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『ハロウィンと朝の物語』について、第三楽章
今更の前提ですが、現在『ハロウィンと朝の物語』は音楽配信媒体によって電子的に配信はされているものの「歌詞の配信」がなかったり、「歌詞カード」のようなものが(ハロネスクMV以外は)存在せず、「正しい歌詞」が判明していない不安定な状況にあります。そのため「こう聞き取れる」「こう聞き取った場合にはこういう解釈が出来る」という心情の元に、このnoteは執筆されています。簡単に言えば「まだギリ、ファンの妄想で済むやろ……」という小賢しい状態なわけですね(もちろんちゃんと怒られたら取り下げる他ありませんが)。
とは言え、2025年3月5日にCDが発売されて「正しい歌詞」が判明した以降は、心情的にも言い逃れの出来ない著作権侵害状態となるため、記事を削除する、あるいは歌詞部分を「変更/削除」するという対応に至るかと思われますので、予めご了承ください。
◇
最近サンホラにハマったものです。
経緯については以下をご参照ください。
※上記文章、大変たくさんの方にお読みいただいているようで、心からの感謝を申し上げます。にわかに毛が生えた程度の人間ですので、大きな誤解や、知識不足による不完全な考察、あるいは大いなる解釈違いなどについては「まーた初心者の雑魚が適当言ってるぜ」とでも思いながら適宜見なかったことにしていただけますと幸いです。
※木っ端のにわかの長文感想にたくさんの反応をいただきありがとうございます。「文章が読みやすい」という評価、大変嬉しく思っております。勢いで書いているので拙い部分が多々ありますが、集合知で星の輝きを確かめる行為の一助となれば幸いです。
◇
また、『ハロウィンと朝の物語』の第一楽章と第二楽章ついてぐだぐだ喋っている文章についてはこちらをご参照ください。
こちらもたくさんお読み頂いているようで、感謝が尽きません。引用やRP後の感想など、勝手に追わせていただいております。ありがとうございます。
余談というか書き漏らしていたことを先に書いておきたいのですが、ここは第三楽章とは直接関係ないので、アレでしたら読み飛ばしてください。
第二楽章について書いた際に「うみさん」は東京(あるいは都心)で借りていたアパートをどうしたのだろう? という疑問についての考えを書き漏らしておりました。あんまり書くと二次創作っぽくなるしなぁ……と思っていて、意識的に言及を避けていた節もあるのですが、せっかくですし、今回は「うみさん」があまり出てこないパートなので、さらっと書いておきます。
「うみさん」は「皐月ちゃん」が「絵を描く」ことを認識していたり、「かわみー」との「犯人ぶっ殺す!」の下りで「皐月ちゃん」の今後を憂うくらいに(あるいは、それを「かわみー」が受け入れるくらいに)親しかったことが覗えます。そもそも、いくら友人とは言え第三者目線で言えば「おっさん」と「年端も行かない女の子」を実家の離れに住まわせるか? という疑問が沸きます。「うみさん」が世田谷区に豪邸を持つ社長令嬢とかならまだしも、「長野県松本市」の旅館の娘です。普通であれば、劇団時代の知人を経由して、東京は無理でも、神奈川、千葉、埼玉あたりの物件を探せば良いのではないのか? と思います。眼鏡の女神が子羊を救った時期は定かではありませんが、歌詞の流れを素直に読み解くと「2020年の3月から2021年の3月まで」の1年間と考えられます。準備期間なども含めると、「2020年内」である線が濃厚です。さて、その時期はコロナ禍が一番盛り上がっていた時期でもありました。そんな最中に「東京モンが松本に来る」ということがどれだけ周囲の顰蹙を買うか、想像するだけでも恐ろしいです。いくら女将さんが発言権を持っていたとしても、「東京モン」を居候として呼び込むのは骨が折れることでしょう。それでも「うみさん」はそれを提案しましたし、そうするだけの関係性がありましたし、周囲を納得させるだけの根拠があったと考えるのが妥当です。無論、「浅間温泉」の人たちがみんなすげーいい人だった、というオチでもいいんですけれど、地域柄高齢者の多い場所ですから、一筋縄では行かなかったことでしょう。
とか、まあまあ、そういう諸々を考慮すると、「かわみー」と「うみさん」は一時的にルームシェアしていた可能性が非常に高いと考えています。そうすると割と説得力が出るというか。これはオタク的妄想というよりは、その方が色々と「都合がいい」からです。
妄想でもオタク気質な想像でもありません。
加えると、これは「異性」とか「同性」とか関係ない考察です。
そんくらいの親しさがなけりゃ、あの時期に他県の人間を、ましてや「子どもは感染しやすい」とか根も葉もない噂を流されていたのに、青年と少女を引き取るなんて選択肢、いくら悲惨な人生を送った者たち相手とは言え、周囲がいい顔はしないでしょう。さらに言えば「うみさん」は出戻りの身ですから、そんなに好き勝手出来ないはずです。「女将」の許可を取るに至る確固たる理由が、あるはずなのです(もちろん女将がすげーいい人、というオチでもいいんですけれど)。
さて、ではルームシェアへ至った可能性について模索します。身ひとつで田舎を飛び出して来た「うみさん」が、役者という、世間一般の認識としても非常に貧困に陥りやすい仕事をしていて、且つ「かわみー」も戯曲作家という(作詞活動もしていたかもしれませんが)不安定な仕事をして細々と食いつないでいたことが前提としてあります。「かわみー」は、『皐月の箱庭』でも触れますが、「皐月ちゃん」に対してかなり人並な生活を提供していますので、妹さんと二人暮らしの頃から、自分を犠牲にしても生活レベルを切り詰めるような生き方はしていなかったものと思われます。ご両親の遺産とか、もしかしたらあったかもしれませんが、それにしても長兄として何とか生活を保っていたことが伺えます。優しい人ですからね。
さて、そんな生活をしていたはずの「かわみー」家ですが、時期的には2012年とか2013年頃に「妹さん」が結婚し、恐らく家を出て行っているものと考えられます。「住み慣れたアパート」の定義にもよりますが、結構長いこと住んでいたのではないかなと。「かわみー」んちは結構余裕があったはずなんですよね。居住スペース的にも、金銭的にも、「妹さん」が結婚したことによって「かわみー」にはそこそこの余裕が生まれたはずです。
一方で、「うみさん」はと言えば、勘当同然で実家を飛び出し、都会で役者の沼に溺れて行きます。大学卒業まで地元で暮らし、「浅間温泉」という土地で、無駄に広い敷地に長年住んでいたことでしょう。「長野県松本市」の家賃相場と比べ、都会がどれだけ高いかは調べていただければわかると思いますが、相当に難儀したものと思われます。本当に安いところだと「え! 5万あれば一軒家借りられるのに!?」みたいなレベルです。且つ、家事やら買い物やらは全て自分ひとりでやらねばならず、生活費を稼いで役者として稽古をして生活をして、けれど貯金が出来るわけでもなければ生活レベルが上がるわけでもなく、都会に出てすぐの「うみさん」は相当に疲弊していたものと考えられます。
