いつも無意識に分配されてるんだな

先週、何年かに一度やってしまう大怪我をした。包丁使いの基本は押さえる手は猫の手と教わるが、私はあれが怖くてできない。第2関節から指先に至るまでの面を削ぎ落とすんじゃなかろうかとの思いがよぎり、恐怖で動きが鈍くなる。

そんなわけで、猫の手しない派の私は切るものの殆どが雑だ。

その日も雑に玉ねぎをザクザクと切り刻んでいた。この時期の玉ねぎはとても玉が大きく、一個を刻むのにいつもの倍ほど包丁を入れるので何だか勢いまでついてきてザクザクと。

はい、その時だ。

痛。

包丁がまな板に当たる音はそのままに左指先に痛みが走った。

切ったな

即、流水で洗いキズの様子を水越しに見ながらキズの程度を考える。
かなり出血。切った右手の感覚では骨には触れてない。水の抵抗からベロベロした皮膚や皮はなく欠損。。。
水から出すと真っ赤な血液が一瞬で傷口をもったりと覆うようにドクドクと溢れてきて、だんだんおおごとだな、と焦りの気持ちが涌いてきた。

リアルに描写するのはこの辺で。。

それでだ。大事なのはそこじゃない。

その後、診察や周囲のご親切もあり、経過は順調でだんだん日常がもどってきたときに気付いたこと。

通勤時に木の香りに気付いて深呼吸していた木の下を通っても匂いを感じてなかったこと。
前の日まで「帰ったらあれ食べよ」と楽しみにしていたモノの存在すら忘れていたこと。

やけにぶつけては痛むキズ。などなど。

日常的に感じていた感覚のほとんどが絶対値ではなく、相対値であり、そのうえ私の意識を円グラフにしてみたら各項目が占める割合はとても流動的であるということ。

昨日、もう一度専門の先生がみてくれるって、と呼ばれて行ってドアを開けた瞬間「あ、イケメンだ!!」と思ったのだが怪我直後の先生も思い出してみたらかなりのイケメンだった。でもその日はそんなのどうでも良かったので気に止めなかったのだ。

いかに自分のアンテナが無意識に伸びたり縮んだりしているのかに気付かされた。
ある方向に伸ばしたい、敏感でいたいと思っていても自分の顕在意識とは関係無くアンテナはその時々で感度が変わってしまっているんだ。
そしてそれに振り回されている自分はなぜかそれが絶対値であるかのように捉えて行動に反映していたのかもしれない。

いつも自分が相対的で不安定な感度で生きていること、それに気付けたのが今回の怪我の収穫なのかもしれない。

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