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『ハロウィンと朝の物語』について、楽章タイトルと第一楽章
最近サンホラにハマったものです。
経緯については以下をご参照ください。
※上記文章、大変たくさんの方にお読みいただいているようで、心からの感謝を申し上げます。にわかに毛が生えた程度の人間ですので、大きな誤解や、知識不足による不完全な考察、あるいは大いなる解釈違いなどについては「まーた初心者の雑魚が適当言ってるぜ」とでも思いながら適宜見なかったことにしていただけますと幸いです。
◇
すまんが『ハロウィンと朝の物語』について、少し自分の整理も含めて話させて欲しい。俺はもう何かしてねえと落ち着かねえんだ……。
『ハロウィンと朝の物語』は、大きくわけて三楽章に分かれており、それぞれ、第一楽章に2曲、第二楽章に3曲、第三楽章に2曲(または3曲?)収録されていると考えられる。最後の記述が曖昧なのは、現在発表されている曲は7曲なのだが、CD版では8曲目があるからだ。これは先日行われた『Revo's Halloween Party 2024』で既に演奏されている『約束の夜』という曲である。だが、これは聞き直せないので現在は正しい歌詞が不明であったり、両日に渡って演出が異なっていたこともあるため、今回の記事では割愛させていただく。
加えて、ある程度『ハロウィンと朝の物語』についてのあれこれを知っている前提で書いているので、詳細な情報については有識ローランの記事をご参考ください。
『各章のタイトルについて』
さて、第一楽章から見ていきたい。
――と行きたいところなのだが、1曲目の『物語』について考察する前に、せっかくなのでまずは楽章のタイトルについて考えてみたい。ついでに登場人物についても、前置きとして考えておきたい。
第一楽章のタイトルは【湖に映る兎が見る星は】なのだけれど、そもそもこのタイトル、「ハロパ2024」においては、一部の漢字にのみ色がつくという演出があった。具体的には「湖」と「兎」に色がついていた。これを合わせて読むと「コト」となる。さて、第一楽章、及び今回の「ハロ朝」の主人公と考えられる男性は、「うみさん」からは「かわみー」、皐月ちゃんからは「ことちゃん」、乙姫とショコラからは「ことおじ」、大女将からは「かわみさん」と呼ばれているのが曲内の台詞、及び「ハロパ2024」のMCなどで確認出来る(ちなみにゲンさんからは旦那呼ばわりされていた)。
本楽曲では語られない前提知識として、サンホラ世界の登場人物に「革命先生」という人物がいる。読み方は「かわみことせんせい」だそうだ。これはいわゆる、主催であるRevoの別の側面、つまり音楽家としてではなく、文筆家としての演出を行う際のペンネームとして扱われているものだったそうだが――いつの間にか曲中曲の作詞担当をしていたり、「絵馬コン」でも何らかの文章を寄稿していた。つまり非常に縁のある人物であり、且つ文筆家であるようだ。
さて、上記の呼び方からも察せられることだが、「かわみー」及び「ことちゃん」を組み合わせると、今回の『ハロウィンと朝の物語』において、「かわみこと」と思しき名前をしている人物が出現したということになる。単純に考えれば「革命先生」は「革命」という名前に先生をつけたと考えられるので、「かわ・みこと」を漢字で書くと「革命」となる、と読み解ける。「うみさん」が呼んでいる「かわみー」はあだ名ちっくな雰囲気があるので、氏名を跨っていても違和感はないし、「皐月ちゃん」が「ことちゃん」と呼ぶのも、名前の「み」を省略した呼び方と考えると、それほどおかしくない。「皐月ちゃん」の呼び方から着想を得て「乙姫」と「しょこら」が「ことおじ」と呼んでいるのも、まあまあ頷ける。
だが、ひとつ気になる。
旅館の大女将とも思しき厳格な人が「かわみさん」と呼ぶだろうか?
すごく疑問に思った。
娘である「うみさん」が「かわみー」と呼んでいるから「かわみさん」と呼んでいる、という解釈も出来るのだが、居候させている相手の本名を知らないとも考えにくいので、ここは素直に「かわ・みこと」はPNと考え、本名は「かわみ・こと」である、と考えるのが自然であろう。
そうなると、ここでは便宜上苗字を「川見」とし(比較的母数が多い一般的な苗字であるため)、第一楽章のタイトルの漢字から見ると名前は「湖兎」となり、「川見湖兎」が本名のように思われる。その本名をもじって「革命」とし、さらに冗長的にしたのが「革命先生」であると考えれば非常に筋が通る。
が――ここでひとつ問題がある。
実は「兎」という漢字は、いわゆる常用漢字ではない。
漢字検定準1級に該当する、実は割と難読漢字扱いとされている。
日本人の「名前」に用いることが出来る漢字は、法務省が発表している「常用漢字表」と「人名用漢字」に限られる。「兎」は「常用漢字」には含まれないため、利用されるとしたら「人名用漢字」からの採用となるが、調べてみると「兎」が「人名用漢字」として登録されたのは2004年9月27日となっている(興味のある人は人名用漢字の変遷とかで調べると楽しいかもしれない)。と考えると、「かわみ・こと」という名前については疑念はないのだが、実際には「湖兎」という漢字ではないという可能性が浮上する。
まあ実際のところ「そんなのちょっとした手違いでしょ……ていうか法務省からの参照とかキモくね?」という気もするのだけれど、名前の漢字がおかしそうだ、と考えたのには別の理由がある。
第二楽章タイトルの【雨に濡れども美しく】がまさにそれだ。
第二楽章について「ハロパ2024」で色が変わっていた漢字は「濡」と「美」であるが、これはどう頑張っても「うみ」とは読めない。もっとも、人名は漢字の読みと発音が必ずしも一致しなければならないという法律はないので「濡美」と書いて「うみ」と読ませる地平線があったって良いのだけれど――「濡」も「兎」と同様に常用漢字ではなく(こちらも準1級範囲)、さらに「人名用漢字」ですらない。つまり、この漢字は名前としての利用そのものが不可能なのだ。時代がどうとかではなく、2024年11月現在も使用出来ないことになっている。
そう考えると、「こと」という名前の漢字表記は「湖兎」ではなく、別の漢字が当てられている可能性が高い。もちろん、だからと言ってサブタイトルが誤っているというわけではなく、【湖に映る兎が見る星は】の「こと」と読める部分に色を付けただけの小洒落た演出である、と考えるのが妥当だろう。まあそうなると【雨に濡れども美しく】の意味が通らなくなるが……あるいは「長野県松本市浅間温泉」という舞台が、実在の日本ではなく、法務省が全ての漢字を利用出来るという法案を通した異なる地平線であるという解釈をしたっていいかもしれない。
またこれは余談や虚言に近いが、「ハロパ2024」において第二楽章タイトルの【雨に濡れども美しく】を読み上げる際に、2日目だったと思うが、演奏開始前にかわみーが「違う!」と言っていたシーンがあった。何が違うのかはサッパリだったが、演出の入りが間違ったのか、何か言い間違えたのか、全然違わないのに違うと思い込んで違うと言ってしまったのかは諸説なのだが、「実は色ついてる部分が違った」という大穴も考えられる。単純に【雨に濡れども美しく】だった可能性もある、という話だ。なのでこの辺はあまり深く考えなくてもいいとは思うのだけれども――まあさておき、とにかく考えなければならないのは、「川見湖兎」という名前が現実的にあり得ないというところである。
具体的にどうあり得ないのかと言うと、「かわみー」が2004年以降の生まれだとすると、戸籍登録は2004年9月以降なので、適切に10月生まれくらいと考えると、2024年11月23日時点で20歳ということになる。一方、姪である「皐月ちゃん」がめちゃくちゃ幼いと見積もっても6歳は超えているだろうから、叔父さんと14歳差ということになる。これでは今は亡き妹さんの年齢がパラドックスを起こしてしまうので、やはり「かわみー」の名前に用いられる漢字は「湖兎」ではない、と考えるのが妥当であろう。
しかしここで逆転の発想だ。
革命を本名とする説はどうだろう?