そういうものの積み重ねの結果、「妹さん」がいなくなった分の家事を手伝う代わりにルームシェアの提案があったりしても、まあ不思議ではないかなと思うのですね。そうであれば、幼少期の「皐月ちゃん」と頻繁に会っていたことも素直に読み解けます。都会時代は「うみさん」の方がずいぶんと助けられていたのだという前提を置くことで、途端に「実家の旅館の離れ」に居候させるという選択肢が、当たり前に見えてくるんですね。女将さんにしてみても、無鉄砲に飛び出した娘の生活を守ってくれた男性であれば(かわみーの人柄もあるでしょうが)恩を返そうという心情が働くものです。これは蛇足ですが、「ゲンさん」が「かわみー」のことを「旦那」と呼ぶのも、うーん、そういうアレこれが切っ掛けなんじゃないかなぁと思うんですよね。別に「お嬢」の「旦那」という意味ではありません。「お嬢」が世話になった「恩人」というニュアンスの「旦那」ですね。「ゲンさん」はノリの良い中年男性という雰囲気ですが、ただの居候を「旦那」と呼ぶほど気が弱い男でもないでしょう。何かしらの「義理」があると見るのが、この場合は適切かなと。まあもちろん、ルームシェアは必須条件ではなく、生活の援助をしていた程度でもいいんですが――広範囲に観測すると、その辺が一番落としどころとしてスマートだな、くらいの感じです。
整理すると、金銭的な面で困っていた「うみさん」に、「小妹は嫁いでしまって、そのおかげで小生は貴重なゲ……研鑽の時間を家事に奪われて困っている。双方ウィンウィンの関係が築けるのであれば、代わりに一人置いておくくらいの余裕はある」くらいのことを提言し、ルームシェアしていた可能性はまあなくはないかなと。その後、いずれかのタイミングで「妹さん」は亡くなり、「皐月ちゃん」は取り残される。当然「かわみー」はそれを引き取るわけですので、一時的かもしれませんが、3人が一緒に暮らしていたという見方も出来ます。そうなると『あずさ55号』での「今こっちもそれどころじゃ……」もなかなか味わい深い台詞に思えてきます。そういう、同じ釜の飯を食うじゃないですけれども、苦しい時期を共に過ごした関係であれば、「実家の旅館の離れでいいなら」と快諾するのも頷けるよなぁ、みたいな話です。むしろそれは、「うみさん」なりの「恩返し」のチャンスだったのでしょう。当然、お互いに「助けてもらってばかりだ」と思っているんだと思いますけれども、返せる時には恩を返したいという、深い繋がりがあるのではないかと。
まあこれは完全なる妄想というか、ほぼ二次創作に片足突っ込んでいるところなので読み捨てて頂いて良いのですけれども、せっかく「現代舞台」なのですから、現代的にあり得そうな解釈まで深読みしてみました。
では、上記の妄言は全て忘れて、第三楽章を聴いて行きましょう。
『皐月の箱庭』
軽くタイトルに触れておきますと、これはどうも「Revo」氏による『リヴァイアサン/終末を告げし獣』という漫画原作に対するイメージアルバムにある『さつきの箱庭』のオマージュであるように見受けられます。大塚英志先生原作の漫画ですと『黒鷺死体宅配便』とか『多重人格探偵サイコ』、『とでんか』なんかを読んでいたのですが、不勉強ながら『リヴァイアサン』は未読であり、世界観を理解するには至っていないのですが、該当する『さつきの箱庭』を聴く限りでは、単なる言葉上のオマージュとして片付けても支障はなさそうに思えます。
ここで使われる「箱庭」という言葉は、「気持ち」くらいに捉えて良いのでしょう。「皐月ちゃん」の心の中にある「箱庭」、すなわち「思っていること」「本心」「気持ち」くらいのもので、口語的に言えば、あるいは昨今の作品タイトル風に言えば「叔父さん、小学生に作詞させるって本気(マジ)なのですか? ~誰にも言えない秘めた想い~」くらいなものでしょう。なんだこのダサいタイトルは。
まあそんな、「皐月ちゃんの作詞タイムだよ」くらいの意味合いでしょう。
「あ~! もう分かんないよぉ……作詞なんてやったことないっつーの!」
「皐月ちゃん、物書きにとって一番大切なことは何だと思う?
まずは、自己紹介するつもりで書いてみては?」
「んー……わかった」
ぽわわわ~ん、から始まる冒頭。
第二楽章で「うみさん」すげー好き、と言っておいてアレなんですが、僕は「Halloween ジャパネスク'24」を初めて聴いた瞬間から、この「皐月ちゃん」の声のこともとにかく本当にすごく好きです。あまりに好きで名前を覚えてしまったんですが、ボーカルを担当されている俳優さんは山崎杏さんというらしいです。まあ今まで散々に「Revo」だの「Jimang」だの「ノエル」だのに対する愛を叫んできたので、「うみさん」やら「皐月ちゃん」へ愛を叫んでも男女バランスは取れているものと思いますが――うーん、本当にいい声の演技をされている俳優さんだと思います。ただこの声質とかニュアンスっていうのはやはり子ども時代特有であったりすると思うので、今後のご活躍によっては別の路線に進むかとも思われるんですが――まあいいか。とにかくこの冒頭の「ないっつーの!」なり「んー……わかった」の言い方なりは、「皐月ちゃん」の解釈一致率として圧倒的、なんと100%オーバーなんですね。「皐月ちゃん」の正解がないのだから当然っちゃ当然なんですけど、色々な文脈を読み、歌詞を検め、余韻に浸り、また考察を始めても尚、その評価は揺るがない。「これはどうあっても皐月ちゃんの声だ」としか思えないほど、ぴったりハマっています。お前は何様なんだと言われるとにわかのゴミでしかないのですが、そんなにわかのゴミが聴いても「すげー! ベストマッチ!」と手放しで賞賛出来るほど、いい声をされています。
――また声やら演技やらという、メタ的な要素についてお気持ち表明しかねないので、さらっと流すつもりで冒頭でちょっとだけ触れました。
さて、歌詞、というか台詞を読んでみますと、ここは「かわみー」から作詞を唆され、「皐月ちゃん」が歌詞を書こうとしているけれど一向に書き出せない……という部分と推察されます。書いて消して、ではなく、冒頭の書き方からしてわからん、という状況ですね。そこへ文筆家の先生である「かわみー」が助け船を出している。ただ、「一番大切なことは何だと思う?」に対する回答をせずに「まずは……」と語っているので、「自己紹介」が一番大切なことではないというのは文脈的に明白ですね。
個人的な見解として「物書きにとって一番大切なこと」は「書き始めること」だと思っているので、そういう意味では遠回しに「自己紹介でいいから、とりあえず形にしてみない?」と、世の創作家を全員殺すことになる「いいから書け」をすごくオブラートに包んで言っている可能性もありそうです。耳が痛いですね。
最後の「んー……わかった」は、再三になりますが、ここ好きポイントです。5千京ポイント贈呈します。
私の名前は皐月 って書いて「めい」
バリューセットで付いてくる 覚えやすいBIRTHDAY
大好きなパパとママが 遺してくれた
大切な贈り物 めっちゃ気に入ってる
ここで伏線が張られていたんですね。
まあ後の歌詞にも出てくるんですが、「皐月ちゃん」は結構マックに行ってる感じがします。そういう人生経験による「バリューセット」なのでしょう。せっかくなので地元トークに入りますが、「浅間温泉」から「マクドナルド」に行こうとすると、基本的には「松本駅」前にあるマクドナルドになります。過去にはイオン(当時はジャスコと言いました)にあったんですが、現在はありません。浅間温泉から「松本駅」までは1時間くらい歩くことになりますので、「かわみー」もとい「ことちゃん」と1時間も掛けて行くか……? という疑問が生まれます。
じゃあ車で行けば良くね? という感じもしますが、「ことちゃん」が運転免許を持っているとは思えないので、もし行くとしたら「ゲンさん」か「うみさん」が運転するのでしょう。しかし、駅前のマックに車で行っても駐車場がありませんから(有料駐車場はありますが)、そうなると「松本市道2057号線」、あるいは地元民的には「やまびこ道路」と呼ばれる道をずっと南下して至る「筑摩」という地域があるのですが、ここに駐車場付き、ドライブスルー付き、近所に商業施設多数あり、という「マクドナルド」があります。立地や交通手段を考えると、基本的には土日などはここによく行っていたのではないかな、ということが推察されます。まあ、これについてはその段落で触れるとしましょう。
