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『ハロウィンと朝の物語』について、第二楽章
超長いので暇な人だけお読みください。
※35,000文字くらいあります。
◇
最近サンホラにハマったものです。
経緯については以下をご参照ください。
※上記文章、大変たくさんの方にお読みいただいているようで、心からの感謝を申し上げます。にわかに毛が生えた程度の人間ですので、大きな誤解や、知識不足による不完全な考察、あるいは大いなる解釈違いなどについては「まーた初心者の雑魚が適当言ってるぜ」とでも思いながら適宜見なかったことにしていただけますと幸いです。
※あと引用などので感想の感想など頂いたものは拝見させていただいております。にわかにも優しい界隈、あったかいね……。
◇
また、『ハロウィンと朝の物語』の第一楽章についてぐだぐだ喋っている文章についてはこちらをご参照ください。
今回はサンホラ的解釈以外に、地元の人間としてのどうでもいい注釈が多い気がするので、「あ、ここ興味ねえな」と思う部分がありましたら、いい感じに読み飛ばしてください。というかどちらかと言えば「ここの歌詞~」とかで取捨選択形式で読み進めていただくのが良いかもしれません。相変わらず大変に長くなってしまっておりますので「2日間の浅間温泉旅行からまだ抜け出せねえし、延泊するか……」と帰宅を諦めた皆さんの一助になれましたら幸いです。
『あずさ55号』
まずは前提として、「あずさ55号」という乗り物について軽く触れておく必要があります。僕自身鉄オタ気質なわけでもないのでそこまで詳しい情報ではないのですが――まあ、あんまり物語の本意とは関係がない豆知識程度なので、興味のない方は飛ばしてくださいね。
さて、通常、都市部の方やそこそこ大きな地方都市に住んでいる人からすると、遠方に陸路で向かう場合には「新幹線」に乗って移動するというのが一般的な感覚かもしれません。しかしながら、本作の舞台である「浅間温泉」の最寄り駅となる「松本駅」には新幹線の受け入れがありません。無理に新幹線を利用して松本へ向かおうとすると「長野駅」とか「上田駅」で降りる必要があります(※当初「篠ノ井駅」と記載していましたが、ここに停車するのは「特急しなの」でした。訂正してお詫び致します)。しかしながら、長野県はなんか無駄に広いので、「長野駅」から「松本駅」まで向かおうとすると、電車で1時間くらい掛かります。マジで。双方共に、長野県の主要都市のはずなんですが、あまりに離れています。
なので、じゃあ「東京」から「松本」までどうやって行くのよ、という話なんですが、何故かわかりませんが「新宿駅」から直通するんですね。
これはさらに脇道に逸れる話ですが、「長野駅」は県庁所在地にあり、長野県の中では一番栄えているはずで、つまり他県との交通の要となる駅なはずなんですが――2024年11月現在、Suicaが未だに使えず、紙の切符でしか乗り降り出来ません。要は「東京のどっかからJR使って長野駅に来てタッチで改札を通過する」ということが出来ません(2025年以降を予定しているようです)。一方で、「松本駅」は改札でSuicaが使えます。同じ長野県なのに何故違いが出るのか? というところなんですが、どうも「松本駅」は「首都圏エリア」に含まれるようなんですね。で、この「首都圏エリア」というのは「中央本線が通っているかどうか」で判断されるそうです。
その「中央本線」を走る「特別急行列車」というのがすなわち、「あずさ」を指します。
都会の方はご存じかと思いますが、「東京駅」から「新宿駅」に抜けたり、「三鷹」だの「立川」だのに行くのに使う「中央線」の話ですね。あれがバカ早くてクソ快適になったみたいな乗り物が「中央本線特別急行列車(あずさ)」と呼ばれ、これが主に「新宿駅」から「松本駅」までを繋いでいます。大都会新宿から、何故か長野の片田舎まで一本で来られてしまう夢の乗り物、それが「特急あずさ」です。何が言いたいかと申しますと、「松本」って土地は、意外と都会から接続が良いんだということですね。
