チームラボの「超主観空間」を通して次元を考えてみる
メッセージを人に伝えるには圧倒的な説得力とポップさを兼ね備える必要がある。と体感した。
チームラボに1人で行こうと思った日のこと
ある日、YouTubeで猪子さんのTedXの動画を見た。
以前から日本画の独特なテクスチャがどんな意味を持っているのか気になっていた。というのも、日本画には簡単に言うと、ペタッと貼り付けられたような平面的な描写の一方で、繊細に描かれた箇所、版画のように決まった形で複製しているように見える箇所が点在している。
そんな独特ないわゆる日本の「昔の絵」は西洋の美術にも大きく影響をもたらしていて、中でもに葛飾北斎などは西洋の美術家たちに多大なる影響を与えた、と言われている。
平面的に見える日本画に比べ、西洋美術はどこか写実的で綺麗なもの、というイメージを持っていた。そこにはどういった違いが混在しているのか、
歴史的な背景や宗教観の違いなど、そういった文化的側面もあるのではないかと。
そんなこんなで日本文化や東洋思想的なモノに興味を持ち始めた頃、それと同時にメディアートにも興味を持っていた。
チームラボはどこかミーハーな感じのイメージがあったので触れては来なかったが、Ovalの音楽ライブや落合陽一の対談目当てで参加したイノフェスで、たまたま猪子さんの対談を見かけた。
そこではチームラボの作品のコンセプトをもとに、「禅」や「生命」という話題で対談されていて、とても興味深い内容だった。
そんなこんなで、YouTubeで7 年前のTEDxの動画を見つけた。
「日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka」
そこでは西洋美術と日本美術の文化の違いや、当時の日本人がどう世界を捉えていたか、という内容だった。
当時の日本人は日本画のように一見ペタッとして見えるようなテクスチャを描いたのではなく、そもそもそういった「大和絵と同じようなレイアウトで世界が見えていたのではないか」という仮説で、その仮説を論理構造に落とし込んで「超主観空間」と名付け、その仮説をもとにチームラボは作品を作っている、と言うのだ。
かなり衝撃を受けた。1つは自分の中でモヤモヤしていた日本画に対するイメージが「超主観空間」という捉え方でストンと腑に落ちた、ということ。もう1つはチームラボは綺麗で鮮やかな作品を作るミーハーテクノロジー集団ではなく、作品の裏に論理的な哲学が存在し、しかもその根本が日本文化や東洋思想的なものであった、ということだった。
その仮説を肌で感じたくて、納得したくて、これはもう生で見るしかないな。ということで、1人でボーダレスに行くことにした。
チームラボ・ボーダレスの展示に行った日のこと
展示自体は多くの作品があり、どれも素晴らしかったので全てについて書きたいところだが、今回は印象に残った3つの作品について書いてみる。
反転無分別 - Continuous, Black in White / Reversible Rotation - Continuous, Black in White
会場に入るや否や小さなスペースがあって、のぞくとそこに空書の作品があった。周りの人が奥の鮮やかな空間へと突き進む中、何か物静かな異空間に引き寄せられた。
そこではただひたすら書が生まれ、移動、回転を繰り返しながら消えていく。しばらくすると、書が生まれる場所や、描き始めからどちらに進むか、を予想するようになった。
書の動きとともに視点も動くので、なぜか自分で描いている気もしてくる。
細部を覗くと、墨が飛び散ったり、滲んでいく様子なども再現されていた。見ているだけで落ち着く。
生まれた空書たちが重なり合いながら新たな文字を作っているように見えた。ただ、その読めない文字は、時間が経つと消えていく。ひたすら繰り返されるその作品を前に、脳みそを回転させてみる。
文字とは何か。2次元平面における奥行きとは何か。
そもそもどうやって描いているのか、どうシミュレーションするか、みたいな技術的なことを考えたり、ディスプレイのつなぎ目や端っこなどの境界線を見ながら、解像度について、なんてことも考えていた。