ともあれ、5月生まれの「メイちゃん」ということがここで明かされます。パパとママは早くして亡くなってしまったわけですが、パパとママが大好きで、まだ世に出ていない8曲目である『約束の夜』を考慮すると、「皐月ちゃん」が物心つく前に亡くなったわけではなさそうです。だから大体、5歳くらいの時に亡くなったと見るのが妥当でしょう。
「皐月ちゃん」の年齢を「ハロパ」時点で仮に10歳前後としますと、この詞を書いている時点では9歳くらいかもしれません。今までの時系列と照らし合わせると4年前にご両親は亡くなっているため、5歳頃までは都心で暮らしていたの見られるので、ある程度辻褄は合いそうです。
そうなると、小学生になる頃に「浅間温泉」に引っ越してきたように思われます。転校生扱いというわけでもなく、「皐月ちゃん」は1年生時点から、「松本市立本郷小学校」へ入学したと見るのがベターでしょう。「松本市立本郷小学校」は単に学区がそうなだけなので、深い考察はありません。
ゲームとアニメとマンガが好き スイーツとダンスとオシャレも好き
ちょっと恥ずいけど最近 友達の恋バナも好き
まあこの辺については特に言及することがないのでゲームについてのメタ話でもしましょうか。「ハロパ2024」にて、異常なまでに「DQ3」についての言及がありました。こんなにアホみたいに文章を書いておきながら、僕は普通のサラリーマンで割と平日忙しくしているため、やりたいやりたいと思いつつ「DQ3」をプレイ出来ていません(じゃあ何でこんなに文章書いているんだというツッコミに関しては、生まれつき筆が早いだけです)。
これは知人ローランから教えてもらった豆知識なのですが、今回の「DQ3」リメイクには、「ブレイブリーデフォルト」のプロデューサーである浅野智也氏率いる「SQEX浅野チーム」が関わっているのですね。「ブレイブリーデフォルト」なり「ブレイブリーデフォルトⅡ」なりは「Revo」氏並びにリンホラと非常に関わりが深い作品でありますし、そういう色々もあって言及していたのかな……という気がします。宣伝でこそないとは思いますし、単純にプレイしているだけなのかもしれませんが、そういうメタ読みがあったっていい、くらいのニュアンスです。
その子は乙姫 って書いて「まりん」
運動神経バリえぐい けど歌唱力はジャイアン
小さくて可愛いしょこらは 食欲がギャル曽根でウケる
仲良し三人トリオ ゥチらズッ友だょ!
ここでようやく「乙姫」と「しょこら」についての言及があります。
遡ってみると、『小生の地獄』の一節である「大切なことに気付けば」の裏で「ことおじ!」「おじさま!(?)」という台詞が聞こえるのですが、これが「乙姫」と「しょこら」でしょう。見た目の雰囲気的に、「乙姫」は「ことおじ!」と呼びそうですし、「しょこら」は「おじさま!」と呼びそうです。まあ逆でも成立するんですが、単なるイメージで。この場合「ことおじ」呼びの方が、ちょっと舐めてる感じがありますよね。「こどおじ」っぽい響きがそうさせるのか――さておき。
「乙姫」は運動神経バリえぐいのに歌唱力はジャイアン。一方で「しょこら」は食欲がギャル曽根だそうです。すげえ歌詞だ。
令和の(正しくは平成生まれの)ジャパニーズピーポーの名前なので、読みが特殊なのは別に今更ですし言及する必要もないかとは思うのですが、ちょっとだけ気になるのは「乙姫」ですね。なんで海無し県である長野県松本市を舞台にして「乙姫」なのか。一応、長野県にも「浦島太郎伝説」はあり、これは「寝覚の床」という逸話があるので興味があれば調べて欲しいのですが――まあ、松本からは少し遠い地域の話であるので、無関係と切り捨てて良さそうです。どちらかと言えば、「乙姫」と書いて「マリン」と読むような名前を持つ子が生まれる土地として、「松本市」は少々土地柄が悪いな、という方面の違和感です。「オトヒメ」ならまだしも「マリン」ですから、海に所縁がある方が自然でしょう。
合わせて、「しょこら」も「単にかわいい名前」として付けられただけなのかもしれませんが、この子だけ漢字に該当する描写がないので、本当に「Chocolat」という名前である可能性があります。何が言いたいかというと、この仲良し三人トリオは全員、県外からの移住者なのではないか、という可能性ですね。
これだけ仲が良い且つ、「浅間でハロウィン」にもキッズアンバサダーとして参加してくれているということは「浅間温泉」近辺に住んでいて「松本市立本郷小学校」に通う女子小学生であることは明白です。そんな中で仲良くなった切っ掛けというのは、意外と「地元生まれじゃないから」みたいなものなんじゃないかな、という気もするんですね。
前段の考察を許すのであれば「皐月ちゃん」は1年生時点から松本暮らしですが、「乙姫」や「しょこら」は途中から転校してきたかもしれません。そんなふたりに対して積極的に働きかけて、友情を芽生えさせたのかもしれない――と考えると、グッと来るものがあります。「乙姫」は外見的にギャルギャルしい感じもありますから、意外とノリの良いご両親がいて、「皐月ちゃん」と「しょこら」も休日に一緒にどこかに連れ回してもらっているとか、そのくらいの交流があっても不思議ではありませんね。
いずれにせよ、「ちょっと変わった名前」以上の関係性というものが、この三人にはあるのかな、と読み取ることが出来そうです。
マックもサイゼもスタバも好き JENNIもZIDDYもLOVETOXICも好き
ちょっとムズいけど最近 K-POPの振り真似も好き
変な叔父さんと二人 温泉旅館に居候
毎日楽しいけれど 親はいない
一行目の前半はチェーン店、後半はティーンファッションブランドですね。僕はいい歳こいたおっさんなので(今までの考察と照らし合わせると、かわみーと同い年くらいか……)流石にティーンガールズファッションブランドについての知識はなく、ここは全く聞き取れませんでした。よって、有識ローランの情報から拝借しています。
ちょっと調べた感じ、「皐月ちゃん」の活動圏内であろう「イオンモール松本」にはラブトキしか店舗がないようなので、基本的には通販を利用しているのだろうな、ということが覗えます。まあここは別にどうでもいいのですが、そういう時代なのでしょうね。
さて、マックとサイゼとスタバの下りですが、前述した「やまびこ道路」を下る途中に「スタバ」も「サイゼ」もあります。「マック」はちょっと遠いですが、「スタバ」と「サイゼ」はどちらも小学生が自転車で頑張れる距離にあるので、仲良し三人トリオできゃいきゃいしながら「スタバ」の新作とか飲みに行っているのかもしれませんね。ちなみに「スタバ」には「TSUTAYA」も併設されているため、「ゲーム」もあれば「マンガ」もあることになります。近くにスーパーもあるので、友達同士でちょっと行って遊ぶには良い場所ですね。
とは言え――どうせ自転車に乗るのであれば、やはり「イオンモール松本」というクソデカ商業施設に行くのが定石と思われます。「イオンモール松本」内にも「スタバ」があり、その近辺には路面店としての「サイゼリヤ」が存在します。となると、基本的に仲良し三人トリオは「イオンモール松本」に行っているのでしょう。実際、調べていただくとわかると思いますが、「イオンモール松本」という商業施設は「田舎のイオン」を体現するようなデカさを誇るので、とりあえず「イオン」行けば1日遊べます。「ハロパ2024」が開催された「ぴあアリーナMM」の敷地面積12,000㎡に対し、「イオンモール松本」は62,500㎡となっているので、敷地面積だけ見ても約5倍のサイズというわけですね。