そして、ペンネームが川見湖兎とすると、途端に法をクリア出来る。
しかしながら、インターネットで軽く調べた範囲では「革」という苗字の存在は確認出来なかったため、こちらも線としては薄い。全ての条件をクリアするのであれば、「かわみー」は秋津皇国出身であり、秋津皇国にはそのような漢字利用制限がないと考えると辻褄が合う。残念ながら『絵馬に願ひを!』のキャラクターたちはみんな日本の法律をクリアした名前のため判断が付かないが、まああそこにそんな大仰な法律なんてないだろう。超大穴の説としては「2004年以降にかわみーが戸籍変更をした」というもの。正式な理由があって裁判所に認められれば、意外と自由に名前を変更することが出来る。「当時は使えなかったけれど人名用漢字として登録されたので、本来の名前である湖兎に変更したい」という手続きを行ったのであれば、まあ「川見湖兎」が爆誕する可能性もある。
川見湖兎という名前は美しいので、せっかくだからこの案を採用したい。
とは言え「濡美さん」は存在出来ないのだが――
まあ一旦、名前についてはこのくらいにしよう。さて、次なる第三楽章のタイトルは【夜明けに皐き月を背負ひて】である。
これは簡潔に「皐月と書いてメイ」で良さそうなのだが、問題は「皐」は「しろ」とは読まないということである。「コウ」とか「さわ」とか、一字でも「さつき」と読んだりする漢字。上記した通り、あるいは歌詞内で「私の名前は皐月って書いてメイ」と言っていることからも、漢字の表記と読みに厳格性なんて必要ないのだが、一応日本国のルールに照らし合わせると、このサブタイトル、第一楽章から第三楽章まで、全部どこかで惜しいのだ。
文筆家である「かわみー」がそんな不用意な表記をするだろうか。
そこが逆に気になるポイントである。
まあ、この辺は考えてもキリがないところではありそうなので、一旦は「その方がオシャレじゃん?」くらいに留めておくことにする。名前や漢字についてはある程度の考察が出来たので、次はこの楽章タイトルについて、別の視点から考えてみたい。
◇
【湖に映る兎が見る星は】
【雨に濡れども美しく】
【夜明けに皐き月を背負ひて】
単独で読むとリズム感的には俳句とか短歌っぽいが、繋げて読むと「5・7・5・7・5・7・7」となっている。分解すると、「5・7」が3回以上繰り返されて、最後に「7」が来る。この形式は「長歌」と呼ばれる和歌の一首をモチーフにしていると考えられる。雰囲気的には最初の「5」で主題を置いて、「7・5」とリズムを付けつつ色々とくっちゃべり、「7・7」で締める、という感覚の構成だ(間の「7・5」は何回繰り返しても良い)。
さてその前提を踏まえた上で改めて第一楽章から第三楽章を続けて読むと、
「湖に・映る兎が・見る星は・雨に濡れども・美しく・夜明けに皐き・月を背負ひて」
という感じの分け方になる。
これを人物たちに当てはめて読んでみると、
「湖に映る自分が見ている星は、雨に濡れていても美しく見える。夜明けにメイちゃんを背負いながら」
という感じだろう。兎を「かわみー」、皐き月を「皐月ちゃん」とし、雨に濡れどもは悲しみや苦しみの表現と取った場合の読みである。『小生の地獄』でも言及されているが、「星」とは期待や熱意や輝き、さらに言えば小生の頭に浮かぶ無数の星である。『絵馬に願ひを!』でも言及され続けていた「ヒカリ」に該当するとも読み取れる。言わば「希望」だ。さて、「星」は何故輝くのかと言えば、星単体の核融合反応によるエネルギーにより発光するわけだが、「月」は太陽光を反射して輝く。何が言いたいかというと、輝きの出所が全く違うわけですね。つまり小生が見ている「星」の輝きは自分自身から生まれるものであり、夜明け(これも無理やり解釈するなら、悲惨な出来事を終えたあと、くらいの意味だろうか)に「皐月ちゃん」という、浅間温泉の知人友人たちの力で輝く月を背負っているんだぜ、くらいの意味に読み取れる。
これを大いに(妄想力を爆発させて)意訳すると「悲しいこともあったけど、メイちゃんと一緒にこれからも頑張るぜ!」くらいのストレートな歌に感じられる。すごく前向きな歌だと思う。それに加えて、楽章のタイトルとして切り取ってみても、それぞれの章にマッチした優れた歌と言えるだろう。まあだから何だという話なのですが、一応「長歌」を意識していそうだったので解釈したまでである。
さて、ここで考えたいのが、「長歌」という和歌には「反歌」と呼ばれる「短歌」を添える文化があるということだ。もしかすると、最後の8曲目である『約束の夜』には何らかの「反歌」が、第四楽章のタイトルとして添えられるのかもしれない。が、まあその辺は完全版の発売を楽しみにしよう。
◇
さて、ついでに『ハロウィンと朝の物語』というタイトルについても触れておこう。
サンホラにおいて用いられる『朝』は、一般的な意味よりも遙かに特別な意味を持つものとされている気がするが、まあざっくり「生」とか「命」とか、そんな感じでしょう。有名どころの『朝と夜の物語』の歌い出し「生まれてくる朝」はまあ直球ですが、その他でも、朝は青(生)として表現される個所が散見されますので、「朝=生」とし、『ハロウィンと生(=命)の物語』と読み解くことが出来ます。