ちょっと時間が経ちすぎていたので、場所を移動することにした。
花と人の森、埋もれ失いそして生まれる / Forest of Flowers and People: Lost, Immersed and Reborn
その静かな空間を抜けると鮮やかな花が咲く大きな空間で、敷居を跨いでまったく別の世界に入った感覚だった。
近くによると解像度が低かったり、引いてみると綺麗に見えたり。
自分がどこを歩いているのか、どこから来て、どこに向かえばいいのか全く分からなかった。
鏡のせいなのか、変わっていく作品のせいなのか、空間での自分の位置が認識できなかった。おそらくそういう仕組みで知覚を狂わせにきているのだろう。
中でも一番気になったのが、角。鏡がある曲がり角では、角の線とそれに反射して写る鏡の中の角の輪郭が綺麗に重なって、曲がれるはずなのに行き止まりのようにも感じられる不思議な空間が作られていた。
鏡に映った虚像なのか、本物なのかあまり見分けがつかない。これはどういうことだ?としばらく考えたが、よく考えたら本来の花の作品も2次元で作られた映像をプロジェクターを通して壁に投影している「虚像」であることに気づいた。あれ、となると、壁に映し出された2次元的な虚像の虚像を見ているのか、と。
そうなってくると同じ原理で見えてるのだからそりゃ見分けがつきにくいわけだ、と。
これが人が映っているとまた違う。
人は鏡か本体かは一瞬で見分けられる。そこもすごく面白かった。3次元的な物体である人間は2次元的な虚像とは別空間に存在しているからだと分かった。ので、鏡に映る人を通して自分が見ているものが2次元の虚像か、虚像の虚像なのかを判断できた。
靄の彫刻 / The Haze
奥に進むと通路があって、その途中に暖簾で分けられているスペースがあった。
のぞいたらどうやら靄の彫刻という光を使った作品だった。
中に入ると四方に張り巡らされた照明器具たちが、軍事パレードのように一斉に動き出し、その照明が発する光の線によって、空間に光の立体物が作られていた。
これはおもろい。
マテリアルではないのにただ光が重なっているだけで物質性を感じる。
その感覚は不思議だった。おそらくプログラムされて一定の規則に則って照らされないと立体には感じないんだろう。コンピュータのクロックに合わせて同期的に動く照明によって、空間に映し出された立体的虚像が次々に姿を変えていく。ここでも不思議な現象が起きていた。
床面はまたもや鏡張り。空中の光の物体が鏡によって自分越しに映し出されていた。しかしこの鏡はなぜだか鏡にしか見えなかった。明らかにさっきと違う。さっきは本物か鏡か区別がつかなかったのに、光の彫刻は一瞬で判別できる。
その違いは立体感だった。空中の光はすごく立体的で奥行きがあり、まさしく物体のようだったが、それを移した鏡では極めて2次元的で平面感が強かった。同じ光の投影と反射であり、光の虚像なのに。
立体感と平面感の違い。花の空間では壁に映し出された2次元的な映像と鏡によるその反射。「2次元的虚像を2次元的虚像へ変換している」という現象だったが、この空間では壁一面に置かれた照明が発する光は、空中のスモークに反射して立体物を作っている。
これは空中のスモーク、つまり空気中の粒子に反射した光によって作られた3次元的な虚像であり、それを映す床面の鏡は「3次元的な虚像を2次元的虚像に変換している」。それは3次元世界に生きる私にとっては違いは一目瞭然。
なんだ、光を通して壁を見るか、空気の粒子を見るかの違いか、ということに気付き、これめちゃくちゃ面白いな、と感じたのだった。
残念ながらここで感じた感覚はもう一つ。作品を主観的にみるか客観的にみるかの違いだった。入り口には部屋の真ん中に立って見てください。と書かれていたが、しばらくは端っこから客観的に光の物体を眺めていた。
ライトの動き方が変化して、段々と自分に近づいてくるのがわかった。広がったり狭まったりを繰り返しながら上下に動き、ついに自分の体が照らされた。今まで客観的に捉えていた作品が自分に触れることでいきなり主観的に感じた。中に入ったような感覚だった。その感覚が面白くて、周りの人を気にせず、部屋のど真ん中に立ち、真上に浮かぶ立体を眺めた。
