいで仕方のないことなの。私たちだって、いまにヨボヨボになって、にゃもちゃんたちにお世話にならなきゃいけない。今はまだ、私たちは若くて元気でしょ。だから、こちらが折れるのよ。お義母さんに受け入れてもらえるように」
「それは……なんかやだ」
子供かっ、と朗以外の皆が内心で思ったが、口には出さない。
代わりににみなもが尋ねた。
「父しゃんがおばあちゃんくらいの歳になって、にゃもが辛く当たったらどうする?」
「それは泣く!」
父しゃんならほんとに泣きそうだな、と思ってみんな笑った。その笑いに交えて、みなもは一番伝えたいことを言葉にした。
「じゃあ、今はおばあちゃんを泣かさないようにしなきゃね」
朗はテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。
「努力は、するよ。……親子関係ってのは、一筋縄ではいかないもんだなあ」
みなもだって、思春期の父しゃんに対するわだかまりを思い出せば、父しゃんのおばあちゃんに対する気持ちは似たようなものなのだろうと思えた。
朗は頭の後ろで手を組み、背中を反らす。
「俺だって、充には嫌われてるもんな」
「そんなことないわよ」と和水。「ちょっと邪険なだけよ」
「邪険じゃけん、ぷふっ。──まあ、邪険にされる親の気持ちがいたたまれないのは、よく分かるよ。お母さんへの態度は、気をつける」
少しだけ、誰も言葉を発することのない間が開いた。言葉を継いだのは朗だった。
「充は元気にしてるかなあ。最近連絡ないんじゃないか?」
「もう後期の授業も始まって、忙しいのよ、きっと」
自分の人生は自分で決めたい。そういって自ら東京の大学を志望し現役合格した充。線の細い子だった。いろいろなことがあった。それだけに、朗と和水は充自身の前向きな選択を全力で応援して、この春に東京に送り出していた。
「あの子は、大丈夫。私たちが信じてあげなきゃ」
「そうだな」
充の話題には、朗と和水は言葉少なになる。二人の脳裏にはきっと、姉弟の知らない充の姿があるのだろう、親とはそういうものなのだろう。二人の様子を見ながら、みなもはそう感じていた。
[19]公務員の資質、管理職の役割
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インターンシップ二日目のテーマは、具体的な消費者被害事案についての法的検討だ。法学専攻の小室の希望に沿ったプログラムで、法律門外漢のみなもにはいささか敷居が高い。なのでまずは二階堂から、昨日の講義をもう少し深掘りするレクチャーが行われた。
「私たちの社会の基本原則は「自由」。日本国憲法は国家権力を統制して国民の自由を最大限に保障しています。
「でも、全てを自由に任せた弱肉強食の社会は、大変なことになるよね。だから「公共の福祉」消費者問題でいえば消費経済社会を公正・円滑にするために、法令で必要最小限のルールを設定しています。
「その法令を作っているのは……香守さん?」
「あ、えーと、国会」
さすがにこれくらいは分かる。小学生に訊くような質問ではあるが、一方的な説明ではなくダイアローグを挟むことで参加意識を保つことは大事だ。
「正解。法令という最初のルール策定の段階で、国家権力のうち立法機関が関わってくるわけです。法律なら国会だし、条例なら自治体の議会ですね。
「そのルールには、大きく3つの段階があります。民事ルール・行政規制・刑事罰です。以下、消費者問題を事例に説明するね。
「まず民事ルール、これは民法が一般法つまり大前提となる原則です。契約自由の原則の上に、トラブルが生じた場合の裁定基準を定めたものと考えるとわかりやすいかな。契約はこのルールに従って運用され、ルールの適用について争いがあれば裁判で決着をつけることになる。言い換えれば、国家権力のうち司法機関が法律による強制力を担保しているわけです。
「でも、民法のルールはあくまで一般的なもの。消費者問題には特有の状況があります。それは──昨日の話のおさらいになるね。小室くん、覚えてる?」
一瞬小室は宙を睨んで、それでもすぐに口を開いた。
「消費者と事業者との間の──情報の質及び量並びに交渉力の格差」
「うお、さすが。消費者契約法第一条を誦じてきたね。そう、事業者と消費者の間には圧倒的な力の差があるということ。事業者の方が製品についての知識や価格の相場など消費者より遥かに質的量的に情報を持っている。交渉力だってそう、事業者は相手に買ってもらうためのセールストークを磨き上げているけれど、一般消費者はそれを適切に判断し交渉する技術を持っているわけじゃない。民法の前提に契約自由の原則があるとはいえ、あまりにアンバランスな力関係の中で消費者が不当に物を買わされたりして安心して買い物ができない社会なんて、嫌だよね。
「だから民法の特例法として、消費者と事業者の間の取引だけを対象に事業者側の行為を規制する消費者契約法があるんです。民法の一般則から細かく交渉していく必要がなく、消費者は消契法に基づいて直接的に契約の取り消しや無効を主張できる。裁判になっても簡潔に判定できる。
「とまあ、ここまでが民事ルールの概要です。でも、民事ルールを定めるだけでは、色々と問題が残る。まず第一に、法律は専門性が高くて、誰もが詳しいわけじゃないでしょう。消費者と事業者の交渉の場面で、知らずにルールに反した主張をすることもあれば、相手の無知につけ込んで自分の利益をゴリ押しする人もいる。相手が理不尽に押してくる時に、そこで諦めるか、裁判で決着をつけるか。
「けれど──第二に、争いを裁判で解決しようとしたら手間もお金もかかる。トラブルになった金額が小さかった場合、得られる利益が弁護士費用を含めた訴訟経費や手間暇に見合わない。利益が大きければ経費は見合うかもしれないけれど、手間暇に当たる部分は結局は精神力なのよ。そこまでして戦い抜くか、諦めて心の平安を選ぶか。多くの人は諦めてしまう。もちろんそれは決して悪いことじゃあない。誰もが自分の道は自分で選ぶ。それが「自由」なんだから」
戦い抜くか、心の平安を選ぶか。
みなもはおばあちゃんのことを思った。認知症の入ってきたおばあちゃんにとって、相手と粘り強く交渉することは、とても大きな心理的負担なのだと想像できた。お金を払ってしまえば心は平安になる。その結果が、あの家の大量の健康食品であり、幸い未遂に終わったが振り込め詐欺に対する行動だ。
「でもそれで弱い消費者が事業者のルール違反を我慢するのは、悔しいじゃない」
悔しいなあ。
「だから、全国の自治体に消費生活センターなどの相談窓口があるんです。法律を始めとする消費生活関連の専門知識を持った相談員が、消費者に交渉のためのアドバイスをしたり、時には消費者に代わって事業者と交渉したりする。
「ここでようやく、国家権力のうち行政機関が登場するわけ。立法機関がルールを定め、司法機関が最後の裁定権を担い、行政が消費者を支援してルールに則った主張ができるようにする。こんなふうに、国家権力全体で消費者保護の民事ルールを運用しているわけです。
