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なぜ「晴る」と「春」なのか ~『晴る』と葬送のフリーレン~


1.主題

1-1.挨拶

今年もよろしくお願いします。そにっぴーです。本を読んだり暴飲暴食をしたりしてたら正月休みが終わっていました。
新年早々、アイマスではなく早々葬送のフリーレンについての記事で恐縮ですが、ご容赦くださいませ。

本稿で取り扱うのはこちら。葬送のフリーレンのアニメ第2クールOPテーマ、ヨルシカの『晴る』です。

ちなみに昨年『葬送のフリーレン』をきっかけにヨルシカの存在を認知した私は、昨年末アルバム「盗作」の世界に魅了されたのがきっかけで、すっかりファンになってしまいました。

「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」もなるべく早く履修したいと思います……。できれば新品の限定版が欲しいのだけど、もうノーチャンスかなあ……。

閑話休題、この『晴る』については既に様々な媒体で考察が行われているところであり、ニワカ・ヨルシカファンの私が口を挟むところではないと重々承知しております。
それでも、半分は私自身のために、自分の考えをまとめておきたく本稿を執筆した次第です。

1-2.主題提示

本稿の主題は、大きくまとめて以下の2点です。

先にロードマップを示しますと、①について考えをまとめていたら②が見えてきた、というところです。
さっそくステップを踏みつつご説明いたします。
あくまでもひとつの解釈に過ぎないということで、お手柔らかに受け取っていただけますと幸いです……。

2.なぜ「晴る」と「春」という同じ音で異なる表記が登場するのか

2-1.「晴る」と「春」はどのように使い分けられているのか

※本稿では、楽曲としての『晴る』と、歌詞としての「晴る」を、この通りカギカッコの種類で使い分けています。
※また、引用については特筆が無い場合ヨルシカ『晴る』の引用です。

私が初めて『晴る』の歌詞を読んだとき、まず(多くの皆さんが思ったのと同じであろう)疑問を抱きました。
なぜ、「晴る」「春」という、同じ「ハル」と読ませる言葉が両方書かれているのでしょうか。

↑公式サイトや公式YouTubeに歌詞は載っています。

前提として、「晴る」を「ハル」と読ませることは通常しません。作詞であるn-buna氏の造語です。従って、この「晴る」「春」の使い分けには明確な意図があると考えました。
そこでまず、実際にどのように使い分けられているのかをまとめてみました。

「晴る」
A.少しだけ晴るの匂いがした(1番)
B.咲いて晴るのせい(1番サビ)
C.貴方を飾る晴る(1番サビ)
D.僕ら晴る風(1番サビ)
~~
E.雲の上では晴る(2番サビ)
~~
F.晴るを待つ(Cメロ)
~~
G.貴方を飾る晴る(ラスサビ)
H.音に聞く晴るの風(ラスサビ)

「春」
a.僕ら春荒れ(2番サビ)
~~
b.羊雲あれも春のせい(Cメロ)
c.胸に春乗せ(Cメロ)
~~
d.裂いて春のせい(ラスサビ)
e.僕ら春風(ラスサビ)
~~
f.咲いて春のせい(アカペラ)

この通りです。
引用したフレーズ前後の繋がりも加味しなければならないので、歌詞全体をサブウィンドウ等で見ながらお読みいただきたいのですが、ここにおいて「晴る」はポジティブなフレーズ、「春」はネガティブなフレーズと繋がる傾向にあることが分かります。

2-2.「晴る」は願われるもの

そもそも『晴る』という曲の主題については、葬送のフリーレンアニメ公式サイトにてn-buna氏が簡潔にまとめています。

この曲は晴れを書いた曲です。正確には晴れではない状態から晴れを願う曲です。この曲がフリーレンの世界と彼らの旅に花を添えられるものになっていれば幸いです。

MUSIC 2nd|アニメ『葬送のフリーレン』公式サイト

「晴る」を「晴れること」等と解するのであれば、「晴る」というのはこの曲において今は実現していないが望ましいこと、願われていることです。先ほど引用した歌詞で言いますと、

・「少しだけ晴るの匂いがした」…希求する匂い
・「(降り止めば雨でさえ)貴方を飾る晴る」…ネガティブなニュアンスの「雨」をポジティブなものに変換する
・「(雨でさえ)雲の上では晴る」…雨の向こうにある晴れを希求する

といったふうに考えられることでしょう。

※前述「B.咲いて晴るのせい」については、「~のせい」というのがネガティブな意味で責任を押し付けるときに使うため解釈に悩みました。単純に花が咲く原因として捉えるか、皮肉表現とでも捉えるべきなのでしょうか。