ですが――まあそれは当然というか「サンホラのタイトル」として直球で向き合うとそうなのですけれど、これについては「ハロパ2024」でお出しされた8曲目の『約束の夜』を踏まえて考えると、ちょっと道理が合わない気がするんですよね。要はその、『約束の夜』が対比関係になってしまう。単純に「朝=生」とすると「夜=死」となりますが、『約束の夜』はそんなに暗い物語じゃないんですよ。もっとあったかい。個人的解釈でものすごく意訳すれば、『約束の夜』は、二度と訪れないと思っていた、亡くなった両親との約束を果たした「夜」の物語であり、世界で一人だけのパパおじである「かわみー」と迎える美しい「朝」の物語なんですよね。メタファーとして「死者との再会」「生者との再会」を落とし込んでいる可能性はありますが、だからと言って『約束の夜』というタイトルにまでその業は背負わせたくない。
そう考えると、こと『ハロウィンと朝の物語』においての「朝」は、『約束の夜』を迎え、その夜を超え、新たなる明日に向かって生き続ける「皐月ちゃん」の成長の物語、もっと単純で一般的な意味での「朝」と考えられます。「未来」とか「希望」とか、死生観に囚われない方のね。曲中に「うみさん」からハロウィンの話をされて落ち込む「皐月ちゃん」の描写がありますが、8曲目を終える頃には、ハロウィンは『皐月ちゃん』にとって楽しいお祭りであり、『約束の夜』を超えることも出来た思い出深い時間になったんですね。これは「小生」にとってもそうで、自分と同じ境遇ながら懸命に生きる「皐月ちゃん」に対する申し訳なさとか、自分自身の頼りなさとか、親になりきれない関係性への苦悩とか、そういうのをひっくるめてしょげているのに、「皐月ちゃん」が自分という個を認めてくれて、受け入れてくれて、だからこれからも一緒に生きて行こうね、という『朝の物語』なんですね。『約束の夜』を超えた先に『朝の物語』があるわけなんです。
――言及しないとか言っておきながら、めっちゃ『約束の夜』について触れてしまったな……わかんねえよという方は、有識ローランのライブレポを読んでください……。
ま、まあつまり、『Halloween ジャパネスク'24』までは『ハロウィンの物語』であり、『約束の夜』が『朝の物語』、あるいは『約束の夜と朝の物語』ということになるように思えるんですね。これ、字面として見るとなんて美しいんでしょうか。解釈は自由なので好き勝手妄想していますが、そう考えると、過去作との対比が美しいですよね。まあ『物語』イントロ聞きゃ大半の人は理解出来るのでしょうけれど、当方はにわかなので色々と捗っているところです。
『物語』
さて、そんなこんなで『物語』です。
第一楽章1曲目の『物語』。
イントロドン! のところでは、「うみさん」と思しき女性の電話の声がする。これ、あんまりちゃんと理解出来ていなかったのですが、「ハロパ2024」を見たあとで聞いてみると、
「もしもし? かわみー? え? メイちゃん見つけたの? も~心配させないでよぉ……(途中わからず)こっちは大丈夫だから、うん、はーい」
と言っているように聞こえる。つまり、メイちゃんがいなくなってみんなで探している時に「かわみー」が見つけ、「うみさん」に電話を掛けている、という状況に思われる。
これと「ハロパ2024」の「ハロ朝」終了後にスクリーンに映し出された「Fine」に掛かっていたリピート記号(音楽記号として用いられる、:||みたいな記号)を考えると、『物語』の冒頭は『約束の夜』より後の話ということになりそうである。
メタ的に考えると『物語』は『約束の夜』の先の曲であり、実質的な1曲目は『小生の地獄』なのかもしれない。
此処より先に地平はなく 此処より後にも地平はない
然れど其れでは寂しく 人は虚構を求めた
ただ一人生まれてきて ただ一人死んで行く
ただそれだけの命に 一体何の意味がある?
冒頭の歌詞はこんな感じに聞こえるが、まあ物語の前段的な意味合いで十分だろうと考えられますね。唯一「地平」というのが気になるポイントではありますが、まあここは「かわみー」の歌詞というよりは、サンホラという楽団自体の存在意義とか、創作って何のためにあるんだとか、そういう大きな風呂敷的な意味合いの方が強いのではないかと思われる。
世界を知りたいと望みながら 向き合うことを恐れている
誰かに触れたいと望みながら 傷つくことに怯えている
ここは我々へ向けてのメッセージなのか、あるいは「かわみー」の独白的な部分なのか。さておき誰にでも刺さりそうな歌詞であり、やはり音楽の冒頭、物語への入り口としての役割が強い歌詞のように感じられますね。
「世界を知りたい」でも「正解を知りたい」でも意味は通るんですが、後半の「誰かに触れたい」という欲求と対照的であると考えると、より実体のある「世界」の方がしっくり来るでしょうか。
生の深淵は暗く 照らす灯りは短く
束の間の影法師に 一体何が生み出せる?