「でも、それだけではまだ足りない。何故なら第三の問題、初めから法律なんか無視をして消費者に不正に物を買わせようとする悪質業者の存在があるからです。
「民法や消費者契約法には、消費生活センターによる支援活動を除いて、行政の出番はありません。でも消費者取引の中には、押し売りのように明らかに不当な行為や、マルチ商法のように社会的にトラブルの絶えない形態がある。そうした「特定の商取引」にのみ特に強い規制を設け、それに反した場合は行政処分や司法捜査・刑事罰を可能にしているんです。つまり、私たち消費者行政担当者や警察が、直接違反者を取り締まることができる。これが特定商取引法の位置付けね。
「特商法の他に、もうひとつ大事な法律がありましたね。香守さん、覚えてる?」
「えっと、なんとか表示法。なんだっけ」
「いい線行ってる。景品表示法ね」
「そうだ景品表示法!」
「この法律は、その名前のとおり「景品」と「表示」を規制しています。景品については昨日も説明を省略したから、印象に残ってなくてもしょうがないよ。大事なのは、特商法が「取引」を規制するのに対して、取引の前提情報である「表示」を規制するのが景表法だということ。
「私たちは買い物をするときに表示を手がかりにします。「この空間除菌剤を首からかけたらウィルスをシャットアウト!」といわれたら、病気を警戒している人は飛びつくよね。「15,000円のものが今だけ特別価格8,980円!」と聞けば、安いうちに買わなきゃと焦るよね。でも、その表示が全部虚偽だったら。その商品にウィルスを防ぐ効果がなく、「今だけ」のはずの価格がずーっと変わってなかったら。消費者の信頼を裏切るそんな不公正、放置してちゃいけない。
「だから行政機関には、実際のものより著しく優良・有利に見せかける誇大広告を監視して、違反した事業者に訂正広告、再発防止を求める措置命令を出す権限が与えられているんです。
「と、いうわけで。午前中は特商法違反と景表法違反の事例をそれぞれ一件ずつ、じっくり検討してみてもらいます。資料を用意したから、まずは30分くらい二人で内容を検討しながら、何がどう違法と言えるか考えてみてくれる?」
そういって二階堂は二人に左肩をホチキスどめした資料を渡した。事例の取引や表示の内容を丁寧に記し、関連法令を付記したものだ。二人に検討させた後、解答編として行政処分に至る考え方のペーパーを渡して一緒に確認する手筈だ。
「事柄と法令の適用関係については小室くんの方が慣れてると思うから、小室くんがリードしてね」
「はい、要件事実を確認していけばいいですね?」
一瞬、二階堂の言葉が詰まった。
「……要件事実って?」
二階堂の言葉に、今度は小室が目を白黒させた。
「二階堂さん、法学にお詳しいのでは?」
「いやいやいや、私、学生時代は経済専攻だったし」
「そうなんですか? とても分かりやすい説明なので、ご専門かと」
「あー、それは担当職務だからね。消費者向けの講師をやる事もあるから、法律を知らない一般の人に理解してもらうための説明の筋道は、頭に入ってるんだ」
近年、住民の求めに応じて担当職員を講師派遣する仕組みを持つ自治体は増えてきた。とはいえ、実際にリクエストがある分野は極めて限られている。そのひとつが消費者問題だ。昭和の時代から公害・物価高・悪質商法などの消費者問題に対する国民の関心は高く、消費者向け講座の需要に対して自治体の消費生活センターが応えてきた歴史的経緯がある。そのため、消費生活センターに異動してきた者は「誰もが広報担当、誰もが講座講師」として鍛えられることになる。
二階堂もまた、春の着任から半年間で、随分と説明が滑らかになったものだ。
「法律は公務員試験の時にちょっと勉強したくらいで、仕事も国の通知文や事務マニュアルで大体こなせたから、正直法律は得意じゃないの。消費室に来てからよ、条文をちゃんと読み込んで頭を悩ますようになったのは」
公務員試験の筆記試験は、教養科目と専門科目に分けられる。教養科目の中にも法律問題はあるが、総合的知識がモノを言うため法律が苦手でもどうにかなる。問題は専門科目だ。公務員に必要な知識として行政学と法学は2本柱、法律問題は4割近くを占める。だから公務員試験を志す者が法律学習を避けて通ることはできない。
しかし──公務員試験はあくまで実務家の採用試験だ。司法試験や司法書士試験のように法律の専門家を選別する趣旨ではない。法律問題の得点が低くても、総合得点で一定水準に達していれば一次試験はクリアする。その上で小論文・集団討論・個人面接からなる二次試験を通じて、組織人として上司・先輩たちと共に役割を果たすことができるかどうかを見定められるのだ。
そうして採用された公務員は、結果として多様な資質能力の集団になる。法律に詳しいと自負する者はむしろ少数派かも知れない。
状況を納得した小室が説明する。
「要件事実というのは、それぞれの事件における、法律効果が発生するための具体的事実のことです。事実がこうだから、法律の要件を満たして効果が発生するという主張の基礎ですね」
二階堂はポンと手を叩いた。
「そう、まさにそれなのよ。事業者の営業の自由を制限する行政処分を行うには、厳格に法律に照らし合わせて理由を示さなくちゃいけない。後日裁判になっても負けないだけの理論構築をして、初めて行政処分を執行できる。そのための必須の作業ね」
要件事実という法学の基礎概念を知らなくても、現場経験を通して同様のことを身につけることができる。それが実務家としての公務員に求められる資質といえた。
*
後を二人に任せて二階堂が席に戻ると、野田室長が難しい顔で受話器を置いたところだった。二階堂と視線が合うと、すっと平静な表情に戻る。
嫌な予感。
インターンシップ指導の手が少し離れるこのタイミングで、二階堂は昨日の茂乃の過量販売案件を室長と検討する予定にしていた。
「室長、今からいいですか?」
二階堂の声掛けに、野田はニコッと笑って応えた。
「ごめん、課長から呼び出されたから、ちょっと行ってくるよ」
ひいっ、と声を出さずに二階堂は顔をしかめた。敢えて何の件かは聴かないが、野田の一際明るい笑顔から、また何かお叱りの呼び出しなのだろうと想像できた。
「戻り次第参加するから進めておいて」と野田。
過量販売事案に対しては、民事ルールによる回復の専門家である消費生活相談員、訪問販売または電話勧誘販売だった場合の行政規制発動について特商法担当の二階堂、特商法規制及び刑事罰について警察OBの不当取引指導員と、三人それぞれの専門から「筋読み」をする必要がある。最後に消費室としての方針判断をまとめる管理職の野田室長だが、それはある程度の整理がついた終盤でも事足りる。
「分かりました」と二階堂。その言葉を聞いて、野田はのそりと立ち上がった。
市町村プラザ5階から1階に降り、外に出る。県警前の歩行者用信号を押して横断歩道を渡り、議会前を通って本庁舎へ。顔馴染みの受付職員と二言三言言葉を交わし、敢えてエレベーターではなく階段をゆっくりと6階まで登る。