早起きした仲良し三人トリオが、例えば「マック」まで頑張ってチャリを飛ばして朝マックを食べ、10時頃に「イオン」に向かい、そっからわちゃわちゃしてお昼頃に「サイゼ」でお昼を食べて、またお店をうろうろして、途中で疲れたから「スタバ」で飲み物買って、またうろうろして夕方になる前に「浅間温泉」に帰る――みたいな休日があるのかもしれません。イオンは映画館も併設していますから、朝一から映画というパターンもあるでしょう。
……郷里に蝕まれて必要以上に地元考察をしてしまいましたが、平たく言えばここは「突っ込みどころのない歌詞」ですね。「地元民として違和感を覚えることはないくらい理路整然とした歌詞」とも言えます。地方都市は、大体のチェーン店は揃っていますからね……。
さて歌詞の読み取りに戻りますと、まあとにかく「イマドキの子」な感じの描写です。僕は松本市在住の「イマドキの子」と接さなくなって久しいので、果たして本当にそうか? と問われると答えられる自信はないのですが、すくなくとも「我々が想像するイマドキの子」という描写ではありそうです。僕はK-POPなんて「TWICE」とか「æspa」とか「NewJeans」くらいしか知りませんし、それらが本当にジャンルとしてK-POPなのかも知りませんが――「皐月ちゃん」たちにとっては当たり前に接種する日常的な情報であり、動画を見ながら振り真似をする行為もまた、当たり前な日常なのでしょう。時代ですね。
次の行では、どうやら「皐月ちゃん」は温泉旅館に「居候」しているという意識はあるようなので、やはり引っ越し前にそこそこ物心が付いていて、自分の境遇についても把握しているようです。それがあまり褒められた立場ではない、ということも、おそらくは理解しているのでしょう。
上記で鬱陶しいくらい「松本で小学生が土日に遊ぶには」みたいな考察をしたのは、最後の「毎日楽しいけれど」に掛かってきます。「皐月ちゃん」は別に塞ぎ込むでもなければ膝を抱えて悲観するでもなく、毎日を存分に楽しんでいるわけですね。好きなお店もあるし、好きなブランドもあるし、「乙姫」というダンスバリえぐい友達と振り真似しながら、日々を面白おかしく生きている。「サイゼ」では爆食いする「しょこら」を二人でからかっているかもしれない。そんな、少女の当たり前に幸福な毎日が、いとも容易く想像出来る。
けれど、親はいない。
周囲に恵まれ、友達に恵まれ、好きなこともたくさんあって、毎日楽しく暮らしているはずの「皐月ちゃん」にとって、ここが唯一、自身を顧みるポイントなわけです。
「寂しくない」は嘘になるけど 「何処にもいない」は実感がない
どこかで今も 笑っているような気がして でも
『約束の夜』はどこにもないと 現実逃避のまやかしだと
確かめるのが怖くて 踏み出せずにいる
そんな子が何を書けばいい?
ここ、天才歌詞ポイントです。
寂しくないと言えば嘘になる、というのは割と定型的な文章なんですが、それに被せるようにして「何処にもいないは実感がない」としているのが良い表現なんですね。「寂しい」という前段を正としてしまうと、もうどこにもいないということを認めることになる。だから「実感がない」と続いている。2行目も含めて読み込むと、「会えなくて寂しいけど、また会える気がしている」という意味合いなのですね。
この歌詞の何が良いかってのは3行目にモロに出てくる『約束の夜』ですね。今作の8曲目に該当する曲のタイトルですけれども、「ハロパ2024」で我々が喰らった演出を考えると、いかに美しい歌詞なのかということがありありと分かるかと思います。
もうこれは考察でもなんでもなく「ハロパ2024」を見た感想、でしかないのですけれど、『約束の夜』とは「パパママと一緒にハロウィンパーティに行くこと」なのでしょう。これはもう深読みとかそういうんじゃなく、「コンサートを見たら体でわかった」類のものです。
まあそんなオカルト的な説明では考察をしている甲斐がないので、これを裏付ける要素についても語っておきましょう。少し紙幅を割いて、丁寧に説明します。
これも事前に知人ローランに教えてもらっていたことなのですが、『Sound Horizon Around The 20th Anniversary Special Site』には隠し要素的なものとして、サンホラに宛てたローランからのお手紙と思われる画像へのリンクが存在しています。その手紙の差出人は「皐月ちゃん」のお母さんと思われ、内容としては「子どもが出来たから(あるいは台風がヤバいから)今回のハロパは不参加になるけど、絶対また開催してくださいね、今度は親子3人で行きます!」みたいな感じです。色々理解してから読むと、もう「皐月ちゃん」のお母さんの文章としか読めません。是非ご自身の目でお確かめください。泣けてきます。
さて、前回サンホラのハロパが開催されたのは2013年10月26日のこと。お手紙の中では「この子を無事産み育て」と記載があるので、「ハロパ2013」のタイミングでは妊娠中であることが覗えます。「皐月ちゃん」は5月生まれなので、2014年5月生まれであることが推測されます。2024年11月現在、2014年5月生まれの子は小学4年生の満10歳ですね。つまり「皐月ちゃん」は2021年4月の時点で小学1年生の満6歳。「うみさん」が帰省したのは2020年3月頃と考えられ、その後に「口利き」してもらって「居候」に繋がったと考えますと、やはり小学校入学前に「松本市」へ来たことが読み取れます。ここを切り口にして、大体の年齢感を予測していたのが、今までの文章における「皐月ちゃんは10歳くらい」という部分に当たります。
手紙に対する考察に戻りますが、今回の「ハロパ2024」は、「皐月ちゃん」のパパママのための開催でもあったのですね。「今日ここに来られなかった名もなきローラン」たちのために開催された、あまりに包容力のデカいステージでありました。ではご両親はいつ亡くなったのか。今まで拾ってきた情報を統合すると、2019年が濃厚でしょう。「皐月ちゃん」は2014年5月生まれですので、2019年5月では満5歳。既に映像を見たり、音楽を聴いたりするのに適した年齢です。「ことちゃん」言うところの「幼少の砌」より、「ハロパ2013」の様子が収められた映像作品(通称「おせち」)をお母さんと一緒に観て、「次のハロパがあったら一緒に行こうね」と約束していたと思われます。実際、「ハロパ2013」は過去の公式アナウンスを見る限り、着替えスペースが用意されるほど、仮装については好意的であったようです。なので「次のハロパには、家族3人で仮装して行こうね」というのが、『約束の夜』でお出しされた光景なのでしょう。なんかもう泣けて来たな……。
そんな『約束の夜』はもう叶うことはない。そんなのは現実逃避のまやかしだと、聡明な「皐月ちゃん」は理解してしまっています。「踏み出せずにいる」のは何なのかというところですが、これは「サンホラに触れること」でもあり「絵を描くこと」でもあるのかと思います。そのどれかが直接的に、というわけではないのでしょうけれども、要は「前を向いて両親を過去にしてしまうこと」及び「両親を思い出す行為」を意識的に遠ざける防衛反応が働いていたのかもしれません。否、両親との思い出として曲を聴いたり、一人で絵を描いたりはしていたのかもしれませんが、それを喧伝し、第三者から両親の思い出話をされたくなくて、ずっと心のうちに秘めていたのかもしれません。
