沢木耕太郎『あなたがいる場所』:現実と人間は偶然であり気まぐれである。
沢木耕太郎の短編小説集『あなたがいる場所』を読んだ。僕は今、沢木の作品を意識的に多く読もうとしていて、この本はその中で偶然出会った一冊だ。
ノンフィクション作家である沢木耕太郎が書いた小説というのは、僕にとって特に目を引くものであった。僕にとって沢木は、文藝誌に、周りが小説ばかりの中ノンフィクションを載せるような根っからのノンフィクション作家だという意識があったからだ(もちろんそれは雑誌編集側の意向よるものだが)。
今回は、そのような沢木耕太郎が描いた小説の世界に対して、僕が抱いた違和感と、その違和感の原因として考えられることをつらつらと書いていく。
1.人間は気まぐれで生きている
あとがきで沢木が「目指した」と書いているように、この本は極めて読みやすかった。その“読みやすさ”というのは、子供でも読めるというような意味の読みやすさ、つまり、平易な文章だったということだ。
しかし、その平易さを辿っていくと、僕は全作を通して違和感を覚えることがあった。それは、この本に載っている数々の短編に出てくる人々の「気持ち」や行動の意図がどうも読み取れないということだ。つまり、論理性がないのだ。
この「気持ち」というのは、中学受験や高校受験などで聞かれそうな「登場人物の気持ち」の「気持ち」だ。「Aさんは①をして、②をして、今③をしています。Aさんは今何を思っているでしょう。また、どうしてそのように思っているのでしょう。」というような問題だ。
その問題は、小説の中に「気持ち」と、そうなった経緯が読み取れる(と思える)根拠があって初めて成り立つ(作者の意図と異なる答えが生まれていることもあるそうだが)。つまり、小説というものは、矛盾がないように論理性を作家が組み立てていくものだ、とも言えるのではないだろうか。
しかし、今回の短編に出てくる登場人物たちは、論理性のかけらもなく、突発的に動くことがある。それも一度ではなく、大抵だ。
『銃を撃つ』で、今まで一切出てこなかった「銃」を主人公たちが撃つふりをするのも、『虹の髪』で村井が女性をストーキングするのも、『白い鳩』で前川が俊の悪口を言いふらすようになったのも、『自分の神様』で奈緒が「菅原さん?」と咄嗟に言うのも、全て、突発的に行ったように見受けられる。
論理性がないということは、逆に言えば単純明快ということだ。「フジタは釣りに行った。」「フジタはラーメンを食べた。」というような文が並んでいることになる。これは、確かに平易な文章であるし、小学生でも理解できる文章ということになる。
ではなぜ論理性がないストーリー展開を描いたのか。理由として「短編だから長さが足りずに描写できない」というものが考えられるかもしれない。確かにその通りだと思う。しかし、僕は、むしろ、短編であることを活用して、「短編だから描写せずとも済む」ことを選んだのではないかと感じたのだ。
沢木は無論ノンフィクション作家として、世の中の現実を常に描き続けてきた。その中で、沢木は僕が前回の『凍』のnoteに書いたように、現実というものは、想像以上にさっぱりしていて、そこまで深く考えられていない、即断即決の連続であるということに気づいていたのではないだろうか。
そこから考えられることは、「人間の行動には逐一論理性なんて孕まないのだよ」ということだ。そして沢木は、それをわかった上で、現実の無思慮な人間の行動原理は、短編という多くを語れない空間でこそ輝くと考えたのではないだろうか。
このように、この本に載っている短編は、フィクションの形を取りながらも沢木が肌感覚で感じてきた現実のそっけなさや偶然性を前面に出した作品だと言えるのではないだろうか。
2.バスは現実性を伝える最適な装置
そして、同時にもう一点、気になる事がある。それは、バスが多く登場する事だ。
登場人物たちは電車を好まず、あるいはいつも電車に乗っているのにも関わらず、今回ばかりはバスに乗ることになる。このバスという乗り物が、現実性を強めているのではないだろうか。
まず、沢木自身が言及している点について。作中で登場人物たちが度々「バスは交通状況によって到着時間が大幅に変わる事がある」ということを述べる。これは、現実というものが気まぐれで、偶然性にあふれているのということを強調するための布石であろう。
また、電車と違い、バスは運転手が乗客と同じ(つまり、完全に分離されていない)空間にいることも大きな要因になっている。このようなシステムのおかげで、『白い鳩』において、主人公は途中でバスを降りる事ができた。電車では到底できない芸当だ。
ここからは、バスという乗り物には人間味、つまり人情のようなものが溢れていることを強調していることを感じ取れる。これは先述した通り、人間の気まぐれな性格を強く持つことを意味し、結果として現実味を増すことにつながっている。
それ以外にも、バスは電車に比べてローカルな空間であり、客や運転手などが「会話」をする可能性も上がるため、より人間らしさを発揮できる装置にもなっているだろう。
これらのように、バスという舞台設計が沢木の小説設計に大きな意味を持っていることは明確だ。
3.読者に依存することで「誰もが読める」を実現する
沢木耕太郎はこの短編集を「読みやすいもの」であると謳い、描いたが、その読みやすさは、平易な文章ということに加え、読者の想像があって初めて小説の論理性を担保しようとしていることからくるのではないだろうか。
そして、その「想像」というのは、読者によって様々なレベルがある。小学生であれば「うれしい」や「楽しい」で物語を作れるし、成熟した大人であれば、様々な状況を脳内で設計した上で感情を推し量れる。
低いレベルに合わせて「誰もが読める」を実現したわけではなく、読者による補完に頼る形で「誰もが読める」を実現したのだ。
沢木耕太郎は、物語の骨組みとそこにある現実性、その二つのみを短編という空間を用いて読者に届けることによって、彼の独自性(つまりノンフィクション作家であるというアイデンティティ)を失うことなく、小説を書き上げる事ができたのではないだろうか。
沢木耕太郎の著書を意識的に読むきっかけについて、また書いていこうかなと思っています。
最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。
フジタ
本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。