◇
ハイパーどうでもいい豆情報なのでここも読み飛ばしていただいていいのですが、この「あずさ」は1966年から運行を続け、特に目立った変更もなく(ダイヤ改正はあるものの)こんにちに至ります。が、号数は当然過去から増えたり減ったり、規定が変わったりしているので、ダイヤ改正の度に号数は変わります。現在の制度としては、号車番号が奇数のものが「下り(東京発)」となっており、偶数のものが「上り(東京行)」となっています。つまり、「あずさ55号」は奇数号なので「下り」列車となるわけですね。
しかして、僕個人の肌感覚では、実家に帰る最終の「あずさ」は、ちょっと前まで「33号」だか「35号」とかだと記憶していました。実際に調べてみると、2019年3月時点のダイヤ改正では「35号」が下りの最終になっています。そして、この世に「あずさ55号」が登場するのは、実に2020年3月14日のダイヤ改正以降のことです。4年前。結構、最近のことなんですね。
さて、コロナ禍の歴史を思い出すと、日本国内に限って言えば、その旋律が奏でられたのは「ダイヤモンド・プリンセス号」の「横浜港」への帰港でしょう。これが2020年2月3日のことです。そこからは日に日に感染者数が増えていく報道がなされ、2020年2月22日に累計感染者数が100人を超えました。
2020年3月14日の時点で日本国内の累計感染者数は768人とあり、ものすごい勢いで感染者が増えていた頃です。しかしながら完全なロックダウン状態だったかと言えば、そうでもありませんでした。実際、その近辺で実体験として「松本」に帰省した形跡はないかと過去の記録を調べてみると、3月13日に帰省している記録がありました。その頃に撮った写真などから思い起こしてみると、当時はまだ「コロナやべーらしいよ」「マスク品切れだって」「マスク手作りしてみました~」みたいな雰囲気で、「どうやら新型コロナウイルスってやつがヤバいらしい」という話はしつつも、どこか対岸の火事的なスタンスだったような気がします(普通に外食をしている記録もありますし)。なので、「絶対に都会から地方に来るな!」みたいな村八分感は、まだなかったように記憶しています。本格的になったのは、「緊急事態宣言」が行われた2020年4月7日でしょう。
さて、「うみさん」の故郷である「浅間温泉」は特に地元付き合いというか、土着的な付き合いが多い地域ですから、いくら女将の顔が利くとは言え、コロナが激化し、他県からの侵入を許さないという雰囲気の真っ最中に帰るというのは難しかったと考えられます。母親が危篤なんだとすればそれでも帰らざるを得ないわけですが、あまりいい顔はされなかったでしょう。というか、面会も出来なかった可能性があります。
となると、下り最終の「あずさ55号」がこの世に生まれ、且つ、村八分にされずに(病院も面会拒否をせず)帰省出来たタイミングというのは、ほぼ「3月14日」から「4月7日」までに絞られそうです。というかそもそも、この時点でも「みんなマスクしよう」と言ってマスクが品薄になっていた時期です。実際には、3月14日から1週間のどこかだったのではないかと予想されます。「うみさん」、結構ギリギリな綱渡りでなんとか松本に帰ったらしいことが覗えます。
加えて、帰ったはいいものの、仲居として旅館の手伝いをしたり、恐らく女将は「信州大学附属病院」に入院していたものと考えられますから、浅間温泉から信州大学まで毎日車を出して顔を出したり、洗濯物を持って帰ったりしつつ、病院内でも日々増える感染者に怯え、東京(あるいは都心)で借りてた部屋どうすんのよ……と思いながら過ごしていたのであろうことが想像に難くありません。
とは言え、そんな地獄の日々を共に過ごしたからこそ、あるいは昔から温泉旅館の娘として地域付き合いをしてきた地盤があったからこそ、誰に煙たがられることもなく「うみさん」は浅間温泉のみんなに再び歓迎されたのだろうと考えられます。