消費生活安全室から生活環境総務課まで7分。直属の課長に会うのにこれだけの移動を要するのは日常的には面倒だが、こういう時はありがたい。脳内で想定詰問に対する受け答えのシミュレーションを重ねた。
いざ。
「おはよーございます」
大きな声で、にこやかに。入口近くの総務予算グループ員が口々に挨拶を返す。小峠美和子課長も顔をあげ、頬を緩めて「おはようございます」と返したが、目は笑っていなかった。
「じゃあ、次長室で。なおちゃんも一緒に入れる?」
河上直(すなお)課長補佐は、小峠課長の言葉に「はい、大丈夫です」と応えて、ノートと筆記用具を手に立ち上がった。
生活環境総務課のオフィスは手狭だ。オープンな協議スペースはあるが、密談を交わそうと思えば左右の次長室または部長室を使うしかない。
小峠課長は、開け放たれたままの次長室のドアをコンコンと叩いて、中を覗き込んだ。
「次長、テーブル使わせてもらいますね」
「はあい、どうぞ」
部屋の主──生活環境部次長・杉本一二三(ひふみ)は高い声で応えた。小峠に続いて入ってきた野田を見ると、よっ、と手を挙げる。野田はかつての直属上司に軽く会釈をして、応接席の入口側に腰を下ろした。小峠課長は野田と対面する位置に、河上補佐は次長室のドアを閉めてから課長の隣に座った。
野田はチラリと杉本次長の様子を窺う。杉本は手にした書類に目を遣り、こちらの協議に加わる気配も、他所に行く素振りも見せていない。実は小峠課長が協議場所を押さえる際、「席を外そうか?」と気を遣った杉本に「いえ、追い出すような真似は。むしろ聞いておいていただいた方が」と引き留めていた。さすがにそこまでの経緯は野田も読めていない。
小峠課長が口火を切った。
「端的に言うよ。インターンシップのプログラムを逸脱して、学生を公用車で連れ出し、警察対応中の現場に立ち合わせたこと。これは澄舞大学から学生を預かっている立場として、極めて適正を欠く判断だったと考えています。申し開きを聴きます」
抜き身を上段から袈裟に斬り下ろすが如き第一声だ。
昨日二階堂からみなもを八杉に連れて行くと提案された時、野田は3秒考えた。そうすべきだとの状況判断に1秒。残る2秒は、予想される課長の叱責に抗弁できるだけの理と義を確認し覚悟する時間だった。
野田は大きく息を吸い込んで、意識的にゆっくりとした口調で話し始めた。
「はい。事実関係はメールでお知らせしているとおりです。判断理由として、まず他の家族の支援が見込めず彼女が動く以外にない逼迫した状況でした。彼女自身にも動揺が見て取れ、プログラムで拘束し続けることは適切ではないと考えました」
河上補佐がノートにペンを走らせる。課長が野田とのやりとりに集中できるよう記録係を務めるのが、このような席での課長補佐の重要な役割だ。
「その時点で2点問題があります」小峠が切り込む。「第一に、ならばそこで香守さんのインターンシップを中断して県の管理下から外し、個人行動に切り替えるべきだったのではないか。第二に、判断に先立って、私かインターンシップ調整担当のなおちゃんに相談すべきだった」
「第二の点については、仰る通りです。事後のご報告になったのは申し訳ありません。私の考えが至りませんでした」
野田は素直に頭を下げた。もちろん、事前に相談すればグダグダと時間がかかることが予想されたから、野田は確信犯で二階堂の提案を独断許可したのだ。そんなことを査問の場で馬鹿正直には言わない。小峠課長も野田の性格から察しているだろうが、敢えてそこまで追求はしてこない。
野田が続ける。
「第一の点については、幾つかの理由があります。まずインターンシップ受け入れ時間内であり、県として彼女の面倒を見る義務のある時間だったこと。次に、振り込め詐欺防止は消費生活センターの職務と重なる部分であり、その現場見学はインターンシップの趣旨を逸脱しないものと考えられたこと。そして、緊急に駆けつけることを警察から求められた彼女にとって、最速の手段だったことです」
小峠課長は、ふう、と口で息を吐き、宙を仰いだ。それから再び正面を向き、視線で野田を射抜く。
「肯定できる理屈を並べるなら、そういうことになるね。一方で否定的要素もたくさんあるでしょう? 事前に設計したインターンシッププログラムが台無しになる。小室君を巻き込まなかったのは正解だけど、担当の二階堂さんと仲間である香守さんが共に不在となり、彼への対応を損なったのではないか。警察活動中の現場を「見学」するなんて、警察にとっては邪魔、かつ被害者のプライベートに土足で踏み込む行為だよ。だから、インターンシップ生の現場見学という理由づけは成り立たない。香守さんだけで小室君を外したことも、「見学」設定では説明がつかない」
応答しようと口を開きかけた野田に被せるように、小峠が「そもそも!」と語気を強めた。
「詐欺の振込現場に駆けつけるのは警察の仕事であって、センターの仕事じゃないでしょう。日頃、そんなことやってるの?」
「いえ、やっていません」
野田はさらっと応えたが、正直痛いところを突かれた。
消費生活センターの職員が通報を受けてまさにトラブルの発生している現場に駆けつけることは、基本的に、ない。それを前提とした人員配置がされてない、つまり、リソースが足りないからだ。結果として、現行犯の通報があった際は電話でアドバイスを行い、必要に応じて警察に連絡するのが関の山ということになる。
「日頃やってないことを今回だけ特別にやったわけだよね。つまり、香守さんの私的トラブルへの対応に公用車を使ったと非難されても、有効に抗弁ができない」
「非難とは、誰からです?」
「そういうことじゃない、リスクの話をしてるんだよ。今回の件は内々で終わるだろうから、第三者に見咎められることは実際にはないでしょう。事故が起きたわけではないから、大学にも報告はしない。でも、だからいいということにはならない。仮に外部から文句を言われた時に抗弁できない行動を部下が取ろうとしたら、止めなければ。それが管理職に必要なリスクマネジメントなんだよ。野田さん、今回あなたにはそれが欠けていた」
課長の理屈には一定の理がある、そう野田は内心で認めた。だから、リスクマネジメントの在り方について異論はあるとしても、それを反論としてぶつけるのはやめようと思った。
ただ──。
「仰ることは、わかります。ひとつだけ、私の判断に至る核心を説明させてください。消費生活センターは、事業者の違法不当な行為に直面する消費者の味方として振る舞うことが職務です。あの時、香守さんと彼女のお祖母さんは、間違いなく被害者だった。インターンシップ生である以前に、彼女は消費生活センターが支援すべき対象者だと考えました。だから、諸々のことには目を瞑り、二階堂君に彼女を八杉へ連れて行く許可を出しました」