そんな――「創作」あるいは「物語」から距離を置いている自分が、一体何を書けば良いのか? と、ここで「皐月ちゃん」は歌っています。
「皐月ちゃん、筆を折るのはまだ早いよ。
自分が何を言いたいか難しいようなら、
自分なら何を言って欲しいか、考えてみては?」
「うん、やってみる」
ここもすごく良いですね。基本的に創作理念に関わる歌詞は俺に効く。
自己紹介を進める中で、「皐月ちゃん」は心の暗部に触れ、筆を止めてしまいます。きっと「ことちゃん」にも覚えがあるのでしょう、経験者であることちゃんは次なるアドバイスとして、「何を言って欲しいか」を書くよう勧めます。端から見ると結構残酷な仕打ちなんですけれど、ここは「ことちゃん」なりの愛情であり、後半でノリノリになっているにも関わらず「書き直そっか!」と言っているあたり、「作詞をさせる」のが目的なのではなく、「膿を出す」というか、「皐月ちゃん」の中にある暗い感情を吐露させるのが目的なのでしょう。
余談というかここ好きポイントですが、「うん、やってみる」の言い方、本当に良いです。自分の気持ちを文字にすることで何かが掴めそうな、希望を見つけた言い方に聞こえます。これは本当、超個人的な話なんですけれど、塾とかで子どもに「解き方」や「読み方」を説明して、「次の問題ひとりで出来そうかな」とか聞いた時の「やってみる」のニュアンスなんですよね。今の感覚を手放すまいと必死で、会話に全然集中していない、今は目の前の問題と向き合うことしか考えられてない時の「やってみる」です。この時「皐月ちゃん」はゾーンに入っていて、もう少しで掴めそうな自分の本当の気持ちと向き合いたくて仕方ないような、そんな栄養がこの発声から得られます。
私が一人で泣いていた時 同じ哀しみを背負って
誰かが傍にいてくれたから もう一度笑えた
何て言って欲しかったか 今でも分からないけど
絶対また笑えるから それだけは信じて
前半は「ことちゃんありがとう」と言っている部分ですね。同じように両親を亡くし、さらに妹さんまでも失ってしまった「ことちゃん」は、「皐月ちゃん」にとっての唯一の仲間です。これは理屈じゃないんですけれど、痛みや哀しみを分け合うことは難しくて、誰かが抱えている100の哀しみから50だけもらう、ということは出来ないんですね。そんな時に隣にいて欲しいのは、同じように100傷ついた誰かで、それを癒やせるのも同じように100傷ついた誰かでしかない。失意のどん底に居るとき、幸福な人間からの慰めの言葉は心まで届かない。哀しみは深度ですから、水面にいる人間の言葉は聞こえないんですね。
でも「ことちゃん」は同じ深度に、あるいはもっと深い場所にいます。そんな相手が、きっともっと辛い想いをしてきたであろう相手が、優しく慰めてくれて、抱き締めてくれたからこそ、「皐月ちゃん」はこんなにも明るい少女として成長することが出来たのですね。
そんな「ことちゃん」に、あるいは他の誰かに何て言って欲しかったかはわからないし、その傷は今も癒えてないのだけれど――もう明けないと思っていた夜も、もう来ないと思っていた日常も、絶対にまた来るのだと、経験者は語っています。これは我々へのメッセージでもある、とても強い歌詞ですね。「みんな負けるな!」に類する、無作法な「絶対」です。でも、絶対また笑えると言っているから、絶対なんです。
冷たい雨の 震える夜の その寒さを知ってるなら
君の笑顔は いつか誰かを 照らす光になる
ここは完全に覚醒してますね。
『小生の地獄』でも少し触れましたが、いわゆる「夜半の嵐」です。その嵐を潜り抜けたことのある人間は、今後は誰かを照らせると。ここはもう「皐月ちゃん」自身、誰のことを書いているのかわかっていないと思います。筆が乗って覚醒すると、よくわかんねえけど「正解」な歌詞が生まれることがあり、ここはまさにそんな雰囲気でしょう。
とは言え考察を前提に書いているのに丸投げするのもアレなので少し補足すると、これは「皐月ちゃん」が自身を俯瞰して観ている「皐月ちゃん」であり、その元となった「ことちゃん」についても歌っているのでしょう。前者として捉えると、「皐月ちゃん」が抱える「そういう自分でありたい」という願望とも見て取れます。元々、周囲の愛情を一身に受けて育った子ですから明るいのはそうなのでしょうけれど、意識的にも「明るい子でいよう」とする努力があったのかもしれません。「夜半の嵐」を抜けた自分は、今度は誰かを照らしてあげよう――光になろう、という、前向きな自分へのエールのようにも思えますね。
「皐月ちゃん、筆が乗ってきたようだね。
流石は幼少の砌より、地平線の英才教育を受けてきた子。
これは小生も負けてはおれんな!」
幼少の砌(みぎり)という表現は、偉い人の幼少期をバチクソ丁寧に表現する際に使われるものです。なので姪っ子に使う表現ではないのですけれども、まあそこは文筆家らしい言葉遊びなのでしょう。
地平線の英才教育、という言葉は、まさか20年前くらいからサンホラの存在を認識し、曲をつまんでいた頃には想像もし得なかった表現です。既に「名も無きローラン2世」が同じコンサート会場にいてもおかしくない年月が流れているということなんですね。恐ろしいことです。光陰矢のごとし。ともあれ、ここの発言からもやはり、上記したように「皐月ちゃん」は小さい頃からお母さんとサンホラの世界観を楽しんで来たことが覗えます。実際に子どもの頃からサンホラの英才教育を受けた子がいたとしたらどんなバケモノに育っているのか興味がありますが――そこに妹さんの天才のDNAが受け継がれているわけですから、結構恐ろしい子ですよね、「皐月ちゃん」。
絶望の淵で誰かを待つ 踏み出す一歩の切っ掛けを待つ
そんな背中を押すような物語を 我等は
夜空を駆け抜け青く燃える 夜明けを導き凜と光る
滅びの先へと愛の物語を 書きたいんだ
ここ好きライブパート。
「ハロパ2024」において、「踏み出す一歩」のところで二人が「行くぞっ!」という感じで一歩踏み出しているのがすごく可愛かったです。普段からこんな感じで仲良いんだろうなぁ、というのが見て取れて、微笑ましかったですね。
歌詞を見ていきますと、ここは「皐月ちゃん」に対する歌でもあり、不特定多数に対する歌でもあります。この辺でもう「皐月ちゃん」は完全に覚醒していますね。自分が何を言って欲しいか――というテーマで書き始めましたが、そこで自分の使命というか、自分がしたいことと言うか、『物語』の本質に少し触れます。「皐月ちゃん」は踏み出せずにいる子なんですが、本当は踏み出したいと思っているんですね。自分でもそんなことは分かっている。そんな背中を押してくれる『物語』を必要としています。それは「ことちゃん」も同じで、剣ではなくペンを選んだ青年は、創作によって復讐がしたいのですが、それは同時に誰かを救いたいという欲求でもあります。1曲目の『物語』を味わった後だと、ここの共同作詞部分がより味わい深くなります。『物語』では最後に「不滅なる物語」と歌われていますが、決して滅びることのない物語とも、滅びの先にある物語(=再生の物語)でもあるように感じられる一節です。ただ、この時点では「書きたいんだ」としていますから、まだ書き上げていません。実際に書き上げた作品が『Halloween ッジャパネスク’24』ですので、まだ前段。宵の口ですね。
そして7曲目を終え、8曲目を終えた後の『物語』時点で、「ことちゃん」は書き切ったのかもしれない、夜が明けたのかもしれない。冒頭の「うみさん」との会話から推察しても、やはり『物語』は後日譚であり、この物語の冒頭でもある「夜と朝の物語」であるのでしょう。あるいは「夜から朝へと向かう物語」ですね。ここのギミックというか構成については、頭が下がります。