そんなわけで、上記したようなギリギリ綱渡りでなんとか松本に帰省した「うみさん」の胸中を察しつつ、歌詞について考えて行きましょう。
「え? ちょっと待ってよゲンさん、
あの鬼ババアが? 嘘でしょ? 殺したって死なな……あ、えっ、
今、こっちもそれどころじゃ…………あぁ、もうわかったわよ。
帰る、帰るから、帰りますぅ!」
冒頭、「うみさん」と「ゲンさん」が通話しているシーンですね。
この会話から、大女将(この時点では女将)がいかに凜とした人間であるかが覗えるのと、「うみさん」的にも帰るのはちょっと抵抗がある、という感じがありますね。
時期感を考えると、後に出てくる『あの日の決断が奔る道』で「もう4年になるのね」と、「皐月ちゃん」のご両親が亡くなったと思しき時期についての言及があります。ポスターの打診をかなり早めに進めていたとしても、2023年から2024年の会話ではないかと推察されますので、ご両親は2019年~2020年のどこかで亡くなっていると考えられます。ここも色々考えられますが、日本が舞台の物語と思われますので、割愛します。言いたいことは、この母危篤のタイミングが「亡くなってすぐ」だったとしたら、「うみさん」の「こっちもそれどころじゃ……」が意味を持ってくるな、という話です。後の方でも考察しますが、「かわみー」と「うみさん」はそれなりに親しい間柄だったと想像されますので、色々と大変な時期が重なってしまって、でも実の母親が危篤だと言うのだから帰らざるを得ず、そのままコロナ禍に突入して劇団に戻ることも出来なくなり――という、結構悲惨な状況だったのではないかと考えてしまいますね。まあここは都合よく深読みしすぎですが。
しかし、後続の歌詞で「勘当同然」で都会に出てきた身でありながら、ゲンさんからすぐに連絡が来るあたり、連絡先などは一応教え合っていたのでしょうかね。あるいはこの当時は劇団にいた頃でしょうから、劇団に繋げてもらったのかもしれませんが。または単に「ゲンさん」と仲が良いのか。
まあなんか冒頭の通話だけで色々考察していますが、うーん、僕は第二楽章がすごく好きなのと、「うみさん」がめちゃくちゃ好きなので考えずにはいられない、みたいな感じなのです。「うみさん」、声が綺麗なのはもちろんなんですが、なんというか、言葉の選び方ひとつとっても、「帰りますぅ!」の言い方にしてみても、しっかり者な雰囲気がありながらちょっと茶目っ気のある女性という雰囲気があり、すごく可愛らしい印象があります。気立てがいいというか、華があるというか。演劇の道に進むくらいですから(左先生のイラストを見る限り当たり前のように美人ではありますがこれは参考にしないとして)旅館の関係者には蝶よ花よと可愛がられて育ち、自分にある程度自信のあるタイプの女性なのでしょう。しかしながら、唯一母には厳しく育てられていた上に、自信はあるが、そんな自分でも到底叶わないと思わされる相手が母である――とか、そんな雰囲気が言葉の端々から想像出来る、とても良い人物像をしています。
飛び込んだ最終のあずさ 間に合わなけりゃバスタもあるさ
人影も疎らな車内 当てもなく彷徨い歩く
先頭車両の亡者よ 赤い電灯が嗤う
どれほど急いでも 到着時刻は同じ
間に合わなけりゃバスタもあるさ、については皆さん割とご存じな気もしますが、軽く触れておきますか。「新宿駅」の南口の対面にある巨大なバスターミナルこと「バスタ新宿」のことですね。松本には「アルピコグループ」という巨大なグループ会社があり、バスの運営は大体そこが担っていますが、ここがバスタ新宿を出る最終が2024年現在では「22:25」となっています。「あずさ」の最終は「21:00」に新宿発なので、なんと間に合わなけりゃ1時間25分も余裕を持って高速バスに乗って帰れるってわけですね。新宿の一蘭で1時間並んでラーメン食ってもギリ間に合います。