小峠課長は野田室長の視線をまっすぐに受け止めたまま、しばらく口を開かなかった。そのうち、ふっ、と小峠の緊張が解けた。続いて彼女の発した言葉は、これまでの詰問調とは少し違った柔らかさを帯びていた。
「うん。想いはよく分かります。消費生活センターは、一昨日の二階堂さんのニュース発言じゃないけど、正義の味方だものね。センター長として何を重視した判断だったのかは、理解しました。
「でもね──言い方がちょっと難しいんだけど、あなたは内室の室長、私は課長でしょう。何かあった時の最終的な責任は、私が所属長として背負うことになる。その責任と引き換えに、私が最終的な判断権限を知事から与えられている。だから──事前に相談してほしかったんだよ」
それはまあ、そうだ。野田は素直に「はい、すみません」と再び頭を下げた。
「さて。野田さんの考えは聞けたし、私の懸念も伝えた。なおちゃん、何かある?」
話を振られた河上補佐は、ボールペンを動かしながら、無言で首を横に振った。
「じゃあ、以上。忙しいとこごめんね」
小峠の表情に笑みが現れた。いえ、と応えながら、いつもみたいに険悪に終わらなくて良かったと野田は思った。
野田が立ち上がりドアノブに手を置いた時、小峠が「あ、もうひとつ」と声を上げた。
「夕方スマイルで二階堂さんの不規則発言を放送された件。別件と併せて広報課長からすまテレの報道局長あてに口頭で抗議を申し入れたそうだから。今後、すまテレからそちらにも謝罪に来ると思うから、そのつもりで」
[20]生まれる接点
*
朝9時、東京都北区王子。
上埜勝(うえの・すぐる)──深網社内で哲さんと呼ばれる男のスマートフォンが鳴った時、彼は自宅マンションのアーロンチェアに深く身を委ねて読書中だった。家の中には他に誰もいない。女と同衾する部屋は都内に数カ所あり、別に確保しているここは彼一人の城だ。
bluetooth接続された65型壁面埋め込みディスプレイが自動的に点灯し、発信者名が大きく映し出される。
香守充。
おっ、と声が漏れた。
昨日、あれから充はひと言も喋らなかった。場面緘黙。主観的心理圧状況において言葉を発せなくなるチック症状で、発達障害に伴うことも少なくない。対人恐怖とはまったく異なる心理機制だ。その証拠に、充は口を閉ざしたまま、上埜の眼を真っ直ぐに見ていた。
その状態になると、もう説得してどうなるものではないと、上埜はよく知っていた。だから、後日また話をしたいと最後に伝えて、解放した。充はぺこりと頭を下げて、ブッさんに伴われて部屋を出て行った。
彼が警察に駆け込むことは心配していない。根拠があってのことではなく、仮にそうなったらそれが運命と割り切っているだけだ。上埜に自己保身の意識は、ほぼない。それが上埜勝という男だ。それよりもむしろ、充がそのまま自死に至る不安が拭いきれなかった。せっかく見つけた「適格者」を失うのは避けたい。だから、最後に連絡先を登録しておいた充の携帯から連絡があったことで、上埜は安堵していた。
「電話に出る」
上埜の声に反応して、画面の充の名前の下に「通話中」の表示が現れる。
「はい」
「あの──香守です。哲さんですか?」
「そうだよ。おはよう」
「……おはようございます」
2秒、3秒、沈黙が続く。上埜は待った。5秒に達する前に、充が話し始めた。
「んん、昨日のことなんですけど。まだ決めたわけじゃないんですが、もう少し具体的なお話をお聞きしたくて。勤務条件とか」
「ぷははっ、勤務条件?」上埜は思わず声を出して笑った。
「いやまあ、そうだよな。「就職」するなら勤務条件は大事だ。うん。電話じゃ話しづらいから、直接会おう。今日の午後はどう?」
「早い時間なら大丈夫です。四時過ぎには大学に行かないと」
昨日よりも会話が滑らかだ。おそらく彼にとって電話は話しやすい媒体なのだろう。
他人と対面で話をする時、人は五感でその空間を感じ取っている。とりわけ相手の表情や仕草といった視覚情報は、語られる言葉以上に情動のニュアンスが籠っているものだ。
メラヴィアンの法則。会話の場面で人が相手の意図を受け止める際に、相手の言葉の中身つまり言語情報から7%、声の大きさやリズムなど言葉の内容以外の聴覚情報から38%、そして表情や身振り手振りなどの視覚情報から55%の情報を受け取り、その総合判断を瞬時瞬時に行っているとされる。この比率から7-38-55ルールとも呼ばれる。心理学者アルバート・メラヴィアンの実験結果が元とはいえ俗流ビジネスハウトゥとして広まった理論だから、数字にあまり意味はない。ただ、コミュニケーションがこれほど複雑な認知処理を要するものだということは、つまり人の資質によって当然得手不得手が生まれることになる。
上埜はコミュニケーション強者だ。腕っ節が立つとは言えない彼が反社業界で一定の地歩を維持できているのも、的確に相手の心理を読み取り掌握することができる彼の資質に依るところが大きい。上から可愛がられ、下からは心酔されて、一部の例外を除いて敵をあまり作ることなく世の中を渡ってきた。
一方で、充のようなASD類型の発達障害では、他人の心の把握を苦手とする事が多い。会話の場面で言語・聴覚・視覚の膨大な情報を総合的に把握することが負担となり、処理しきれずにフリーズしたり、逆に特定の要素だけが気になってしまい本意を捉え違えたりする。チグハグな応答によって相手を困惑させ怒らせる経験を重ねると、さらにコミュニケーションが怖くなる。
聴覚情報のみで情報量が対面の半分に削ぎ落とされる電話は、充にとって集中できる手段なのかもしれない。会話を続けながら、上埜はそんな読みをした。
「わかった。紫峰大は茗荷谷だっけ」
「はい」
「池袋なら二駅だから、時間を有効に使えるね。西口のアンゴルモアは覚えてるかな。そう、占いの。あそこで、13時に」
電話を切ると、上埜はしばし脳を駆動させる。
警察と連携した罠の可能性はないか。──ない。騙されたふり作戦の単純例があるとはいえ、ここまで手の込んだ囮捜査に未成年の民間人を使うとは考え難い。香守君の声音にも彼の特性に照らして嘘をついている気配はなかった。
では本気で就職──仲間に加わる可能性を考えているという前提で受け止めるべきか。「適格者」を見つけた嬉しさで目が曇らぬよう警戒しつつ、その前提で行くのが妥当。
午後の面談までに準備しておくことは。
「ブッさんに電話する」
音声コマンドに反応してディスプレイに「ブッさん」の表示が点る。ツーコールで相手が出た。
「はい、桐淵です。おはようございます」
「おはよ。今、香守君から電話があったよ。詳しい話を聞きたいって」
「はい」
「今日は俺一人で面談するよ。結果は連絡する。彼の通帳は道具に使わずに保管してくれ。それから、他に彼について何か気のついたことがあったら、教えといて」
「はい──」一呼吸+αの間が空いた。「実は、昨日香守と面談していただいた同時刻に、偶然なんですが奴のばあさんを刈り込みに掛けていました」
今度は一瞬、上埜が言葉を継ぎあぐねた。
「──続けて」
「結果は失敗です、振り込み直前でコンビニ店員に気付かれ、阻止されました」