「どうだねことちゃん、この力作は!」
「うーん、感動的ではあるけれど、
ハロウィンイベントの案件だったからね。
もっと楽しい感じに書き直そうか」
「ズコーッ!」
まあここは特に触れることもありませんが、二人の関係性が見て取れる良いシーンでもありますね。毎日こんなことやってんだろうなぁ、という感じがあります。「ズコーッ」の言い方とか、本当なんて言うか、愛情を信頼しきっている子どもが発する感じで良いんですよね。自分がおどけたら相手はきっと笑ってくれるだろうという、信頼しきった「ズコーッ」です。
このようにして作詞活動は行われ、出来上がったテーマソングが次曲に歌われます。
『Halloween ジャパネスク'24』
特に考察する部分でもないので、キャッチーなテーマパートはそれぞれ割愛しております。ご了承ください。
一応触れておく部分としては、「ジャパネスク」という言葉は「和風」とか「外国人から見て異国情緒溢れる」みたいな意味合いなので、日本人から見た「サイバーシティトーキョー」とか「スシゲイシャニンジャ」的な雰囲気でしょうか。意訳するなら「和製ハロウィンテーマソング」的な感じでしょう。
サンタの嘘を健気に信じ 除夜の鐘をコタツで聴いて
大凶のおみくじは マジぴえんだけど
みんな違ってみんなイイ!
ここは歌詞のまんま、時節の移り変わりを表している部分ですね。
12月末、クリスマスを終えて大晦日を迎え、お正月におみくじを引いている。目立った催しについて歌われています。まあ特に深読みする部分はないですね。唯一触れるべきは「皐月ちゃんサンタ信じてねーじゃーん!」なんですが、今時そんな感じなのかもしれませんね。ネットで何でも調べられますから。
あとは金子みすゞの代名詞(?)が引用されているところくらいですが、ここも深い意味はなさそうです。
桜散りぬるは避けられぬ宿命 花火の余韻に物の哀れ
台風が過ぎ去れば 今年もハロウィン
楽しんだっていい 人間だもの!
(YEAH!)
春が来まして、夏が来まして、秋が来まして――ハロウィンが来ると。
春夏秋冬(順序的には冬からですが)を文学的に表現しています。このテーマソング自体がそこまで深読みするべき歌ではないと思うので(ノリノリで行こうぜ! なポップソングなので)、ここも飛ばしましょう。相田みつをの代名詞(?)が引用されているくらいですが、これも深い意味はないでしょう。
ヤバいんじゃない? このカオスが私の生まれた国JAPAN
アイルランドで生まれて アメリカで育った友と
今宵一緒に 踊ってみYO!
(HEY!)
えー、ここですね。
ここです。
第三楽章、ひいては『ハロウィンと朝の物語』は、この文節に全ての要素が集約されていると言っても過言ではありません。『約束の夜』の理解への解像度、「ハロウィン」というお祭りの意義、「皐月ちゃん」が一歩踏み出す決意を固めた覚悟が、ここに込められています。
ここの考察(というか過去作の聞き取り)については、先達の有識ローランの集合知に助けられました。心から御礼申し上げます。
この歌をより深く理解するためには『ハロウィンと夜の物語』というシングルを理解する必要があります。このシングルには『星の綺麗な夜』という曲があり、語り部分ですが「イギリスからアイルランドへ渡った」という台詞があります。「who sailed from Great Britain to Ireland」という部分ですね。ここでアイルランドが言及されています。ということはつまり、このシングルの舞台は『現代世界』なんですね。
『ハロウィンと夜の物語』については僕なんかより皆さんの方が詳しいと思いますので詳細は省きますが、まあ19世紀初頭にアイルランドへ移住した男がいて、その子孫を中心に語られる物語です。主人公となる子孫の名前は「シェイマス」だか「ウィリアム」だか言うらしいです。「シェイマス」というのはアイルランド系の名前で、「ウィリアム」はアメリカ系の名前ですね。超余談ですが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という著名なSF映画があるのですけれども、これのPart3に登場する、主人公の先祖に当たるキャラクターは「シェイマス・マクフライ」という名前です。彼はアイルランド訛りを喋る描写がありますが、実際には物語の舞台は西部開拓時代のアメリカなので、アイルランドからの移民と考えられます。で、そのアメリカで生まれた息子の名前が「ウィリアム・マクフライ」です。まあだから何だという話なのですけれども、19世紀はアイルランドからアメリカへ移住する人間は多く、これは様々な作品で比較的メジャーに扱われていることなのですね。まあ上記の映画の舞台は1885年なので、時代は合わないのですが。
便宜上彼を「シェイマス」としまして――彼はアイルランドで農夫として働いているのですが、ジャガイモ飢饉により不作となり、このままでは生きていけないと、家族(妹)をアイルランドに残したまま、単身アメリカへの移住を決意します。そこで戦争に巻き込まれたり何だりと色々な苦労があって、ろくに動けない体になってしまう。その後訪れる「ゴールドラッシュ」でも、体が不自由だから炭鉱府として大きな成果を上げることも出来ず、クソみたいな人生を送るハメになるのですが……失意の中でも愛する女性と結ばれ、子宝にも恵まれます。しかしその子の誕生を見ることも叶わず、ゴロツキに刺されて死亡するという、救いようのない物語なのですね。
その彼が便宜上「ハロウィン・ナイト」と呼ばれる人物です。
「アイルランドで生まれてアメリカで育った」人物なんですね。
もう一人、『おやすみレニー』という曲で語られる「レニー」についても言及する必要があります。彼は少年なんですが、上記した「シェイマス」がアイルランドに残してきた妹の子どもです。妹さんは妊娠中にアイルランドからアメリカへ移住し、そこで「レニー」を産みます。過酷な船旅により「レニー」は体が弱い状態で生まれ、余命幾ばくもない生活を送り、最終的には2曲目の『朝までハロウィン』で亡くなってしまうのですが――これも広義では「アイルランドで生まれてアメリカで育った」人物なんですね。まあ大変に良い曲ですのでこれは是非考察いただきたいのですが……ここで重要なのは、「シェイマス」と「レニー」は、「叔父」と「甥」の関係であるということです。なんだかきな臭くなってきましたね。
最初に『Halloween ジャパネスク'24』を聴いた時は「乙姫かしょこらはアメリカ育ちなのか~」みたいな感じで聞いていたのですけれど、アイルランドで生まれてアメリカで育って浅間温泉に移住……ってのは、10年間の情報量として多すぎます。いや別にあってもいいんですけれども、アイルランド生まれとか、アメリカで育ったとか、言うか? と。物心付いた頃にはアメリカに居ただろうし、アイルランドに言及するか? みたいな。ちょっと無理やりすぎますし、意味もなく「アイルランド生まれでアメリカで育った」という設定を付け加える意味もないように思われます。
そう考えると、過去作の「シェイマス」及び「レニー」が「今宵一緒に踊ってみる」相手であり「友」と考えられます。「皐月ちゃん」が踊る相手としては、同年代くらいで亡くなった「レニー」が適切でしょう。