余談.「晴る」の文法的解釈

1番サビ・ラスサビ「晴れに晴れ」と2番サビ「泣きに泣け」という表現が、対応していると考えましょう。まず2番サビの「泣き」と「泣け」は文法的に次のようになります。

「泣」…「泣く」の連用形
「泣」…「泣く」の命令形(接続助詞「ば」が無いため、仮定形は除外)

ここから、「晴れ(1つ目)」が連用形、「晴れ(2つ目)」が命令形であると考えられます。仮に「晴る」を「貼る(ハル)」等の同じ音の動詞だと見做しましょう。

「晴れ(1つ目)」…「晴れる」の連用形
「晴れ(2つ目)」…「晴る」の命令形

このように解することもできます。この曲が「晴れを願う曲」であることと合致していますね。
まあ、これは若干こじつけです。こうすると「晴る」の連用形が「晴り」になってしまうので……。歌にする上で「晴れる」と「晴る」の良いとこ取りをしたということでひとつ。

2-3.「春」はネガティブ?「音」に着目

閑話休題。一般的に花粉症を除いて暖かい季節として歓迎される傾向にある「春」についてはどうでしょうか。
ここでは次の4つのフレーズに着目します。

「胸を打つ音よ凪げ 僕ら晴る風」(1番サビ)
「土を打つ音よ鳴れ 僕ら春荒れ」(2番サビ)
「胸を打つ音奏で 僕ら春風」(ラスサビ)
「音に聞く晴るの風 さあこの歌よ凪げ!」(ラスサビ)

「凪ぐ(ナグ)」という言葉は通常、風が止むことを指します。しかしややこしい話ですが、この歌詞では「音/歌よ凪げ」と言っていることから、「凪ぐ」=「音が止む」という意味で用いられていると考えられます。このことから上記4フレーズをまとめると、次のような対比が見えてきます。

「晴る」=音が止むもの

「春」=音を鳴らすもの

さらに「晴る」が願われている、ということを加味します。

「晴る」=音が止むもの=願われている

「春」=音を鳴らすもの=避けたいと思われている

このような図式が完成します。この曲において「春」にはネガティブイメージが付きまとっています。そもそも「春荒れ」なんて言い方をするくらいですしね。
この4フレーズについては特に重要だと考えていますので、後ほど再度取り上げます。

2-4.「静と動」から解釈するCメロ

Cメロ部分の歌詞には、楽曲『晴る』を理解するためのヒントがあると私は考えています。

通り雨 草を靡かせ
羊雲 あれも春のせい
風のよう 胸に春乗せ
晴るを待つ

まず「通り雨」について、短時間で降ってすぐに止む雨というのはのイメージがあります。
次に「羊雲」については、いわし雲やうろこ雲と同じ高積雲の一種で、によく見られます。
さらに、これはちょっと強引かもしれませんが……「晴るを待つ」について、「春待月(はるまちづき)」という言葉があります。これは旧暦12月の呼び方のひとつで、すなわちです。旧暦では1月から春になるため、このように言います。

つまり、Cメロには「春夏秋冬」が全て登場しています。
それにしても、秋を象徴する「羊雲」に対して(あるいはその前の「通り雨」に対しても)「あれも春のせい」と言っているのはどういうことなのでしょうか。

前の章で

「晴る」=音が止むもの

「春」=音を鳴らすもの

という対比を取り上げました。これを別の表現で

「晴る」=「

「春」=「

としてみましょう。
「晴る」は、荒れている何かを鎮めて止める、いわば「静」の概念です。
対して「春」は、嵐のごとく何かを動かす、変化させる、いわば「動」の概念と言えるでしょう。
そうすると、「通り雨や羊雲が春のせい」というのは、「動」、すなわち春夏秋冬の移り変わりを意味しているのではないでしょうか?
「風のよう 胸に春乗せ 晴るを待つ」の部分からも、動的にざわめく心中と、静的に待つという行為の対比が見られます。
季節の移り変わりというものは、望まなくとも否応なくやってくるものです。それは「晴る」「静」を待つ者からしたら残酷なことです。

「晴る・春」は、「静・動」「静止・変化」でもあるです。

2-5.疑問:「晴る風」とは何か

今までの話をまとめてみましょう。

「晴る」=音が止む=静=願われている(ポジティブ)

「春」=音を鳴らす=動=避けたい(ネガティブ)

歌詞から拾い上げたイメージはこのようになります。
しかし、この図式は本当に正しいのでしょうか……?