未来を抱きたいと望みながら 過ぎ去る夜に囚われている
何かになりたいと望みながら 叶わぬ夜に震えている
生の深淵とは何なのか。後半の「照らす灯りは短く」や「束の間の影法師」から考えるに、まあ一瞬で散ってしまう命くらいの意味なのでしょう。が、ここでは「照らす灯りは短く」と言っているので、「灯り」こそが生の期間であると読み取れる。つまり、「生の深淵」とは死、というか「無」であり、その無の一瞬の間に「生」がある、という考え方のようですね。「始まりがあって終わりがある」というよりは、一直線上の命に対して、灯りが照らされる瞬間があり、その瞬間が「生」だと。
あるいはこれは、『物語』のテーマから鑑みれば、ひとりの創作者としての活動時期の短さを表しているのかもしれません。作詞家として、作曲家として、創作家として、表現者として。一体あとどれくらいの時間、虚構を生み出せるのか? という葛藤。歳を取れば取るほど、周囲のプレイヤーは引退していったり、亡くなったり、そんな最中に自分の活動限界を見据える日も来るでしょう。作者の周囲の環境などを考えると色々と考察が捗りそうですが――まあ、多くは語らず、その程度に納めておきますか。
後半二行はよくある苦悩なので皆さんにも身に覚えがあるでしょうし、特に触れません。
其は命無き物 故に永遠を生きるまほろば
人はその嘘を紡ぐことを 物語と呼んだ
えー、ここ好きポイント。
「其は命無きもの」というのは、最後の「物語」に掛かってくる感じでしょうね。命がない、つまり元々が無であるが故に永遠を生きるまほろばだと。「まほろば」というのは、とにかくまあめっちゃ美しい場所という感じですね。ここは前段の「生の深淵は暗く」とも対照的と取れる文節で、命ある我々は瞬間的な煌めきしか残せないのに対し、命無き物は永遠を生きられるのだという対比表現にも思えます。実際には「其は命亡き者」として擬人化しても意味が通りそうっちゃ通りそうですが、「其は」とした場合には「それは~」くらいの、人に対して使う表現ではないので、まあ「物語」に対する評価とするのが適切に思われます。
人はその嘘を紡ぐことを、の「その嘘」は「まほろば」に掛かる感じですかね。美しい景色、素晴らしい情景を紡ぐことを、物語と呼んだと。まあだから、創作ってイイヨネ、くらいの歌詞なんですが、なんともここの歌詞の表現は素晴らしいですね。「まほろば」という言葉が浮かない絶妙な表現だと思います。「其は」とかもほぼ古語なので、一行目がすごくバランスが良い感じがしてここ好きポイントです。
君が見上げてるその星空と 僕が見てる星空が違ったとしても
でも君が今感じてるその寂しさに 同じ名前許すのなら
異なる地平が 孤独の意味を変える
星空と寂しさは対比的な表現だと思うのですが、よく言う話に「悲しみはそれぞれ違う顔をしている」というのがありますね。幸福な家庭は大体似ていて、不幸な家庭はそれぞれ違う理由で不幸であるという。喜びは「お金いっぱい!」とか「お腹いっぱい!」とか「毎日寝て暮らす!」とか結構単純なんですが、悲しみは人それぞれで、だからこそ他者と悲しみをわかち合えることはない、というのは人間関係の前提です。
そんな寂しさに同じ名前を許すのなら、つまり寄り添ってもいいと思えるなら、「異なる地平が孤独の意味を変える」と続きますが、この「地平」は冒頭にも出てきていますね。冒頭では「ここより先に地平なく」と歌っていて、でもそれでは寂しいので人は虚構を求めた。こう考えると「異なる地平」とは「虚構」であり「嘘」であり「まほろば」であり「物語」なんでしょうけれども、これはよくよく考えるとすごく悲しい表現であり、同時に優しい表現なんですね。「一緒にこの物語に寄り添ってくれるなら、君の孤独の意味を変えてあげよう」という話であって、孤独であるという状況自体は変わらないんだけれど、その意味が変わるよ、君が共感してくれるなら、お互い孤独だけれど、共に異なる地平を見ることが出来るよ、という話で。
楽章タイトル部分で触れましたが、「星」は「ヒカリ」、つまり輝き的な意味を持っていると同時に、内から湧き上がる希望的な意味だと読み取れます。そんな星々が光る空を我々は見ているんだけれど、実際には違う星空を見ているということはつまり、「かわみー」あるいは主催による「君が望んでいるものじゃないかもしれないけど」という前提が入ります。これは『小生の地獄』でも触れられることですが、自分から生まれた星空は他者には見えないんですね。だからあくまでもこれは「こちらが見ている星空を見せてえあげるよ」という話ですね。
もう少し簡潔に言語化すると、「君が見たい星空じゃないかもしれないけど、もし君がこちら側の寂しさに寄り添ってくれるなら、僕の星空を見てくれよ」というくらいの意味合いかと思います。まあ我々は主催の星空を見たいのでウィンウィンではあるんですが、すごく丁寧な物語への誘いの文句なのですね。おっかなびっくり、「俺の星空見てかない?」と誘ってくれているわけです。シャイボーイですね。
蛇足になりますが、「寂しさ」も冒頭から連なっている言葉なので、人は寂しさから虚構を求めるという文脈があって、だから是非これはどうだい? みたいな優しい誘いです。そんな誘いに我々はホイホイついていくわけですが。
嗚呼 其は限り有る物 故に永遠を望む面影
人はその嘘を繋ぐことで 物語となった
これはいずれ消えゆく者が いずれ消えゆく者へ贈る
玉響の言の葉の花束 不滅なる物語
メインメロディなので、「其は限り有る物」と「其は命無き物」の対比と考えましたが「故に」「永遠を望む」「面影」とはどういうことなのか。「面影」について考えると、これは実体のない記憶による投影、くらいの意味合いでしょう。そう考えますと、「限りある故に永遠を望む」は生命であると考えられます。ですがそう短絡的でない気もちょっとするのが、「人はその嘘を繋ぐことで」「物語となった」の「その」がどこに掛かるのかが曖昧になってしまうんですね。「その嘘」って何なのかと言うと、「面影」でしょう。「永遠を望む」のは「限り有る物」です。「嘘」が「物語」であることは先行の歌詞からも明らかなので、じゃあこの「限り有る物」ってなんだ? と。あるいは「限り有る物」を生命とするなら「限り有る者」と認識すべきなんですが、冒頭で触れたように「其は」と言った場合、生命に対して使うのは微妙な感じです。文脈的にも「人は」とあるので、わざわざ比喩表現したものを正しい言葉で置き換えちゃうのも不自然な気がします。
こうして考えてみると、これはすごく個人的な感性を反映した解釈になりますが、物語には寿命がないものの、それはただ生きているだけで、誰かにとっての面影とはならないのですよね。受け手がいて初めて物語は物語たり得るというか、存在理由があるというか。だからここで歌われている主体の「限り有る物」は「命無き物」と同義であると見るのが筋が良さそうです。対比表現のように見えて、同じことを言っているんですね。
現代的に噛み砕いて言うと、「命無き物」は「一回放流した作品は一生どっかしらには残り続けるはずだぜ!」なんですが、「限り有る物」は「出したはいいけど誰も読んでくれねぇから他の作品群に埋もれて評価されなくなっちゃったよ!」みたいな印象を受けました。創作物に対する苦悩と葛藤、という感じですね。
そして、それらを、消えゆく者から消えゆく者に贈る――創作家がいて、それを受け取る者がいて、物語は意味を成すと。ここで「玉響の言の葉の花束」という言葉が出てきますが、まあよくこんな綺麗な言葉が作れると感心します。「玉響」とは「たまゆら」と読みますが、まあほんの一瞬、刹那的な意味ですね。そんな一瞬で浮かんでは消えてしまうような言葉(歌詞や旋律)を、どうにかこうにか集めて、やっと花束(作品)にしましたよと。で、最後の「不滅なる物語」は、どちらかと言えば希望に近い表現かと思います。永遠に残ってくれよ、というか、「限り有る故に永遠を望む面影」を繋いで繋いで、みんなで不滅なる物語にしていこうじゃん? みたいな、ちょっと前向きな歌詞として個人的には解釈しました。
とにかくいいんですねぇここ。
「玉響の言の葉の花束」という言葉が、本当に優れた一節です。
作品とは、全ての歌とは、玉響の言の葉の花束なんですねぇ。
◇
総じて見ると、これは冒頭の「うみさん」の電話以外、メインストーリーには絡まない、基本的には「こういう気持ちで書いてるよ」とか「物語ってこうだよ」みたいな、創作理念みたいな歌ですね。これが「かわみー」の創作理念なのかどうかはさておき――と言いたいところなのですが、第一楽章が【湖に映る兎が見る星は】なので、「かわみー」が見ている星の煌めきがここで表現されているのでしょう。
曲の冒頭部分でも触れましたが、やはりこれは『約束の夜』を超えた「かわみー」による、創作活動への再認識というか、決意表明として受け取った方が正しいかもしれません。他の曲に比べて言葉の取捨選択が非常に洗練されているので、文学青年である「かわみー」による、自己啓発的な表現であり、それこそが『物語』なのだという定義付けなのでしょう。
まあ……「作者の人そこまで考えてないと思うよ」と言われたら一撃で死んでしまうような考察ではあるんですが、「かわみー」のように職業としてやっているわけではないものの創作活動とは長い付き合いをしている身からすると、なんとも身につまされるというか、発破を掛けられるというか、かっけえなあかわみー! って感じです。
『小生の地獄』
さてキラーソングについて語るお時間です。
『小生の地獄』というタイトルからして何もかもが良いのですが、冒頭にある以下の台詞、
大切な人を殺した奴がいる……
取るべきはペンか、剣か……
君ならどちらを選ぶ?