「そうか、むしろおかしなことにならなくて良かった」
「珍しい苗字で同じ澄舞県だから気になっていたんですが、奴の出身とばあさんちで住所が違ったので。昨日奴を送り出す間際に念のため、八杉に親戚がいるかと訊いたら、ばあさんの名前が出ました」
「ふうん──訊いたんだ」
あっ、と桐淵が息を呑んだ。質問自体が充に一定の情報を与えることになる、それが哲さんの気に障ったのではと畏れたのだ。その気配を一秒半観察してから、上埜は続けた。
「まあ、いいよいいよ。ばあさんの名前は身内リストに入れといてな」
身内リストとは、社員の親族・友人など詐欺のターゲットから外したい相手を自己申告で登録するものだ。ただしそれは、内部管理的には社を裏切って逃亡した際の追及先にもなり得る。
まだ入社が決まったわけではないのに、哲さんはもう香守を逃さないつもりなんだ──桐淵はそう察した。
「分かりました。それから、ばあさんの情報の出元はキイチのところです。商品を断らずに購入し続けているとのことで、「優良顧客」としてこちらに回ってきました」
八巻一郎太(やまき・いちろうた)──通称キイチは桐淵と同格の深網社幹部で、電話勧誘販売・通信販売系の商売を取り仕切っている。ナチュラリズム健康革命協会は彼の屋号のひとつだ。
深網社グループはいくつかの組織に分かれ、大まかな役割分担がある。八巻の会社は法的にはブラックではなくグレーの商法で、名簿屋から購入したカモリストを元に電話攻勢を掛けている。法規制を大きくは踏み越えずギリギリを攻める分だけ一件あたりの売上はそれほど大きくないが、グループ企業としての業務目的の半分はカモリストのリバイスにある。名簿先とのコミュニケーションで得た同居家族や資産状況などの情報を補完する。少し押せば高額商品を買ってくれる顧客には、どんどん売る。そうして磨き上げた「優良顧客」名簿が、次には桐淵の仕切る完全ブラックな詐欺に回されるわけだ。こちらは数百万から一千万越えも狙える。
「そうかあ、キイチんとこでしゃぶっていたわけか」と上埜は独り言のようにいう。どうも間が悪い、とまでは声には出さない。「わかった。ばあさんの名簿情報はクラウドに上げといて。キイチには話を聴いておく」
電話を切ると、上埜は椅子から立ち上がった。
西側ベランダに続く掃き出し窓の前に立ち、外を眺める。眼下には在来線・新幹線合わせて10本の線路越しに飛鳥山の木々が広がり、目線を上げれば僅か3km先の池袋には高層ビルが林立する。上埜の故郷ではあり得ない、この国の首都の風景だ。
──東京でようやく見つけた適格者が澄舞出身とは、なんという因縁だろうね、克っちゃん。
*
小峠課長の詰問から予想外に早く解放され、野田は往路より心持ち軽い足取りで消費生活安全室に戻った。
室長席前の協議テーブルには三人が陣取っている。特定商取引法担当の二階堂、澄舞県警OBで不当取引指導員の後藤和臣(ごとう・かずおみ)、消費生活相談員の久米照子(くめ・てるこ)だ。野田は自席にノートを置いて、筆記具だけを持って協議テーブルについた。
「遅くなりました」
野田の腰が落ち着くのを待って、二階堂が「お手元にレジュメを置いてます」と声をかける。野田は目の前のA4版ワンペーパー両面レジュメを手に取った。
「昨夜香守茂乃さん宅で預かった書類から判明している事実関係を、裏面にリスト化しています。ナチュラリズム健康革命協会が一番開始時期が古く七ヶ月前から、件数も25件と一番多いです。後は4業者10件、二カ月前くらいから始まっています」
二階堂は一旦言葉を止めて、野田室長の様子を窺う。野田がさらりと目を通し表面に返したところで、再び口を開いた。
「茂乃さんは一人暮らしですが、平均してざっと一件あたり三ヶ月分の量ですから、少なくともナチュラリズム健康革命協会の販売量は6年分相当。種類はいくつかあるとはいえ、明らかに過量です」
いわゆる次々販売は、財布の紐が緩く断らない(断れない)消費者に対し、本来必要な程度を著しく超えて大量の商品や役務を販売する手口だ。商品の場合は健康食品や化粧品、浄水器、呉服、布団といった、高額単価を設定しても相場的に不自然ではないものが多い。役務であれば子供の学習添削を5年先まで一括契約させたり、無料点検で回っていると偽って床下や屋根上など消費者が自分で確認できない場所をチェックし、不具合があると嘘の報告をして必要のない工事を行う点検商法からの派生がある。
こうした次々販売は一社だけでなく、「あの家は財布の紐が緩いぞ」という情報が業界に出回り、獲物に群がる蟻のように複数の業者が消費者を食い物にするケースがある。平成17年5月に報道され社会に衝撃を与えた事件も、そのようなものだった。
埼玉県富士見市で一軒の住宅が差し押さえを受け、競売にかけられた。住人は80歳と78歳の高齢の姉妹で、これまで特に生活に困窮している様子はなかったから、周辺住民は驚いた。不審に思った人からの連絡を受けて市役所職員が当該住宅を訪ねたところ、驚くべき事実が明らかになった。
三年前からこの家に複数の悪質業社が出入りしており、必要のない多数の工事を市場価格より遥かに高額な金額で実施していた。二人を食い物にしていたのは全部で16社。3つあれば十分な床下換気扇が30個も取り付けられていたり、11日間で契約5件700万円ものシロアリ駆除・床下調湿等工事が行われていたり。それまで四千万円あった預金は全額引き出され、それでも工事費用が不足していると業者が訴えたことから、自宅の差し押さえが行われ競売に進んだのだ。
姉妹は二人とも認知症で、契約の必要性はもとより、自宅が競売に掛けられている事実も理解できていなかった。
この事件報道は社会にふたつの衝撃を与えた。ひとつは、世の中にはこれほど悪辣な商売をする業者がいるのだと、あらためて知らしめたこと。もうひとつは、自宅の競売という事態に至るまで周囲がそれに気付くことができなかったことだ。
その後の調査の結果、全国で同様の事案が多数明らかになった。悪質商法の被害は、高齢者や障害者、若年者など、十分な判断能力・交渉力を発揮できない弱い立場の人に多く発生する。「騙される方が悪い」などという自己責任論で済ませてはならない状況が、そこにあった。この事件をきっかけとして、全国の自治体で消費者行政と福祉・教育・金融などが連携して高齢者等の見守りに消費者被害防止の視点を交える取り組みが始まった。
「ただ問題は」と二階堂が続ける。「これが電話勧誘販売なのか通信販売なのかが、はっきりしていません。書類から読み取れず、昨夜茂乃さんに尋ねても発端を覚えていらっしゃらなくて。香守さん──みなもさんの話では、最近は認知症を窺わせる状況があったようです」
「ふむ。つまり、特商法の契約解除権が使えるとは限らないわけか」
「はい」
特定商取引法は基本的に行政規制・刑事罰を定める法律だが、唯一しかし極めて強力な民事ルールがある。クーリング・オフだ。一定の条件下で消費者側から無条件に契約を解除できる、事業者側から見ればとても恐ろしい規定といえる。
