『百人一首のための注釈』における配列
『百人一首のための注釈』において、短歌は、最小の素数である〈2〉の累乗の列が〈101〉で割り算されてできる剰余の列(剰余演算 modulo.コンピュータにおいて、ある数値を(法とよばれる)別の数値で除算し、余りを取得する演算)と、そのおりたたみにしたがってならべかえられます。
フェルマーの小定理によれば、〈101〉は素数なので、2^(101 - 1) ≡ 1 (mod 101) であり、〈2〉は〈100〉乗されると、〈2〉の〈0〉乗、すなわち、〈1〉に等しくなり、剰余のサイクルを閉じます。表にすると下のようになり、これを『百人一首』に対応させますと、1番歌の天智天皇、2番歌の持統天皇はそのままですが、99番歌の後鳥羽院と100番歌の順徳院が配列の中央にきて、さらに入れ替わってしまいます。
1 2 4 8 16 32 64 27 54 7 14 28 56 11 22 44 88 75 49 98 95 89 77 53 5
10 20 40 80 59 17 34 68 35 70 39 78 55 9 18 36 72 43 86 71 41 82 63 25 50
100 99 97 93 85 69 37 74 47 94 87 73 45 90 79 57 13 26 52 3 6 12 24 48 96
91 81 61 21 42 84 67 33 66 31 62 23 46 92 83 65 29 58 15 30 60 19 38 76 51
そこで、上の列の後半100から51までのシークエンスを下のように逆行させます。(逆行は『百人一首のための注釈』のいたるところにみられます。)そうすると、1,2,50,51,99,100 はオリジナルの配列と変わらず、不動になってくれます。『百人一首』は、天智天皇(1番歌)と持統天皇(2番歌)に始まり、後鳥羽院(99番歌)と順徳院(100番歌)で結ばれ、天皇という和歌の精神的守護者にまもられるのでしょう。
1 2 4 8 16 32 64 27 54 7 14 28 56 11 22 44 88 75 49 98 95 89 77 53 5
10 20 40 80 59 17 34 68 35 70 39 78 55 9 18 36 72 43 86 71 41 82 63 25 50
51 76 38 19 60 30 15 58 29 65 83 92 46 23 62 31 66 33 67 84 42 21 61 81 91
96 48 24 12 6 3 52 26 13 57 79 90 45 73 87 94 47 74 37 69 85 93 97 99 100
『百人一首』では、〈100〉歌人がそれぞれ〈1〉短歌を詠むことで、歌人はいわば集合の確定した「要素」として機能するのですが、それら「要素」たちのすべての組み合わせをくみ尽くすと、「部分」の個数は〈2〉の〈100〉乗へと爆発します。一方、近年発見され『百人一首』の原型とされる『百人秀歌』の〈101〉歌では、後鳥羽院(『百人一首』99番歌)と順徳院(『百人一首』100番歌)という〈2〉人の天皇が除外されるなど政治的な配慮がなされているともいわれ、そのような爆発を固定化してくれているかのようです。発散する「部分」たちは、〈101〉という法とフェルマーの小定理によって、〈1〉へと再帰する閉じたサイクルとなり、超構造はもとの構造に投射され閉じ込められます。しかし、〈2〉人の天皇が巻頭に、他の〈2〉人が巻末に位置するという対称性は、その構造の後半部(100〜51)を反転させることで維持されます。『百人一首のための注釈』の配列は構造と超構造の間にあり、〈100〉歌はならべることなくならべられているともいえないでしょうか。