ここについて少しだけ言及したい。
ここは「ハロパ2024」で言及があった……ような気がします。曲名は知らなかったのですが、調べた感じ『死せる乙女その手には水月』なんですかね? この辺全く詳しくないのでアレなんですが、曲の終わりに「私が取るべきは……」みたいなことを行って壇上下手に捌けて行ったような記憶があります。帰ってから聞いてみたのですが、そんな台詞を言っているのは聞き取れず、あれはだから、「ハロパ2024」でだけ行われた、「ハロ朝」あるいは『小生の地獄』と掛け合わせた、何らかのオマージュだったのでしょう(もしかすると過去にそういう言及があるのかもしれませんが)。この辺、有識ローランが居れば教えて欲しいところです。過去からペンと剣の取捨選択はモチーフとして多いのかしら……。
まあ改めて文章の意味を読んでみますと、「物語を書くのか復讐をするのか」ということですな。ここはさほど難しい話でもないので飛ばします。
父が嗚咽を漏らした 働く姿を描いたピクチャー
チートの作者はベッドで アートを描いてた
母の悲鳴を照らした 布団の中から漏れたフラッシュライト
キッズ離れしたメイクのゾンビが 笑ってた
ここは「小生」の妹さんの可愛らしい少女時代の描写ですね。とにかくめちゃくちゃ絵が上手くて、ただでさえ娘から絵を描いてもらっただけで嬉しいのに、それがなんかすげえしっかり描かれててお父さんは嗚咽を漏らすと。「嗚咽」というのは昨今字面のイメージから「吐きそう」とか「泣き叫ぶ」とかの誤用があり、言葉の意味がかけ離れ気味ですが、実際には「すすり泣く」とか「声を殺して泣く」とかそんな意味ですね。嬉しくてちょっと泣いちゃった、みたいな情景でしょう。
次の「母の悲鳴を照らした」は文脈的にはそうだろうという気はするんですが、どうも「母」っぽく聞こえないので審議中です。とは言えまあ、ここが「母」でなくともおかしくなることはないと思うのでいいとしましょう。要は元気な女の子っつー話ですね。
人の驚いた顔が好きで いつもいたずら仕掛けては
満足そうに笑う顔に 結局つられて笑ったあの日
才能があると最初に 唆したのは小生で
地獄の門はいつだって 何処にだって開くと知ってたら
お兄ちゃんである「小生」はなんやかんや妹ちゃん大好き、という話をしてますね。
で、まあ兄妹の関係性も良かったのでしょう、「絵、めっちゃいいじゃん!」的に賞賛して褒めまくっていたら、妹さんは(恐らく)イラストレーターとして才能を開花させます。それが将来、良くない結果を生んでしまったのだと――「小生」は思い込んでいるのですね。絶対に誰か一人が原因で他者が地獄に堕ちるなんてことはあり得ないのですが、少なくとも「小生」は、それを後悔し続けているわけですね。
恨まないと言っても 地獄に堕ちるだろうけれど
否 人殺しより嘘吐きの方が 性に合っている
ここが非常に難解です。配点20点くらいありそうですね。
恨まないと言っているのは誰なのか、地獄に堕ちるのは誰なのか。
否、は何に掛かっているのか。
難解なのは単に歌詞の聴き取りが間違っている可能性はありますが、さておきこのまま解読してみます。まずは「地獄に堕ちる」のは「小生」であると考えます。これは「否」を希望的に観測した場合ですね。つまり、「人殺しより嘘吐きの方が性に合っている」とは、「剣ではなくペンを取る」という未来の結論ありきの解釈です。「小生は犯人をぶっ殺して復讐をするから、地獄に堕ちるだろうけれど……」という意図として解釈すると、「否」は「やっぱ人殺しはやめるか」みたいな転換のシーンなのではないかと。そうなると、「恨まない」と言っているのは、妹さんということになるでしょう。「妹さんが恨まないと言っても、唆したのは小生だし、どの道これから犯人を殺すから、お前が恨んでも恨まなくても、どっち道地獄に堕ちるよ~イエイ!」みたいな表現に読み取れます。だけどその間の部分で色々あったのか「否、剣ではなくペンを取ろう」と方向転換している。
一方、「自分がもし恨まなくても、犯人は勝手に地獄に堕ちるだろう」という解釈も出来ますね。ただそうなると「否」の部分がちょっと意味が通りづらい。まあ「あいつ最低だから小生が復讐しなくてもどうせ地獄に堕ちるだろうな……いや、だったら結果は同じなんだし、剣じゃなくペンを取るか」みたいな諦観にも似た表現なのかもしれません。いずれにせよ、やり場のない怒りを何とか前向きに処理しようとする、とても救いの歌に聞こえます。
ちなみに第三の選択肢として「憾まない」と歌っている可能性もありますね。「憾む」は残念に想う、みたいな意味なので、「あの時、唆したりしなければ……」という後悔の念が「小生」に無かったとしても、自分はどうせ地獄に堕ちる人間だよ、みたいな、もうどうしようもない自暴自棄っぽい表現にも見えます。
まあでも、「うらまない」の先は「地獄」という死生観に続くので、憎悪の意味を持つ「恨む」で良さそうな気はしますね。且つ、一番スマートに解釈するなら、やはり最初の案が筋が良さそうです。
未だ見ぬ娯楽を 驚くような芸術を
親愛なる誰かに捧ぐ物語を それこそが小生の復讐
めちゃくちゃ「フゥワッシュゥゥゥ」に聞こえる部分ですが、まあ「復讐」でしょう。
ここはペンを取った後の「かわみー」の決意表明であり、それこそが復讐であるという覚悟が歌われます。ので、やはり前段の歌詞は「やっぱ創作するしかねえ」っていう覚悟の方が通りが良い。
それ以外については語ることもないというか、まあそのままですね。たまにこういうストレートな歌詞ぶっ込んでくるのが良いとされています。
頭の中の宇宙では いつも何かが生まれ煌めいた
然れどその星の美しさは 他者には見えないと知った
伝えたい想い溢れども 短い舌がひとつしかない
上手く喋れず揶揄われて 僕はただ口を噤んだ
えー、ここ天才ポイントですね。