ただし、強力なだけに、使える範囲が制限される。例えば、訪問販売と電話勧誘販売にはクーリング・オフがあるが、通信販売にはない。何故か。それは、訪問販売・電話勧誘販売が事業者側が消費者に対して不意打ちのように訪問・架電して勧誘するものであるのに対し、通信販売は消費者側から注文行動を起こすという自発性があるからだ。消費者が油断している時に勧誘され契約を急がされる訪問販売・電話勧誘販売には、その後一定期間の間に頭を冷やして(クーリング)契約を解除する(オフ)ことを特別に可能としているのだ。
特商法の過量販売規制は、訪問販売と電話勧誘販売にのみ設定されている。電話勧誘であればクーリング・オフに準じた契約解除が可能だし、行政指導や調査・処分も行える。通信販売の場合は、消費生活センターとして取れる対応が消費者契約法に基づく契約解除に絞られてしまう。
後藤が口を開いた。年齢は重ねているが精悍なスポーツマンタイプ、言葉もはっきりしている。
「そこなんですよ。特商法が使えればわしの出番で、調査でも指導でもガーンと行っちゃるんですけど。そこが分からないから、もどかしい」
警察を定年退職した後、二年ほど民間団体で勤務した後、キャリアを買われて不当取引指導員に採用され三年目の65歳。先日の行政処分でも彼の調査能力が大いに役立った。
後藤の言葉を、久米が受けた。
「電話勧誘か通販か、業者に確認してみるしかないでしょう。どちらにせよ消費者契約法に基づく返金交渉はできると思うので、まず一度、相手方に電話してみましょうか」
久米は59歳、澄舞県消費生活センターに10人いる消費生活相談員の中で最も長い、30年のキャリアを持つベテランだ。相談者に対する親身な接し方、事業者への時に毅然とした対応、経験と知識に裏打ちされた確かな見識は、彼女を相談員のリーダー格と誰もが認めるだけのものだった。
「よし、そうしよう」野田が歯切れ良く言った。「勧誘・注文方法の確認、それから、相手がまともな事業者かどうか、雰囲気を探ってみてください。それによって我々の今後の対応も硬軟が変わってくる。みんな、それでいいかな?」
三人それぞれに頷くのを見て、野田は号令を発した。
「じゃあ、一旦解散。進展したらまた集まろう」
[21] 反社会的交渉技術
*
二階堂がみなもたちのところに戻り、事例検討を進めて30分ほどが経過した頃、久米が協議スペースに顔を覗かせた。
「二階堂さん、さっきのナチュラリズム健康革命協会のことで相談が」
表情は曇り気味で、交渉は順調ではないようだ。
「あ、そっち行きます」
そういって二階堂が腰を上げかけた時、みなもが口を開いた。
「あの、祖母の件ですか?」
「そうだよ。相手とコンタクトを取り始めたところ」
「業者との話なら、私も、聴かせていただけませんか」
んー、と二階堂は答えあぐねて、みなもの顔を見た。自分よりひと回り若い彼女の真っ直ぐな視線が眩しかった。
その時久米の横から、ぬっ、と久米の1.2倍くらい大きな野田室長の顔が覗いた。
「いいんじゃないかな」
え、いいんですか? と二階堂が表情で尋ねる。野田は笑って
「悪質業者との交渉なんて、消費生活センターの業務の見所みたいなものだからね。うちの仕事を理解してもらうには丁度いい。ただ──香守さん、おばあさんの案件絡みだけど、小室君にも聴いてもらっても大丈夫だろうか」
「はい、構いません」
きっぱりとしたみなもの応答に、野田は頷いた。
「ありがとう。後は、二人に念押し。事前に提出してもらった誓約書に、守秘義務が記されていたと思う。今から立ち会ってもらうのは、現実の事業者・消費者に関わる交渉です。見聞きしたことは、他の人に話さないこと。業者名をぼかしてSNSに投稿するとかもしないでね。大学に提出するレポートは、業者との交渉電話に立ち会ったという最小限の事実だけなら、書いても構わないから」
小室とみなもはそれぞれに「はい」と応えた。
「よし、じゃあそういうことで。我々は少し打ち合わせするから、その間に香守さんから小室君に、簡単に状況を説明しておいてくれるかな。5分くらいしたら、あっちに来てよ」
野田と二階堂は協議スペースから室長席前の小テーブルに移動した。
「香守さんたちを立ち合わせること、ダメかと思っていました」と二階堂。「特に小室君は、昨日も止められたので」
「そう? 昨日は警官の臨場する市中の現場だったけど、今日は我々の室内、ホームグラウンドだよ。この場所で彼らが「職場体験」することを、県は組織として許可している。案件は一般相談者のそれではなく、インターンシップ生として県の監督下にある香守さんのものだ。相談当事者の彼女から、小室君が立ち会う許可は得られた。二人に守秘義務の念押しもした。これなら課長も文句は言わないよ」
「あー……」二階堂は察した。「今朝の課長呼び出しは、やっぱり昨日の件のお叱りでしたか。二日連続でやらかしてしまって、すみません」
おっと、と野田は口に大きな掌の先を当てた。体格に似合わぬ仕草がかわいい。
「ま、さらっと終わったよ」
昨日の件についての課長の懸念も、一昨日の件で広報課からすまテレに抗議を行ったことも、二階堂に話しておくべき内容だ。後で落ち着いた時間に話すつもりだったが、流れで野田はポイントを彼女に伝え、最後に私見を付け加えた。
「ぼくは、二階堂君の提案は最善の判断だったと、今でも思ってるよ。それに結果論ではあれ、そのお陰で次々販売被害にも気付くことができたし、その解決支援を行おうとしている。ぼくたち消費生活センターは正義の味方、でしょ?」
テレビで県下に放った二階堂の啖呵。二階堂は苦笑いをしながら頷いた。
久米と後藤が加わり、久米から交渉の状況が報告された。
久米がナチュラリズム健康革命協会に電話をした時、応答したのは若い女性の声。丁寧な物腰で、久米が消費生活センターを名乗っても特に動揺は窺えなかった。香守茂乃の購入について訊きたいと伝えると、担当者が不在なので後ほど電話させますとのことだった。
「担当者の在席を確認する気配はなかったので、テンプレート応答だと思います。おそらくバーチャルオフィスですね」
一般事業者でも本来の事務所以外に専用のコールセンターを設けている場合はあるが、できるだけたらい回しをせず応答ができる体制になっている。しかし今回は、久米から用件を詳しく聞き取ることもなく「担当から掛け直す」といった。「担当」は元々そこにはおらず、電話は依頼主に通知するだけのバーチャルオフィスサービス。悪質事業者が身元を隠して活動するためのツールのひとつだ。
5分後にセンターの電話が鳴った。発信者番号非通知。相手の男はナチュラリズム健康革命協会のヤマモトと名乗った。気の弱い若者のような感じで、消え入りそうな声で受け答えもはっきりしない。
「のらりくらりして、言うことが変わるんですよ。最初は電話勧誘だったと言ってた筈が、そんなことは言ってないダイレクトメールだといったり。電話が混線していてこちらの声が聞き取りづらいと、何度も聞き返してきたり。どうもまともに話をする気がなくて、わざとやっているというか」