なんで急にこんなメタっぽい歌詞が出てくるのかなんですが、これは実はメタではなく、「皐月ちゃん」が「幼少の砌より地平線の英才教育」を受けたからに他なりません。『ハロウィンと夜の物語』において亡くなってしまった2人の登場人物は、「皐月ちゃん」にとっては小さい頃からよく知っている「友」なのでしょう。ハロウィンの夜に現れるその2人と、「浅間でハロウィン」を通じて踊ろうとしている。死者どころか、現実(「皐月ちゃん」から見た現実)的には二人は「創作上のキャラクター」であるのですが、そんな2人も呼び込んで一緒に踊ろうとしているわけですね。特に、「皐月ちゃん」にとって『約束の夜』である「ハロパ」はサンホラの中でも特別な催しであり、その先駆けとなった『ハロウィンと夜の物語』は、他の作品を置いても特にお気に入りの楽曲であることが想像に難くありません。僕にとっての『ヴァニシング・スターライト』のように、鬼リピしていた歌かもしれませんし、お母さんから歌詞の内容を教えてもらっていた可能性もあります。だからこそ、こんな歌詞が生まれたわけですね。
両親と踊りたい、と直接歌詞に書けるほど、まだ「皐月ちゃん」はその事実をきちんと受け止められていません。ですが、幼い頃に出会った「シェイマス」と「レニー」なら、同じハロウィンだし気軽に誘える。せっかくのハロウィンなのだから、生者も亡者も全員集合! という、ごちゃ混ぜ闇鍋パーティであることが読み取れます。
ここで「皐月ちゃん」は『約束の夜』に対して、一歩を踏み出したということです。誰にも言えずに閉まっていたであろう両親との『約束の夜』を、「ハロ夜」を通じて少しだけ覗かせた。自分の中にある「地平線」を解き放った歌詞であると考えると、ここはとんでもないキモです。『ハロウィンと朝の物語』においての、大トロの部分ですね。
ようこそ此処は 神と仏 悪霊と物の怪が
肩を寄せ合い 住んでる国
ねえ何処から来たの? 推しのキャラは何?
君の事を教えてよ!
前段の歌詞を踏まえると「シェイマス」や「レニー」に対しての「ようこそ」にも思えます。まあ我々宛でもいいんですが、日本人リスナーに日本の説明をするのも変な感じするので、素直に読むとそんな感じでしょうか。あるいは後半「何処から来たの?」に対するアンサーとして、「君が何処から来ていてもいいよ、ここはこういう国だから」というただの説明かもしれません。ここは包容力抜群の部分なので、あまり深読みしない方がいいかもしれませんね。
で、ここでメインテーマが流れますが、割愛します。
能登の地震に心を痛め 出来得る支援をそれぞれ探す
コロナ禍を乗り越えて 令和のJapanese People
雨にも負けず 風にも負けず
(Wow!)
時事ネタというか、2024年にしか書けない歌詞ですね。
後で追加したとかも考えられますが、順当に読むと「うみさん」がポスターの依頼をしたタイミングは2024年に入ってから、ということになりそうです。そこから絵じゃなくて作詞の依頼に変わり、これが書き上がった。そのまま「Revo」氏か「栗木川」氏に作曲の依頼があり、曲が完成するわけですね。現実的なスケジュールで考えると、マジでどういう速度感で動いたんだって感じもします。
まあここもさして突っ込むところではありませんね。コロナ禍がようやく下火になってきたと思えば地震が起き、雨やら風やらで大変だと。ここも宮沢賢治の代名詞(?)が引用されていますので、全体的に「ことちゃん」の入れ知恵を感じますね。
エモいんじゃない? このセンスが私の育った国JAPAN
哀しみに囚われないで さよならを抱き締めたまま
今を一緒に笑ってやろう
(Come on!)
ここ人間賛歌ポイントです。
『皐月の箱庭』で触れられた、「愛の物語」ですね。みんながそれぞれ辛くて、その哀しみの深度は異なるのですけれど、それはそれ、囚われることはなく、いくつものさよならを抱き締めて、胸に秘め、手放さないままでも、今を笑うことは出来るよという、笑ってやろうぜという、手放しの応援歌です。それでも今まさに哀しみに暮れている人には届かないのかもしれませんが、大切なのはこの歌が「必要な時に」その人の耳に届くことですね。これは『物語』でも触れられていますが、「限り有る物」は人の手によって「繋がれ」て、「不滅の物語」となるのです。誰かが誰かに手渡すことで生き続け、誰かを照らす光になる。
あるいは僕が『ハロウィンと夜の物語』に触れたのも、この曲が生まれたことによる効果と言えます。限り有る物に永遠の面影を与えることに成功しているということですね。この曲は生まれ、人の手によって永遠性を内包し、必要とする人の元へ渡っていくのです。『物語』のオリジンみたいな内容が語られています。
ようこそここは 武士と忍者 怪獣と巨大ロボが
袖を触れ合い 生きてる街
ねぇいつから居るの? 推しのフードは何?
君の声を聴かせてよ!
これは余談ですが、1964年に公開された『三大怪獣 地球最大の決戦』というゴジラ映画があり、この映画の中で「松本城」が破壊されています。「ハロパ2024」のロゴにはゴジラと思しき怪獣と「松本城」が描かれていますので、パロディ要素なのかなと思ったりしています。
「ねぇいつから居るの? 推しのフードは何?」
ここなんですが、「好きな食べ物はなんですか?」という歌詞だと読んでいたのですけれど、前段の「推しのキャラは何?」と合わせて読むと、「ハロパ2024」で販売されていた「フードタオル」についての言及である可能性があるな、というのが最新の読み方です。
となると、前のメロディで「シェイマス」と「レニー」に対する質問と思われた下りが、実はローランに向けての問い掛けになっている仕掛けなのだとわかります。実際、「ハロパ2024」では「ことちゃん」と「皐月ちゃん」がステージを降り、客席に突撃して推しを質問する下りがありました。フードタオルについても言及していたので、「君の事を教えてよ!」や「君の声を聴かせてよ!」は、我々に対するあったけぇ言葉に思われます。
そしてここでまたメインテーマが流れますが、割愛します。
これは未来の御伽噺
鬼と巨人 海賊とアイドルが
バズり祀られ 推された時代
そして君と私 まだ知らない文化が
出会い交わり 繋がる未来
ここでは「御伽噺」について考えてみましょうか。
字面が格好良いのでついつい使いがちな「御伽噺」という言葉ですけれども、実際には結構面倒くさい言葉です。「伽」という言葉には、「退屈凌ぎの話し相手」か「夜の相手をする人」みたいな意味がありますが、流石に前者が採用されるでしょう。まあ転じて「寝かしつけ」みたいな意味も持ちますので、ここでは「子どもに聞かせるお話」くらいな意味を持ちます。
超深読みですけれども、『ハロウィンと夜の物語』は「皐月ちゃん」にとって「御伽噺」だったのだろうな、と推測されます。お母さんから聞かされた「御伽噺」が『ハロウィンと夜の物語』であり、そしてこの歌は、この物語は、未来でまた「御伽噺」になりますよ、という願いの込められた一節に読めるのですね。それは別に「皐月ちゃん」が将来子どもにするという話ではなく、我々の誰かだっていい。誰かにとっての「御伽噺」として、この曲は育って行き、人の手を渡り、繋がって、永遠の面影となるということが歌われています。
さて、「鬼」やら「巨人」やら「海賊」やら「アイドル」は別に説明する必要もないですね。有名漫画です。バズり祀り上げ候。
ただ、偶像的に祀り上げられる上記したようなバズ概念だけではなく、君と私――すなわちサンホラという物語を通じで同じ地平線で出会った我々が交わることで、新たに物語は紡がれ、新しい未来へ繋がって行くという、なんとも優しいメッセージが込められています。トップバズ以外だって、楽しいお話は出来るし、みんなでいっぱいお話しようよ、みたいな、そんな感じを受けますね。この曲は全体的にストレートな歌詞が多いので、あんまり考察するべきこともない感じです。
嗚呼 夜を乗り越え アサマデハロウィン
星は青く輝くよ
(Say!)