創作者のうち圧倒的、何と85%オーバーが同じことを考えていると思いますが、不思議なことに自分の頭の中の宇宙で煌めく星の美しさは他者には見えないんですねぇ。だからそれをなんとか伝えようとするけれど、喋るのが下手な「かわみー」少年は、口を噤んでしまうんですね。
あいつのような才能はないが 古い文学にのめり込んだ
悪筆と揶揄われても 走る手を止められなかった
僕は――いや、小生は 己の道を征くんだ
ここも天才ポイントです。同じ天才ポイントならまとめればいいんですが、あまりにも異なる天才ぶりなので分けて書かなければなりません。
「あいつ」とは妹さんを指すと考えられますが、ここは時系列がバラバラになっているんですよね。「小生の復讐」まで歌ったあとで、一旦少年期の「かわみー」に戻り、自分はこういう人間であるという説明ターンに入っています。曲構成的には「妹の説明」「妹に何か悪いことがあった」「自分は復讐を誓った」「ところで自分はこういう者です」という説明が入るので、幼少期あるいは少年期からの説明になっていると思われます。つまり、復讐のためにペンを取り始めたのではなく、昔から自分はこういう子どもでしたよ、妹とは違う、才能のない人間でしたよ、と言っているわけですね。
そんな人間ではあったものの、古い文学にのめり込み、悪筆だったけど、とにかく書くのが好きだった。自分に向いている! と思ったんでしょうね。気持ちはよくわかります。僕もそうです。
僕は――いや、小生は。
ここが天才ポイントなんですが、ここで覚悟を決めるんですね。プレパラートくらい繊細な表現なので、ここは丁寧に読み解きましょう。
多分、「かわみー」自身もわかっていることだとは思いますが、「小生」なんて一人称は時代遅れで変わり者すぎます。小さい頃から散々にからかわれてきたんだから、そういう「変わり者仕草」については人一倍敏感なはずです。変人なら変人らしく、常人の振る舞いをしようとするのが普通です。でも、少年はそういう常人の振る舞いも苦手だし、どうしても星々の煌めきを諦めることが出来ないんですね。書かないと生きていられない。自分の存在を確かめられないほど、文学を愛しているのです。だから僕にはもう文学しかない! と覚悟を決める。僕は、文学で星の煌めきをみんなに伝えるんだ! からかれても、笑われても、自分にはこれしかない。自分に出来ることはもう、これしかないと決めた。だから僕は、僕は――いや、小生は――と、覚悟の決まるシーンです。覚悟完了というか、アニメならOPが流れて覚醒するようなシーンです。それを淡々と言葉だけで表現している。本当に痺れます。泣きそうになりますね。実際何度か泣きましたが。どんだけからかわれても、変人扱いされても、どうだっていい、もう文学で生きるんだという、強い意志がここにあるのです。
別途、第二楽章でもちゃんと触れますが、「うみさん」は「何者かになりたかった」側の人なんですね。一方で、「かわみー」は結構早い段階で「自分が何者なのか」を自分で決めたタイプの人間です。背水の陣的な仕草ですが、それこそが「かわみー」の芯の強さであり、優しさの根源なのだと読み取ることが出来ます。
劇団に身を置き 戯曲を下ろした
客の瞳に映る その星の名前は昔から知ってた
然れど舞台に上がれば 無残にアガって
客の瞳が放つ その圧に飲まれて
真っ白になった
「《視線恐怖症》――それはかわみーにとって、黙示録であり、福音でもあった」
これはただのお気持ち表明なんですが、「その星の名前は昔から知ってた」の歌い方の優しさどうなってんですかね。気が狂いそうです。
さておき、それから色々あって劇団に身を置き、戯曲を書下ろすことになる「小生」。「客の瞳に映るその星の名前」というのはつまり、「小生」が幼い頃から伝えたかった星々の煌めきがきちんと形になって上演され、他者に見えるようになった、つまり受け入れられたという喜びの表現なのでしょうね。結構な時間を要したのでしょうけれど、小生はそれだけ立派に物語が書けるようになったのだ、という成長の表現ですね。
とは言え、劇団に身を置いているから戯曲作家をしていれば良いということもなさそうです。端役としても舞台に立つしかないこともあるのでしょう。というかこれはまんまRevo氏のような気もしますが――ともあれ、その期待に応えようとすればするほどアガってしまって、真っ白になってしまったと。
ここで女性の台詞が入りますが、ここが「黙示録」なのか「抑止力」なのか微妙なところですが――まあ言葉の対比的に「黙示録」でしょうね。黙示録というのは一般的には「最後の審判」、つまり最終宣告的な意味を持つかと思いますが、同時に「福音」でもあったと言っています。意味を解釈しようとすれば、「視線恐怖症であるという審判が下されたことは黙示録的であるが、それによって舞台に上がらなくて済むようになったのは福音とも言えた」とか「今までの自分の引っ込み思案さに名前がついてホッとした」とか、そんな感じでしょうか。
ちなみにここの台詞はどう考えても「うみさん」が読んでいると思うのですが、どうも僕の耳だと別人の台詞に聞こえてしょうがないんですよね。でも「かわみー」と呼ぶのは「うみさん」だし……いや、大穴狙いで「小生」の本名が実は「ことかわみ」という氏名構成であるという説もなくはないのか? そうなると、これは実は「うみさん」ではなく妹さんが台詞を読んでいる可能性も考えられるかもしれない――などと考えてみましたが、まあ、あまり深く考えないようにしましょうか。別に誰が喋っていても意味は通るのですし。
しかしまあ「うみさん」が読んでいるのだとすれば、当時から「かわみー」とかなり親しい間柄であったことが覗えます。同じ劇団だから病状報告くらいはするでしょうが、「黙示録であり福音でもあった」と表現するくらいには、「かわみー」の性格や境遇について、一定の理解を示していたのでしょう。それにしてもいい声ですここ。
二人きりの家族になっても 力強く走るその絵筆に
幾度勇気付けられたか 伝え切れてない
だから悲しみに追いつかれぬよう 真っ直ぐに空に手を伸ばし続ける