ここにおける「晴る」の解釈では、まだ説明できないフレーズがあるのです。
2-3で引用した「音」についての歌詞を再度見てみましょう。

「胸を打つ音よ凪げ 僕ら晴る風」(1番サビ)
「土を打つ音よ鳴れ 僕ら春荒れ」(2番サビ)
「胸を打つ音奏で 僕ら春風」(ラスサビ)
「音に聞く晴るの風 さあこの歌よ凪げ!」(ラスサビ)

「春」の反対で、「晴る」が音を凪ぐものだ、ということは既に説明しました。しかし、それであれば「晴る(の)風」という表現は少々引っかかります。風そのものが動的なイメージのあるものだからです。「晴る」は「静」なのだ、という解釈と矛盾します。

ここから、今まで以上に個人的な解釈の部分が深まっていきます。お気を悪くされたらごめんなさい。

私は、今まで説明してきた「晴る」と「春」の対比に、「晴る風」というフレーズを加味することで、葬送のフリーレンの物語に繋げることができると考えています。

3.『晴る』が葬送のフリーレンのOPであることの意味は何か

参照しやすいので原作準拠でお話しますが、ネタバレはアニメ放送済みの範囲に留めます。2期決まってるけど原作も是非追ってね💕

3-1.ヒンメルに出会う前までのフリーレン

葬送のフリーレンは、長命なエルフの魔法使いフリーレンが、かつて共に旅をした仲間である勇者ヒンメルの死をきっかけに変化していく物語です。新たな仲間たちと旅に出る中で、様々なきっかけで過去のことを思い出し、それを糧に前に進んでいきます。

千年以上の時を生きているフリーレンですが、ヒンメルと出会うまでは数百年間特段何もしていなかったような描写が見られます。ヒンメルがフリーレンを仲間にスカウトする回想では、こんな会話をしています。

(ヒンメル)この森に長く生きた魔法使いがいると聞いた。それは君か?
(フリーレン)長く生きたといってもだらだら生きていただけだよ。優秀なわけじゃない。

第22話 服従の天秤

(ヒンメル)フリーレン。僕達と一緒に魔王を倒そう。
(フリーレン)今更だよ。もう五百年以上魔族との実戦はやってない。もう戦い方も忘れてしまった。私は決断を先送りにしすぎた。きっと魔王と戦うのが怖かったんだろうね。もう取り返しのつかないほどの年月が経った。

第27話 平凡な村の僧侶

このことから、フリーレンがかなり長い間、積極的な行動を起こさずに隠居生活をしていたことがわかります。
その後ヒンメルたちと10年間に及ぶ旅をして魔王を討ち取ったわけですが、10年というフリーレンの人生の「百分の一」にも満たない時間が、フリーレンを劇的に変えました。

(フリーレン)皆との冒険だって私の人生の百分の一にも満たない
(中略)
(アイゼン)面白いものだな。
(フリーレン)何が?
(アイゼン)その百分の一がお前を変えたんだ。

第8話 百分の一

特にアニメ版の演出は鳥肌ものです。
長い間「静」かに生きてきたフリーレンの人生は、ヒンメルによって劇的に「動」き始めたのです

3-2.フリーレンの「動」は、ヒンメルである

ヒンメル達との旅はフリーレンを変化させました。それを表す描写はあらゆるシーンに登場しますが、やはりその最たるものを挙げるとしたら、最序盤——ヒンメルの葬儀でしょう。

(フリーレン)…だって私、この人の事何も知らないし…
たった10年一緒に旅しただけだし…
…人間の寿命は短いってわかっていたのに…
…なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう…

第1話 冒険の終わり

最序盤に最高クラスの名シーンがある作品ってすごいわ。

フリーレンが激情を表に出すことは殆どありません。ほぼ唯一と言っていいのがこのシーンでしょう。

元々魔族との戦闘を避け続けていたフリーレン。これを「静」と呼ぶのであれば、『晴る』において静的な「晴る」を望む姿そのものです
しかし、そんなフリーレンはヒンメルによって旅に連れ出され、振り回され、「くだらなくて楽しい旅」となり、死を以て深い悲しみまで与えられてしまいます。人間にとって避けられない死。フリーレンにとって取り返しのつかないものの象徴となってしまった、ヒンメルの死。フリーレンにとってヒンメルは、否が応でもフリーレンを揺り動かした、『晴る』における動的な「春荒れ」のような存在とも言えるでしょう。