さて、「あずさ」は全席指定の特急列車なので、基本的に運賃だけでは乗車出来ず、指定席特急券、または座席未指定券を購入しなければなりません。が、「うみさん」が当てもなく彷徨い歩いているところを見ると、本当に「特急券」を購入する余裕もなく、Suicaでとりあえず改札を抜け、ダッシュで「あずさ55号」に乗って、とりあえず居ても立ってもいられずに車内を歩き回り、なんとなく気が急いて先頭車両まで来てしまった感じが描写されています。
歌詞内にある「先頭車両の亡者よ」ですが、これは「ハロパ2024」の演出の感じも手伝って、空席っぽい意味合いかな、と思われます。さらに「あずさ」の座席上部には全席にランプがあり、これは「赤は空席」「黄は次の駅で誰か座る」「緑は予約済」みたいな意味合いがありますので、赤い電灯が嗤っているということは、空席を意味していそうですね。
これを次の歌詞と併せて読むと、「急いでも到着時間変わんないし、とりま赤いランプの席座ればw」みたいな、嘲笑的な歌詞に読めないこともないですね。
飛び出した郷里を浮かべ 溢れる懺悔 零れる雫
流れゆく深夜の車窓 意味もなく唯見つめてる
トンネル映す闇を 青い影が嗤う
どれほど嘆いても 時は戻らない
女将とは喧嘩別れで飛び出した、という感じが思い起こされる歌詞ですね。全体的に後悔の念が強く、1行目と4行目は完全に後悔、2行目と3行目は後悔しても今は何も出来ず、ただ茫然自失といった雰囲気があります。
車窓、と言っているくらいなので、列車同士の結合部で外を見ているのではなく、ネットで購入したか、見回りの車掌さんからその場で指定席券を購入し、どこかしらの席に座ったのでしょう。ちなみに、車掌さんの見回り時に「赤いランプ」の席に勝手に座っていると注意されます。
とりあえず何も出来ずに先頭車両の席でぼーっと車窓を眺めているわけですが、歌詞の中では、トンネルに入る度に青い影に嗤われているような描写がなされています。「うみさん」で「青」と言ったら眼鏡フレームがすぐに思い起こされますので、車窓が鏡のようになり、自分自身を映しているような情景が思い浮かびます。
ところで、サンホラにおいて「青」っつーのは結構大事な意味を持つ色だったと思うのですが、無理矢理に解釈するとここは「死にかけている母」への対比として「生きてる自分」くらいな意味合いですかね。まあこの辺は無理に解釈する必要はないんですが、なんでここに引っかかるかというと、個人的にはひとつ前の歌詞にあった「赤い電灯」の言葉選びが嫌らしいからですね。わざわざ空席表示について言及する必要もないよな、と不思議に思っていたんですが……先日『絵馬に願ひを!』を見まくっていたら、不自然なくらい「赤」という色が目立ちました。というか「青」と「紫」と「赤」と「黄(金?)」の四色が、嫌って言うほど出てきます。鳥居もそのカラーリングですし。サンホラ文脈としての「青=生(せい)」と「紫=死(し)」のルールに則って読み取ると、「赤=責(せき)」なのかなと個人的には考えているのですが、「責」とはつまり「つとめ」であり、自身の行いや、選択、などに掛かってくるように思われます。となると、「赤い電灯」は「うみさん」の若さ溢れる選択への後悔、「青い影」は死(紫)にかけている母親と生(青)きている自分という表現なのかもしれません。まあ深読みしすぎと言えばそれまでなんですが、ここまで意識的に「色」が歌われているので、多少はそんな要素もあるんじゃないかと思われます。
記憶の中の母は いつだって女将だった
絶えず誰かの笑顔のために 動き続ける背中が 本当に嫌いだった
思えば学校行事だって一度も 参加したことなんてないくせに
お日様より早起きしてまで おむすび握る背中が 本当は好きだった
知人――というほどでもないですが、浅間温泉の旅館の女将と関わる機会が過去にありましたが、まーとにかく旅館の女将なんかやってる人ってのはパワフルな人が多いです。僕の知っている女将、過去に僕が塾っぽいところで働いていた際に旅館の子を教えていたんですが、その女将は普通に学校行事も参加するわ塾の送り迎えはするわ地域の催事に顔出すわで、マジでどうやって生活してんだ、というくらいパワフルな人でした。もちろん温泉街の閑散期とかもあったんでしょうけれども、なんか常に動き回っている印象が強く残っています。