「そりゃあ、ロクなもんじゃねえなあ」
後藤は警察官時代に数多くの犯罪者と丁々発止のやりとりをしてきた。だから、反社会的勢力のやり口はよく分かっている。
「普通の事業者なら、口喧嘩はしても日本語としての会話は一応噛み合うんですよ。話が噛み合わんのは、わざと。形だけ行政の話に付き合っといて、実際には聴く気はなく、煙に巻いてるだけ」
この辺りで小室とみなもがやってきた。野田は二人に手招きをしてテーブルにつかせた。
二階堂が久米にいう。
「最初に電話勧誘だったって、一度は言ってたんでしょう? ならそれを足がかりにして、特商法の質問調査権が使える。ね、後藤さん?」
最後の一言は後藤に同意を求めるものだ。後藤は二階堂の前任者とコンビを組んで二年間の取引指導経験がある。さまざまな面で頼りにしている先輩だ。
「ま、そうですな。事実関係が確認できたわけではなくても可能性があるなら、特商法担当者として業者とコンタクトを取る口実はある」
二階堂は大きく目を開いて後藤の顔を見つめた。その視線が期待に満ちていることに気づき、後藤は(え、俺?)と声を出さずに口を動かし、自分を指差した。頷く二階堂。
「俺が電話してもいいんだけど、午後から今週一杯お休みなんだよね」
あ、と二階堂はその事実を思いだした。非常勤勤務の後藤は、年に数回長めの休みをとって、旅行やスポーツなど定年後の趣味に勤しんでいる。今回は東北の山に登るのだと聴かされていた。
「一回の電話で終わる話にはならなそうだし、継続対応するのにタイミングが悪い。今回は二階堂さんに任せた!」
「──わかりました」
半年あまりの特商法担当経験の中で、悪質業者との電話は幾度も経験したが、時に理不尽な威嚇をしてくる相手との会話は慣れるものではない。後藤に担当してもらえれば助かる、と思っていたが、甘かった。
そのような内心の動揺はおくびにも出さず、二階堂はキリッとした表情でみなもと小室の方を向く。
「一度は相談員さんから向こうに電話してもらったけど、どうも悪質業者のようで埒が開かないみたい。そこで今から、私が特商法担当者として、バシッと言ってやります」
*
「バシッと言ってやりゃあいいんだよ、そんときゃな」
キイチこと八巻一郎太(やまき・いちろうた)は、キノの問いにそう応えた。
ナチュラリズム健康革命協会の事務所。先ほど新人訓練を兼ねて、キノに澄舞県消費生活センターに電話をさせたところだ。
この商売をしていると、全国の消費生活センターやその親分格である国民生活センターの相談員から日常的に「苦情」電話がかかってくる。
詐欺というほど違法なことはしていないが、「消費者のために誠実に商売します」なんてこともない。だから、センターからの電話に応答はするが、実のある話はしない。会話をチューインガムのようにどこまでも引き伸ばして、返金はひたすら回避。
ただしやりすぎると、センターとは別の行政処分権限を持った役所が動き出すから、そうならないようにどこまで粘れるか、粘り切れない時にどこで白旗あげて返金するか。その見極めは、最終的には八巻の仕事だ。
その直前までの段階、つまり勧誘から販売、追加販売そして苦情処理の過程で顧客を説得し消費生活センターを煙に巻くのが、社員の役割になる。
そのため、社員教育の中でも特に力を入れているのが、心理学の実践的応用だ。人は決して合理的・功利的な存在ではない。情動を掴み取れば、あとは錯覚や誘導で思う方向に誘導することはたやすい。その技術を、最初に数時間程度の研修をした後は、OJT(On-the-Job Training)で身につけることになる。
キノは入社二週間。消費生活センターとのやりとりは二回目だった。「会話をしながら会話しない」こと。ひとことで言えばこれに尽きるのだが、普通の生活を送っている一般人にはこれが難しい。つい、会話をしてしまうのだ。
先ほどのキノの応答も、やはりヌルい。最初に電話勧誘販売だと口を滑らせたので、(通信販売の申し込みがあったといえ!)と怒気を含んだメモを見せ、脈絡なく修正したのは、結果論ではあっても良かった。一度言ったことを何の説明もなく「なかったこと」にする。相手は混乱する。そこがいい。だがそれくらいで、後はダメだ。「電話が混線していてよく聞こえない」は最後の手段みたいなもので、初回からかましてどうする。
説教の終わり近く、キノが八巻に問うた。センターが理屈で責めてきたら躱しきれない、どうすればいいかと。それに対する八巻の回答が冒頭の「バシッと言ってやりゃあいいんだよ」だった。
「いいか、話をはぐらかせなくなったら、次にモノをいうのは威圧だ。理屈なんかどうでもいい、大声を出しゃ相手はビビる。ただな、直接的暴力を匂わせたり脅迫になるような言い方はまずい。相手が録音していた場合、警察が動くきっかけになりかねんからな。こちらの正当性をどうしてわかってくれないんだ、行政のやってることは不当だ、という話を大声でかますんだよ」
キノは頭を抱えた。
「俺、そういうタイプじゃないんすよ」
25歳、小太り。そこそこの大学を出て、そこそこの企業に勤めていたが、何を血迷ったか備品のパソコンを一台ガメて自宅に持ち帰ってしまった。ネットに接続して立ち上げた途端に社のセキュリティ部門にアラートが出て、社内監視カメラにしっかりと犯行の瞬間が記録されていた。即、クビだ。
PC買い替え費用、対応人件費など会社から請求された70万円ほどの金額を払うことで内々に和解し、警察への被害届は出されずに済んだ。その金は、親に正直に言うこともできず、消費者金融で工面した。
その消息を耳にした中学時代の知り合い(「友人」ではない)のリクルートにより、ここで働き始めたばかりだ。知恵がない、度胸もない、小心者。八巻もそんなキノ──木下誠の人物像をよくわかっていた。
「タイプは関係ない。俺もな、昔は他人に対して大声なんて出せなかった。普通は心理的抵抗が大きいもんな。でもな、これはシンプルに交渉技術で、役者として輩を演じ切ることで相手をコントロールできるんだと腹に落ちたら、平気になった。何事も場数だぜ」
その時、パソコンに向かっていたレミが声を上げた。バーチャルオフィスの顧客向け情報掲示板だ。
「キイチさん、また澄舞県から電話が来たようです。センターじゃなくて、消費生活安全室のニカイドウという女性だそうです」
二階堂がかけた電話を、バーチャルオフィスが受けて「かけ直します」と切った状況。その情報が掲示板を通じて伝えられる。さて、どうする。
「──よし、じゃあ俺が手本を見せてやるよ」
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。八巻は啓発本で齧った山本五十六の言葉を脳内で反芻した。哲さんからこの会社を任されている以上、部下には範を示さねばな。
