本を出すという「大志」
なんとなく日本人の誰もが知っているであろう格言がある。
「少年よ大志を抱け」
有名な御雇外国人、クラーク博士が放った言葉である。
若者は大きな志を持って世に出よ、非常にごもっともである。
で、今の若者にとっての大志はなんだ。起業だろうか、大金持ちだろうか。
決して、多くの人が小学生のころ思い描いていたであろうスポーツ選手とか科学者とかをすぐ諦めやがって、みたいな皮肉を言いに来たわけではない。
人は成長するごとに、スポーツ選手や科学者といった専門性の高い夢は諦めることはあれども、反対に大金持ちや起業といった漠然とした夢、あるいは領域が明確でない夢を抱きやすくなるのではないかと考えたのである。
とある機会で僕は大人に起業の夢を語っていた。「起業したいんですよね!」みたいな。それに対して、その会話を聞いていた第三者の大人の方が「なんとなく起業したい人、いるよね」と言い放ってきたことがある。
この言葉に対して僕は戦慄したし、同時に、脳をフル回転させてふと自分を見つめ直した。どんな業界だ、誰がターゲットだ、一瞬で思考を巡らせて、「ああ、結局定まってない。けど、大学生っぽくて、バカで、いいな。」なんて自己満足をした。その時はそれで収まった。そのあとふとこのエピソードを思い出しては、幼稚ながらビジネスモデルをひとりで模索するのである。
雑な大志。それを漠然と抱いて、そうなるためにはそうすれば良いかと妄想する。とても楽しい。
学生を当てはめれば需要があるな、みたいな。この業界は素人目から見てもスカスカに見えるな、みたいな。それで色々調べてみて、自分の小ささを知る。会社を立ち上げる手続きをちょっと調べてみて、読む気が失せる。
しかし、その過程は決して無駄ではないと思う。なぜか。それは自分を見つめなおせるからだ。
自分はこんなちっぽけか。自分はこんなとこに目をつけたのか。それを形として残しておくと、またあとあと見直して非常に愉快な気持ちになれる。
といった起業に関しての僕のエピソードを話したが、
僕はこのような「雑な大志」の中に、「本を出したい」というものをみんなが持たないか、みんなに植えつけられないかということを思っているのである。
自分はどんな本を書けるのだろうか。例えば僕は指パッチンが得意だから指パッチンについてのテクニックを並べた本でも書けるかな!なんて不意に考えてみる。そして、章立てとか、ターゲットとかも本気で考えてみる。そして沈む。
そういう試行錯誤をしてみる。本をだすという大志は妄想の幅が広い。
しかし、世の中に色々な表現媒体はあるのに、なぜ本なのか。それは社会的信用度の点と、皆に開かれているという点とがあると思う。
まず1点目、社会的信用度。
結局社会は書籍を信用する。こんなにネットが発達しているけど、フェイクを産むのもネットだ。
また、書籍には対して人はお金を払って読む(noteはそれを逆手に取る圧倒的ネットビジネスなのだが)。
編集など様々な人を巻き込み、出版流通システムを使って、書店に並ぶ。この一連の完成された(?)ルートを自分自身が通ることに対して、みんなは憧れを抱かないだろうか。
2点目、皆に開かれているという点。
本を書く人は超人だけかと思っているかもしれない。企画を持ち込む、圧倒的自身の持ち主じゃないと出せないと思っているかもしれない。でも、そんなことない。皆に平等に本を書くチャンスが与えられている世の中になっているのだ。
例えばNPOで出版を支える企画のたまご屋さん、5月に本格始動したEXODUS、そして学生限定で企画を募集している弊団体、出版甲子園。
色々な企画募集プラットフォームがあり、昨日まで一般人だった人が本を出すということが特別ではなくなる日も近いかもしれない。
本を出す。この大志は漠然であり明確である、究極の雑な大志なのではないだろうか。
学生の皆さん、本を出す第一歩を踏み出してみませんか。企画を考える上で自分を見つめなおせるかもしれないし、もし本を出せたら、遠い存在のような気がしていた道を歩めるかもしれない。
これは僕の主観だが、出版甲子園ほどローリスク・ハイリターンな出版への道はないと思う。
団体員は企画を出せないことになっていて、僕は企画を出せないのだが、もしこの団体を、団体員ではない立場で知っていたら、色々ひねり出して企画を何個も投げてみると思う。
とりあえず投げてみる。それくらいでも良い。学生よペンを持て!
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