明確ではないので「アサマデハロウィン」としていますが、文章的には「浅間でハロウィン」より「朝までハロウィン」の方が意味が通りやすいでしょう。
ここで乗り越えるのは単なる暗い時期、辛い時期でもありますが、楽曲として捉えると『約束の夜』を指しているとも取れます。実際、この曲の次に『約束の夜』が演奏されるので、それを乗り越えて、朝を迎えてもハロウィンを続けるという、やはり前向きなメッセージが込められていそうです。「ハロウィン」は単なるこの日の暦上のお祭りではなく、「皐月ちゃん」が得られなかった、そして来ないで欲しいと願っていた「ハロウィン」とも捉えられますので、夜を乗り越えた先でもまたハロウィンをしよう、みたいなメッセージとも受け取れます。
最後の「星は青く輝くよ」の「星」は、『皐月の箱庭』の「夜空を駆け抜け青く燃える 夜明けを導き凜と光る 滅びの先へと愛の物語」の「愛の物語」と同義でしょう。そんな物語が、夜を越えて朝を迎え、輝きを放つというドストレートな歌詞で締め括られています。謂わば「希望への願い」であり、「夜との抱擁」ですね。哀しかった時代を忘れるのではなく、それを受け入れ、抱き締めて、前に進もうとする行為そのものが「青く輝く星」なのです。
『ヴァニシング・スターライト』や『絵馬に願ひを!』でも顕著ですが、青く輝く星というのはそのもの、全てを受け入れて目指すべきものです。いつかは絵馬を完全に理解した頃にでもまた狂いの文章を書こうと思いますが――『絵馬に願ひを!』では、青い星が輝いたあとで「参道の正中」と呼ばれる、神様の通り道を選択出来るようになります。これは「ハロパ2024」でも演出の一つとして取り入れられていました。日本という国には八百万の神様がおり、正しくは「森羅万象全てに神を感じる」という神道の考え方なんですが、「知らねえ! 俺が神だ!」という乱暴な意見も通るっちゃ通ります。『絵馬に願ひを!』では、「絵馬への願いとか知らねえ、巫女(神の使い)とかも知らねえ、俺は俺の道を征くんだ!」という第三の選択肢として「参道の正中」があります。まんま「僕は――いや、小生は、己の道を征くんだ」と同じ清々しい決断なんですよね。だから基本的に「星が青く輝いた」先にある決断は、他者の力を借りぬ、自分の信じた道を征くという強い想いが多くの作品に共通している気がします。
そしてこの後でもメインテーマが流れますが、割愛します。
Love&Peace!
最後については、言葉は要りませんね。
そして物語は『約束の夜』に至ります。
SNS上では有識ローランの集合知によって『約束の夜』の内容に関する記述がありましたが、あまり先達の考察を拝見すると先入観に囚われそうなので、一旦僕の『ハロウィンと朝の物語』はここで終わっています。
あとは2025年3月5日の発売日を待つばかりですね。
サンホラの「CD」を買うのは、実はこれが初めてです。『絵馬に願ひを!』はBDだし、『ヴァニシング・スターライト』はデータ購入だったからな……初のCDが地元舞台というのは、にわからしさが出ていていいですね。
◇
さて、そんなこんなで、ハロパ行ってドハマリして曲の考察して――という文章を、4回に渡り書かせていただきました。ざっくり勘定でも、約11万文字の気狂い感想文を書いていました。社会人としてやるべきこともあったはずなんですが、食事やら睡眠やらを削ると何とかなるものですね。いやまあ、記憶が新鮮なうちに書き残したかっただけなのですが――まあ割と何とかなりましたと。
冒頭でも触れました通り、この歌詞解釈は基本的には著作権侵害に触れる行為ですので、然るべき機関から削除要請を受ける、あるいは正しい歌詞が展開された時点で削除するか、あるいは表記について検討をすることになるかと思われます(面倒なので削除方針になりそうです)が、それまではローランたちの一助になれば幸いです。
今後は個人的に過去作に触れて行くことになるとは思いますが、今は『絵馬に願ひを!』を時間が許す限り周回しています。ゲーム的な側面があるので基本的に攻略情報などは見ていないのですが、どうやら「黄泉比良坂」を駆け上がるシーンと「手水舎」にはランダム要素があるようなので、気長に再生しつつ、理解を深めたいところです。特に「ノエル」との関与が非常に深く思われますので、しっかりと自分なりの考えをまとめたいところです。
◇
特に意識したわけではないのですが4日連続でクソ長文章を公開する結果となりました。更新の度に追ってくださった方がいらっしゃることも認識しております。本当にありがとうございます。今日が金曜日だから……明日がハロパ当日ですか? いやぁこれから楽しみですね。近所なので意味もなくぴあアリーナMMに足を運んでしまいそうですが、一旦は現実を見て、次なるコンサート、あるいは地平線に備えて、後悔のない体験が出来るように頑張りたいところです。
なんか日記っぽくなってきましたのでさっと切り上げますが、今は数々のファンアート、あるいはコスプレ写真などを拝見し、思い出に浸ったり、自分がきちんと理解していなかった頃の空気感を味わっています。知人ローランも言っていましたが、後続でファンになった人間が過去の(映像化されていない部分の)情報を得るためには、会場で必死にメモを取ったり、集合知を編纂して口伝として後世に伝えた名も無きローランの活動によるものです。新参者である僕は、その先達たちの行動に感謝しつつ、憧憬を覚え、いつか消え行く僕が誰かに何かを伝えられればと思い、文章として残しました。責任感こそないですが、誰かの役に立てたら良いなという、感謝の意です。
また、過去作の歌詞を読み取る際には、現在は閉鎖されてしまった歌詞の集約サイトに大変にお世話になりました。本当にギリギリのタイミングでしたが、そのサイトがあったからこそ、僕は『Märchen』と『Nein』を短期間で、拙いながらも理解することが出来ました。大いなる感謝を申し上げます。
◇
さて、まあそんな感じで、気が向いたらまた何か書くかもしれません。
SNSをフォローいただいた方も大勢いらっしゃいましたが、基本的にはSNSで日常的な呟きを行わない運用をしておりますので(青空は別)、あまり意味がないとは思いますが、邪魔にもならないと思うので、また別の機会に何かを書いたら連携させていただこうと思います。
ということで、秋津皇国に行ってきます。
それではまた別の地平線で! 最後までお読みいただきありがとうございました。
Love&Peace!