さっきとはまるで違う。物体の内側から見ているような、自分が物体の一部になったような感覚に落とし込まれた。鳥肌が立った。
これがチームラボが提唱している超主観空間ってやつか。
作品を見ているのか作品になっているのかわからない感覚だ。ただそこにはプログラムによって規則的に動く照明があるだけ。それなのに動いたり集まったり、自分に近づいたりすることで作品となり、物体となり、空間となっている。
Black Waves - Continuous
この作品は一番のお気に入りだ。
入り口は小さく暖簾で分けられていて、くぐるとそこは壁一面に映し出された黒い海が広がっていた。波は激しく水しぶきをあげている。その波たちの方向は統一されておらず、多数の波が様々な方向へ進んでいる。
時間が早かったせいかそこには誰もいなかった。
空間の真ん中にソファーが置いてあったので、とりあえず腰掛ける。他の作品の色鮮やかさとは打って変わり、黒の空間に深い青の海と白の波しぶき。波音は激しくも静かに流れている。うん、落ち着く。
いくつか作品を見て回った後だったので、足も疲れていた。
休憩がてらに海を眺めながらそれまで見た作品について想いを巡らせてみる。どうやら考え事にはちょうど良い空間のようだ。
作品を通してチームラボの哲学である「超主観空間」を考えてみる。
超主観空間では主観と客観が入り混じっていて「視点」が存在せず、横軸に対して中心という概念を持たない。らしい。
これまでの作品にも主観と客観を混ぜこぜにするような仕掛けは沢山あったが、その論理はまだ自分の脳内で直接的に全ては繋がっていない。
そんなことを思いながら手元で作品のキャプションを見る。日本画の線形的な表現についてや生命力の話を混ぜながら主観空間についても書かれていた。
前の動画で話していた内容はまさにこの作品で表現されているのではないかと思った。
水の粒子が線形になって波をシミュレートしている。方向は定められておらず、なぜか何層にも分かれて作られているようにも見える。
キャプションによると3次元の波の動きをいわゆる日本画の平面的な論理構造に変換して2次元的に壁に投影しているのだ。
言われると確かに日本画のようにも見えるし横軸に中心という概念も存在していない。
考えてみればそもそも自然物に視点など存在していなかった。
しばらく眺めていると不思議な感覚に苛まれた。部屋の角に当たる部分を眺めているときに、なぜか壁が動いているかのように感じたのだ。そういう仕掛けがされてるのかと一瞬驚いたが、それは目の錯覚によるもので、自分が動いているのか、波が動いているのか、壁が動いているのかが分からなくなった。
これはおそらく超主観空間というものを身体的な感覚で捉えた瞬間だったのだと理解している。見る側、見られる側という視点が存在しておらず行き来ができる状態。それが自分の視覚を通して変換され、体の奥底に存在する日本画的な世界の捉え方が湧いて出てきたんだろう。
ただのコンピュータによって計算された線の集まりだというのに、これほどまでに生命力を感じるのはとても不思議だった。あわよくば本物の波よりも生命を感じる。
水の粒子が集合することで線を成し、線が集合することである種の秩序立ったリズムが存在している。そこに生命力を感じるのだろう。
猪子さんは「生命」とは「エネルギーの秩序」である。と提言しているが、チームラボがテーマに掲げる世界とは何か、生命とは何か、ということについて考える余地はまだまだありそうだ。面白くてたまらない。
こんなことを書いていると無限に書けてしまうのでこの辺にしておく。
もちろん他の作品も素晴らしいものばかりで、自分の中の感覚は広がったし、チームラボの哲学である「超主観空間」も体感することができた。
今後はより作品や世界を面白く見るために、日本の絵画や茶の文化に触れながら日本的な美意識を探求しつつ、自分なりの論理構造を持った上でそれをチームラボの作品とぶつけて自分の脳みそのリアクションを覗き込んでみたい。
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