しかしこの例えは、『晴る』が「晴れではない状態から晴れを願う曲」というn-buna氏の説明にそぐいません。

ここで私が着目したのが、「晴る風」という表現でした。

結論から申し上げますと、「晴る風」とは、静的な「晴る」と動的な「春」がより高い次元で調和した表現なのではないかと考えています。
(不正確だけど伝わりやすい表現をするなら「アウフヘーベン」です)

3-3.フリーレンの背中を押す「晴る風」

葬送のフリーレンは特徴的なストーリーの進み方をしています。
第1話で重要人物の死から始まり、そこから旅が進むごとに過去を思い出し、その記憶が今のフリーレンを少しずつ変えていく形になっています(フリーレン以外の人物も同じような想起と変化を経験していきます)。

フリーレンが旅をする動機は「もっと人間を知ること」、そして「死者の魂が眠る地(オレオール)を目指すこと」です。フリーレンは過去を思い出しながらも、過去に囚われることなく、未来へと進んでいきます。

ずっと戦いを避けて生きてきた。これは「静」を求める姿です。

ヒンメル達と出会って色んなことが変わり、ヒンメルの死で深い後悔を覚えた。これはフリーレンを不可逆に変化させた「動」です。

しかし再度閉じこもるようなことはせず、臆することなく、人間を知るために旅に出る。ヒンメルともう一度話をするため、オレオールを目指して歩き続ける。その中で、フリーレンやその周囲の人達は絶えず変化・成長し続けていく……これは「静」を求めるのとも、「動」に翻弄されるのとも異なります。

フリーレンは穏やかながらも確かなパワーがある「晴る風」に背中を押されて、旅を続けていると言えないでしょうか?

今一度『晴る』の歌詞に立ち返ってみましょう。確かに『晴る』は「晴れではない状態から晴れを願う曲」です。その歌詞からは、酷く傷付いて、なんとかして平穏を得ようとする人物の姿が見えてきます。
しかし、ただ力なく「晴る」を待つだけの歌詞ではありません。

「胸を打つ音よ凪げ 僕ら晴る風 あの雲を超えてゆけ 遠くまだ遠くまで」(1番サビ)
「土を打つ音よ鳴れ 僕ら春荒れ あの海も越えてゆく 遠くまだ遠くまで」(2番サビ)
「音に聞く晴るの風 さぁこの歌よ凪げ!」(ラスサビ)

「雲を越えてゆけ」「海を越えてゆく」、そしてエクスクラメーションマーク付きで「この歌よ凪げ!」、なんとパワーのある歌詞なのでしょう!
最後にアカペラで、

あの雲も越えてゆけ 遠くまだ遠くまで

と歌うsuis氏のボーカルは、本当に空を突き抜けていってしまいそうな真っ直ぐさと、耳に心地よい優しさが両立しているように思います。ヨルシカだからこそ表現できた領域だな、と心から感じています。

そろそろまとめに入りましょう。
楽曲『晴る』における「晴る」と「春」は、望まれる「静」と不可避の「動」の対比に対応しています。
それは葬送のフリーレンにおける、フリーレンが長らく経験した「静」と、ヒンメルがもたらした「動」にも呼応しています。
しかし、『晴る』においては穏やかながらも力のある「晴る風」が吹き、その晴る風は、フリーレンが未来へと歩んでいく姿と重なります。

これこそが私が考えた、『晴る』に「晴る」と「春」という語が登場した理由、そして葬送のフリーレンのOPが『晴る』である意味です。

4.あとがき

実際、どれくらい葬送のフリーレンのストーリーを意識してn-buna氏が『晴る』の歌詞を書いたのかは分かりません。また、ヨルシカの他の楽曲の知識を必要とする考察であれば私には手も足も出ません。
そもそもこの考察自体浅くね?と言われたら素直に「はい……」と言いますので仰ってください。はい……。

ヒンメルの語源がドイツ語の"Himmel"、晴天を意味することももしかしたら無関係ではないでしょうしね……。

それでも私は、心惹かれた『晴る』について、自分が感じた疑問に自分なりの答えをあてがうことができて満足です。

私が葬送のフリーレンと出会えたのは本当に偶然ですが、私とヨルシカと出会わせてくれたのは間違いなく葬送のフリーレンでした。
この素敵な出会いに感謝しつつ、本稿を〆たいと思います。

あの、本当に自信ないので、何か思う所があれば遠慮なく仰ってください……。ああ私はひたすら「晴る」を願っています……。