ただ星に届くように
話が長くなるので考察の前に書いておきますが、えー、俺はこれが聞きたかったと強く書き残しておきます。
僕は2014年に『ヴァニシング・スターライト』が発売された時、右脳と左脳を丁寧に焼かれ、静脈に歌詞を流し、旋律の血中濃度を高め、腎臓かなんかと引き換えに『ヴァニシング・スターライト』という臓器を宿したくらい『よだかの星』という曲に傾倒している人間なんですが(なのでサンホラとしてはにわかファンなんですが)、そんな僕にとってこのメロディラインを、似て非なる同じ声帯を持つ「かわみー」に歌われたら、もうどうしたらいいのか……いやまあ、言語化出来ないから音楽を聴き続けるしかないんですが、それにしても、うーん……ありがとう。感謝の意です。ありがとうじゃ伝えきれないからこうやって文章に起こしたり理解を深める行動を取らないと生きていられないんですが、まあそれにしたってまずは感謝ですね。ありがとう。ありがとう「かわみー」、ありがとう「ノエル」、そしてありがとうグラサン。
少し異なる地平線との関わりについて話すと、『よだかの星』と決定的に異なるのは、「ノエル」は「《命を燃やし(尽くし)た証》(ほし)」を「残/遺」そうとするのに対し、「かわみー」は「星に手を伸ばす」んですよね。自分だけの星の煌めきを知っている「かわみー」に対し、「ノエル」は「そういうのよくわかんねえけど俺自身が星になることだ!」と燃え続ける。非常に対照的でありながら、アプローチこそ違えど、他者に輝きを見せるという着地点が同じになる二人なんですね。どちらも同等に格好良いんですよ。まあでも、やはり元ある星の煌めきを他者に見せようとする「創作家」と、自分自身が星となる「パフォーマー」の違いはありそうですね。やっぱり「ノエル」は、ギターヒーローとかフロントマンとか、そういう類の分類だろうと感じます。上手く言えませんが、「ノエル」の作品を聞きたいとかそうじゃなくて、うーん、まあ平たく言えば存在しているだけでいいというか。存在そのものが作品みたいな格好良さなんでしょうね。だからじゃあ存在はどうなったんだよ!!! てめえはどこで寝てるわけ??? 安否は???
◇
さて、ここで考察に戻りますが、「二人きりの家族」になっているのは、「小生」と妹さんでしょう。
「ハロ朝」を全体的に通して読むと、パッと見では「小生」と「皐月ちゃん」のように思えます。しかしながら、「皐月ちゃん」は「二人きりの家族」になった以降、絵を描いていないことが後に語られます。つまり「小生」と妹さんのご両親も何らかの理由で亡くなっているのですね。
そんな辛い生活の中でも、妹さんの描く絵に感化されて勇気付けられているわけです。これは非常に個人的な感覚なんですが、文字書きという生き物――というか僕は、同じ文字書きよりも、絵を描かれる方に勇気付けられます。劣等感とかがないからなんでしょうね。どれだけ素晴らしい作品を見たとしても、手放しで評価出来るというか、尊敬とか憧憬とか色々あって、そんな創作者が頑張っている姿を見ると、嬉しく思うのです。だから「小生」は、自分とは違うステージにいる妹さんの創作に、勇気付けられると共に、発破を掛けられていたのでしょう。
で、そんな中で急に来る「だから」なんですが、「伝え切れていない……だから」と掛かる風に読んでみると、「小生」はこの勇気をくれた妹さんに恩返しをしようとしているわけですが、そうなってくると今度は「悲しみに追いつかれぬよう」がよくわからなくなります。両親がなくなった悲しみに対してなのか? とも読み取れますが、この部分の主体は妹さんなので、両親の死が悲しみであるのなら、妹さんも同じく悲しみに追いつかれそうになっているはずなわけですね。優しい「小生」が、自分だけ悲しみから逃げようとする文章を書くとは思えません。
そう考えると、ここは「二人きりの家族になっても」という言葉で時系列を表現しているわけではなく、両親を失い、「皐月ちゃん」が生まれ、妹さんが亡くなった後の、ペンを取って復讐をすると誓った時系列のように読み取れます。妹さんにどれだけ勇気付けられたか伝え切れていない。もう伝えることも出来ない。そんな様々な悲しみに追いつかれぬように、復讐のために真っ直ぐに空に手を伸ばし続け、最高の物語を書こうとする「小生」の意思表明に取れます。ここで「悲しみ」を妹さんの死と解釈するのは、次の歌詞に掛かってきます。もっともここでは「小生」による「台詞」があるのですが、ほぼ聞き取れません。一応載せておくとこんな雰囲気でしょうか。
医師曰く夜驚症 意思とは無関係な叫び
呼びかけに返事はなく 翌朝に記憶は無く
然したる治療法もなく 軈て治まると云はれ
過ぎ去るのをただ待つのみ 夜半の嵐
まあここはメインどころじゃないのでちゃんと聞き取れなくてもいいかなとは思うんですが、「夜驚症」の対象は「皐月ちゃん」ですね。寝ている間に大騒ぎをする症状で、意識は寝ているので周囲の呼びかけには気付かない。それが夜半の嵐だと表現していそうに聞こえますが――まあその辺は製品版(?)で歌詞があることを祈るばかりです。まあ聞こえなくても支障はないんですが。ちなみに「夜半の嵐」は中原中也の詩にもあり、冒頭には中原の長男が病床で辛い想いをしているとも取れる描写があります。超雑に意訳すると「なーんかなーんも上手く行かないし夜半の嵐まで吹いてきて、ああ、俺辛えよ」みたいな感じなんですね。文学青年である「小生」が引用している感じがあります。
皐月は度々夜更けに 突然泣き叫び
為す術も無く震える手を伸ばし 抱きしめた
背中に響いた壁ドン からの隣人の怒声に
住み慣れたボロアパートを 追い出され何処へ行く
どうしても「背中にビンタ壁ドン」にしか聞こえないのですが、意味を解釈しようとするとこうでしょうか。でも隣人側に背中を付けて皐月ちゃんを抱きしめるとも考えにくいので、もっと別の言葉かもしれません。が、ここは別に解釈に幅が出るとも思えないのでいいとしましょう。「背中で聞いた」でもいいかもしれませんね。皐月ちゃんをなんとかこう遠ざけようと背中側で壁ドンがあったよ、みたいな。