自分の席に戻り、掲示板に記載された電話番号を確認すると、携帯から発信した。二重に転送サービスをかけているので、向こうには転送業者が所有する固定電話の番号が表示されている筈だ。
相手が出た。
「はい、澄舞県消費生活安全室・二階堂です」
澄舞県庁では、電話を受けた者が所属と氏名を言うのが基本ルールだ。
「あ、二階堂さんですね。わたくし、ナチュラリズム健康革命協会のオカダと申します」八巻は猫撫で声でそういった。名前は営業用の偽名だ。
「お電話をいただいたそうでして、不在にしていてすみません」
「あ、いえ。わざわざお電話ありがとうございます」
若い女。こちらの丁寧な言葉に恐縮している気配。第一印象としては、御し易そうだ。
「あの、ヤマモトさんをお願いしたんですが」
「ヤマモト」は先ほどキノが使った偽名だ。八巻は落ち着いて応えた。
「わたくし、ヤマモトの上司でございます。本件責任者として、お話をお聞きしたいと思いまして」
そこから五分ほど、穏やかに会話が続いた。二階堂からは、自分が特商法担当者であり久米相談員とは別の目的で電話していること、電話勧誘販売なら特商法の各種規定を遵守する必要があること、香守茂乃さんについて過量販売規制違反の疑いがあることなどを伝えた。八巻からは、あくまで通信販売で電話勧誘販売ではないという一点に絞った反論が繰り返された。
一応は話が噛み合っている、と木下は思った。のらりくらりしたところがない。
これは八巻の意図的な使い分けだ。返金交渉を行う消費生活センター相談員と異なり、本庁行政職員は処分権限を背景として行政指導を行うつもりと考えられる。うなぎ論法よりも法令適用の不当性を述べた方が効果的だろう。八巻は木下に手本を見せる機会を窺っていた。
「仮に一番最初が消費者側から申し込んだ通信販売でもですね」二階堂は相手に言い含めるような口調で滔々と語る。「定期購入じゃないなら、毎回の申し込みがあるでしょう。その時に電話で消費者側の次の注文意向を確認したのなら、その時点から電話勧誘販売として扱われるんですよ。いいですか、判例でも――」
今だ。八巻が、すうっ、と大きく息を吸った。木下は空気が変わったのを感じた。
「判例って何ですか、さっきから何言ってるのか全然分かりませんよ!」
大きな声量で、しかし恫喝のような低音ではなくあくまで高いトーンで、八巻が言った。
一秒待つ。相手の言葉はない。突然の大声に呑まれたのだろう。仮に反応があっても構わず続きを被せるつもりでいたから、結局は同じことなのだが。
「ぼくはね、高卒中退ですよ、学がないですよ。でもね、一所懸命に頑張って、この事業を立ち上げて、社員たちを養ってるんですよ! あなたは大卒かもしれないけど、だからといってそんな上から目線で難しい話をされたって、わかるはずないでしょう。あなた、私を馬鹿にしてるんですか⁉︎」
ここまで一気に捲し立てて、相手の反応を窺う。
「……いや、全然馬鹿にしてませんよ? ただ法律の」
「馬鹿にしてないなら、もっと分かるように話してくださいよ! 全然分かんないんですよ、あなたの説明は!」
「あの――すみませんでした。それではあらためて」
「ちょっと会議の予定があるので、今日はここまでにしてください! 気分悪い!! 話は後日聴きますので、また掛け直してくださいね!」
相手の返事を待たずに、八巻はフックボタンをタップした。昔であれば受話器を叩きつけてガチャンと大きな音を立てるところだが、スマホではそういう真似ができない。
ふう、と一息ついて、八巻は木下ににやりと笑ってみせた。
「な、こうやるのさ」
*
「やられたねえ」
自席に座って腕組みしながらスピーカーホンを聴いていた後藤が、二階堂ににやりと笑ってみせた。
二階堂は、はああーっ、と大きく息を吐いて机に突っ伏した。
「なにあれ! 誰も馬鹿になんかしてないのに。わけわかんないのは、あっちじゃない」
「ああいうのがね、連中のやり口なんだよね」と後藤が慰めるように解説する。「文脈なんか関係ない、というか、むしろ話が飛躍してついていけないようなことを、大声でかます。相手が理性的であればあるほど、面食らう。話を誤魔化して優位に立つことが目的だから、効果的なんですよ」
「くあーっ、悔しい!」
わしゃわしゃ、と両手の指で髪をかく。ふっと顔をあげ、二階堂はみなもを見た。
「カッコ悪いとこ見せちゃったね」
「いや、そんなことないですよ。なんだか警察二十四時を生で見てるみたいで、どきどきしました」
正直、県庁でこのような仕事をしているなんて、想像もしていなかった。みなもの役所のイメージは貧困で、秀くんから広報課の仕事のアクティブさを少し聞いてはいても、公務員といえば机に向かって書類と睨めっこしているものと思っていた。机に向かって電話をかけている姿はイメージのままでも、その内実がここまでヘヴィだとは。
「ま、相手がロクでもないのは分かったことだし」と後藤がいう。「行政調査かけましょうや。ね、室長?」
後藤が目線を二階堂の頭の上に向けた。二階堂が振り向くと、いつの間にか野田室長が二階堂の背後にのそっと立っていた。
「そうだね。調査はするといいよ。その後の方針は、調査結果や今後のヒアリングを踏まえて考えるとしよう」
「調査は、僕が来週出てきてからでいいですかね?」
「もちろん。そこまでの緊急性はないからね。今週はもう1~2回、二階堂君にコンタクトを取ってもらおうかな」
二階堂は、ははは、と乾いた笑いで頷いた。
*
「キイチさん、高校中退だったんですか?」
木下の空気を読まない問いに、八巻はため息をつく。
「ばあか、嘘に決まってんだろ。俺は大学出てるよ。ああいうシナリオ設定で、公務員が民間人を馬鹿にしやがって、というシチュエーションでゴネるのさ」
「ははあ、そういうものですか」
木下は大袈裟に頷いてみせた。実は分かってねえだろ、と八巻は思った。
「でも、また電話しろなんて、言ってよかったんですか? 切ってしまえばいいのに」
「うちはな、詐欺じゃないんだ。できるだけ長い期間、同じ屋号で商売を続けたい。そのためには行政処分をかわし続けるのが大事だ。交渉を切ったら、役所は諦めるかもしれないし、逆に本気で行政処分の準備を始めるかもしれない。そうならないように、交渉ラインは細くなっが~あく維持しとくもんさ」
「ははあ、そういうものですか」
「それ二度目。語彙力磨けよ」
八巻が木下の頭を拳でぐりっと小突いた。
その時、八巻の胸ポケットからアルクアラウンドのサビが流れた。先ほど澄舞県庁にかけた電話とは別の、深網社幹部用のスマホだ。胸ポケットから取り出し、発信者を確認する。
哲さんだ。
その場で受信ボタンをフリックし、「はい、キイチです」といいながら、社長室に歩き出す。
「ああ、分かります。こないだブッさんのとこに回した奴ですね。……えっ?」
社長室の前で歩みが止まった。
「はあ。実はその香守さんの案件なんですけど、さっき消費者センターが絡んできて対応したところです。……はい。はい」
八巻の声が小さくひそひそとなる。木下は、それがかえって気になり、八巻の様子を眺めていた。
<続く>