樹木希林さん主演の「あん」を見て、「間」と「声」を考えてみる
河瀨直美さん監督、樹木希林さん主演の映画「あん」を見た。
小さなどら焼き屋を営む無口な店長さんのもとに、ある日、病気を患った老人の徳江さんが働きたいと言って訪れる。そこに客として居合わせた落ち着いた中学生のワカナちゃん。それぞれが決して明るくないバックグラウンドを持つ3人の出会いと対話を繰り返しながら、世間とどう付き合っていくか、自分なりにどう生きるか、という問いに向かい合っていく。
そんな3人の姿を、小豆をはじめとした「自然の声」を通して、人社会の捉え方について考えさせてくれるようなそんな作品。
率直に癩病(ハンセン病)という重い病気を題材の1つとして取り上げつつ、シリアスにならずに綺麗な作品に仕上がっているのがすばらしい。
病気やそれに伴う社会的な差別だったり、そういうテーマを取り上げるとどうしてもメッセージ性が強くなりがちだし、受け手に問いただすようなものが多く、見た後に自分なりに考えて。。。という流れになることが多い。また、作り手もそれを望んでいるのだと感じる。
特に邦画はそういったものが多い印象だ。
しかし、この作品は見た後に綺麗で何故かスッキリとした気持ちになれる。小豆や木、鳥、風と対話する徳江さんを通して何か生命的なものに想いを寄せることができるのだ。
実際に映画のシーンとして、木々や風の音がただ流れる画や桜並木を映したシーンも多くあり、そんな自然の声を「間」として表現している。
その間は洋画のシーンのリズム感と対比したら、いい意味でリズム感がない。
いや、むしろ心地よいリズムを生み出しているのか。
このシーン的な「間」と樹木希林さんの演じる「間」がこの作品をシリアスなテーマから綺麗なメッセージへと変換してくれているのだろう。
小豆からあんを作るときの川や畑のシーン、
徳江さんが暮らす施設に訪れた店長さんとワカナちゃんが、生い茂る木々の中を歩くシーン、
風に揺れるソメイヨシノのなかで徳江さんが佇むシーン。
そこでは自然の音が静かに聞こえてくる。
最後のボイスメッセージにある「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」という徳江さんのメッセージを聞けば、それまでの自然の間や声の意味が充分に伝わってくる。
病気と世間によって歩むことを許されなかった徳江さんの人生、過去の過ちで社会に出られなかった時代を経て、その後の責任を負わされた店長さんの人生、母との関係性によって未来の人生を思い悩む中学生のワカナちゃんの人生、その時間軸の違う3人の人生を照らし合わせながら、それぞれが出会いと対話を繰り返しながら生きるという問いに向かい合っていく。
音や間の表現もさることながら、個人的に好きなシーンは後半にあった。
ワカナちゃんが大切に育てたカナリアの「マービー」を預かった徳江さんは月とワカナちゃんとの約束をしたのにもかかわらず、受け取ってそれほど経たずしてカゴから出して離してしまう。そしてそのことを徳江さんが、亡くなった後のボイスメッセージを通して2人に謝る。というシーンだ。
カゴの中で育ったマービーの「声」に耳を傾けた徳江さんは、外に出たいと言われてる気がして離すことにした。それはある意味、今まで隔離された施設の中で、社会に出られずに暮らしてきた徳江さんは、日の当たる社会で「生きたい」という想いがあり、その自分とマービーを重ねて声を聞いたんだろう。
また、過去の過ちに囲まれた店長さんと母との関係性に挟まれたワカナちゃんにも同じ姿を重ねて、約束をしていたマービーを離す、と言うことで2人に対してその声に応えたのだ。
出会ってから2人に耳を傾けていた徳江さんだったからこそ、それを最後に2人に伝えたかった。
そして、別に何かになろうとする必要はなく、ただ世の中に耳を傾けるだけでいい。それだけで生きる意味があるのだ、と言うことを伝えた。
最後の徳江さんのメッセージから私が感じたのは、必ずしもカゴの中から外に出る必要はなく、別の捉え方から生きる意味を見出すことで自分なりに歩けるということ。
小豆や木や風や鳥はそれぞれ言葉を持っていて、そこに耳を傾けることによって、その生きる意味を理解することができる。ということだ。
そのメッセージを伝えるための樹木希林さんの人間的な「間」の表現力や、映像のシーンとしての機能的な「間」の表現は感動するものがあり、そこを引き出した河瀨さんは素晴らしい監督だと強感した。
ある意味で若い頃からおばあちゃんを演じ続けた樹木希林さんの職人技は唯一無二だし、そんな日本の職人さんを失ったことはかなり大きいが、遺作の1つとしてこの作品が残り続けてくれること。それが樹木希林さんへの尊敬に値するのだろうと。。。