とにかく前項で説明があった皐月ちゃんの夜驚症についての描写ですね。苦情があって住み慣れたボロアパートを追い出されることになり、さて途方に暮れると。
途方に暮れていた子羊を 救った眼鏡の女神は
実家の旅館の離れでいいなら 口利きしてあげると笑った
ここ、曲を聴いていた時は同じ劇団にいたからそこで口利きしてもらったのかと思っていたんですが、「ハロパ2024」の演出を見る限り、隣で大女将が聞き耳を立てて親指を立てるシーンがあったので、既に「うみさん」は松本に戻っている時期のようですね。まあ、そうでなければ小生がちょっと長居しすぎている感もあるので、ボロアパートを追い出されたのは最近のことかもしれません。
少し時系列を考えてみると、後の方の曲で「うみさん」と「小生」が「あれから4年になるのね……」みたいな会話をしているので、ハロウィンイベントのポスターを「皐月ちゃん」に描いてもらおうとする4年前にご両親は亡くなっていることになります。一方、ハロウィンパーティは2024年開催ですから、2019年か2020年頃には亡くなっていることになります。葬式なり何なりして、男親側の親戚がどういう反応をしたのかは不明ですが、とにかく「小生」が「皐月ちゃん」を引き取ることになりました。一方、「うみさん」はコロナ禍より前に帰省しているので、これは『あずさ55号』で触れますが、2020年の3月頃に戻っている計算になります。そうなると、やはり口利きしてもらう時点では「うみさん」は実家に帰っているわけですね。むしろ『あずさ55号』で「こっちもそれどころじゃ……」と言っているあたりは、ちょうど妹さんが亡くなり、「かわみー」と「皐月ちゃん」も大変な時期なのに、母親が危篤だから仕方ない帰るしかないんだ――という時期だったとも考えられます。
冷静に考えると勘当当然で都会に出てきたのですから、都会にいる間に口利き出来るはずもないですし、その方が自然ですね。そして逆に、「かわみー」と「皐月ちゃん」が大変だった時期に助けられなかった分、居候くらいで力になれるなら――と快諾したという考え方も美しく思えます。
かくも不思議な人の縁 時に友の手を借りながらも
小生は小生の やるべきことをやるだけ
ここは別に大したことを言っているわけではないんですが、「うみさん」のことを「友」と表現しているのがいいですね。どうでもいいことに触れておくと、「かくも不思議な人の縁」の歌い方とリズムが好きで、全然明るいことを歌っているわけじゃないのにノリノリになってしまうんですよねここ。
儘…… 失うことを恐れて 手にすることから逃げても
唯…… 大切なものに気付けば その手の中にある
嗚呼 侭ならないのが人生だ 人にはそれぞれ地獄がある
笑わせたい顔が浮かぶなら 辿れ蜘蛛の糸
そして物語を
ここは最後だけあってかなり良い歌詞なのできちんと言及したいのですが、「小生」はずっと失うことから恐れて手にすることから逃げているような人生だったようです。これまで、失い続けてきた人生ですからね。だから手にすることから逃げようと、自覚的にはそうしていたのでしょう。しかし、「大切なもの」があることに気付いた瞬間、それらは手に入れたつもりはないのに、いつの間にか手の中にあった、という、ちょっとぼんやりしているようで、しかしとても美しい表現ですね。手に入れたつもりはないのに、いつの間にか大切なものはその手の中にある。青い鳥というか、うーん、もちろん「皐月ちゃん」のことも、様々な「人の縁」もどうでもいいと思っていたわけではないんでしょうけれども、ここは逆説的に「知らぬうちに手にしていたものは、いつの間にか大切になっていた」という気付きの文脈なのですね。
侭ならない人生を肯定し、地獄の定義は人それぞれであると認めているのは、『物語』にもあった「寂しさに同じ名前許すのなら」と似たような話ですね。みんなそれぞれ抱えている地獄は違うわけだけれど、その中にある希望や物語を辿ろうという、希望めいた歌詞で終わっています。ここで蜘蛛の糸を辿ろうとする辺りは、古典文学に傾倒した小生らしい言葉選びですね。ペンを選んで復讐を誓った小生は、最後まで文学青年らしい表現で歌を締めるわけです。痺れますね。
◇
うーん……本当は歌詞を全部読む予定はなかったのですが、言及しようとするとどうしても長くなるし全部拾わざるを得ませんね。まあ裏で聞こえている台詞までは言及していないのですが――それでも文字量が多いな。
こうしてひとつひとつ振り返ってみると、なんとなく読み違えていたな、とか、聞き間違えていたな、と思うところが多くあります。まあ極論、こんなのは歌詞カードが出てから考えれば良い話でもあるのですが、逆に言えば無限の解釈が可能なのは正解が出るまでのうちなので、この時期のあれやこれやを楽しみつつ、外れたなら外れたで、自分独自の物語を作れたと喜ぶのが良いのかもしれません。
ともあれそんな感じで、各章のタイトル、及び『第一楽章』について触れてみました。『第二楽章』と『第三楽章』に触れて、その後で『総括』的な文章を書いたら、『ハロウィンと朝の物語』についての考察は一度完了するかと思います。
それにしてもまた膨大な文章になってしまったので、個人的にどれほどどハマりしているんだという感じもありますが、このように他者が生んだ星の煌めきを浴びて、それを媒介として自分の中にある煌めきを混ぜ込める活動というのも、たまには悪くないと感じました。
ハロパでサンホラに狂った話と合計すると、第二楽章、第三楽章も合わせて都合10万文字くらい文章を書く計算になりますが――まあ、僕も急性サンホラ中毒になった際に古のローランたちによる処方箋でなんとか一命を取り留めたので、いずれこの文章が一助になれば幸いと思います。
それではまた第二楽章でお目にかかりましょう。