逆に言えば、それだけの時間も作れないくらい「うみさん」の実家の旅館は繁盛しているということにも繋がります。浅間温泉の旅館と言っても(こう言っちゃなんですが)ピンキリなので、離れがあって、(ジャパネスクのMVを見る限り)相当高台にある雰囲気なので、結構な老舗旅館なのでしょう。基本的に「女将」と一口に言っても、身綺麗で若々しいけれど中身はカカア感のある親しみやすい女将とか、地域の男衆が揃って一目置く女帝のような女将とか色々なパターンがあります。恐らく「うみさん」のお母さんは後者の雰囲気なのでしょうね。決して無愛想なわけではないけれど、不用意に接することも出来ないような――まあ、女帝ですね、うん。
幼き日 高熱に魘されて 朧気な夢の狭間
白い手が 冷たくて 心地良かった
恐らく一睡も していなかった冬の朝
凜とした母の背筋 見つめては思った
「この女将を継ぐなんて偉業、私には無理だ……」
ここの表現は非常にいいですよね。ここ好きポイントです。
別にお母さんじゃなくてもいいんですが、高熱に魘されている時の誰かの手は「心地良い」以外の何物でもないんですよね。嬉しいでも、助かるでもなく、心地良いのです。寝付くか寝付かないか、熱でそれどころじゃないか、くらいの不安定な時に、お母さんが付きっきりで一晩中看病してくれて、そのまま女将としての仕事に向かう――そんな背中を見て、こりゃ無理だわ、と思うわけですね。松本の冬の朝は信じられないくらい寒いので、そんな状況で着物をビシッと着て女将として振る舞う姿を見たら、誰だってそう思うでしょう。僕もそう思います。まず顔を洗う気力も出ませんから、朝っぱらから着付けて髪整えて背筋伸ばされたら、誰だって尊敬の念を抱くはずですし、私にゃ無理だと思います。
やがて
勘当同然 逃げ込んだ都会は
感動呆然 めくるめく世界で
何者かになりたかった 私は役者の沼に
沈むように 溺れていった――
どういういざこざがあったのかは不明ですが、「うみさん」は女将になるのは無理と諦め、大人になるまでは浅間温泉で暮らし、そこから都会に出るわけですが――ここは結構時間が飛びます。せっかくなので少し地元的な考察をしてみましょう。ここは長くなるので松本あるあるネタに興味のない方は次の歌詞までスクロールしてください。
まず、浅間温泉の付近には高校が2つあります。「松本美須々ヶ丘高等学校」という公立校と、「松本第一高校」という私立校です。偏差値とかそういうのを考えると、松本市は公立校に分があるのですが、旅館に漏れず、お店をやっている家庭が結構多いので、そういうのに特化した教育コースを目的とした場合は私立校に分があります。
さて、「うみさん」が旅館の娘であることを考えると、浅間温泉から「松本駅」の方へぐーっと下った先に「松商学園高等学校」という私立校があり、旅館なり商店なりの子は、ここに行くのがほとんどです。ここには商業科コースというものがあるので、将来経営とかの知識が必要なのでとりあえずここに入れる、みたいなのが雰囲気的に多いのです。加えて、大体そういう家の子はご両親も「松商学園高等学校」の出身であることが多いので、まあなんでしょう、地元で長く暮らすにはこの高校行っときゃ間違いないよ、みたいな空気があるんですね。大人になっても取引先とかと「へぇ、君松商出身なんだ? ○○先生ってまだいた?」みたいな会話が出来るので、地域性抜群という感じの学校ですね。
ですが、「うみさん」はどうやら少女時代から女将になることを諦めていた節があります。「私には無理だ……」と思ったのは、結構幼い頃に一晩中看病された時と読み取るのが自然ですから、かなり早い段階で女将は無理っぽいと決めているわけですね。
であれば実家のことは一旦切り離し、「うみさん」自身がどんなタイプの少女だったのかを考える必要があります。見目麗しい美人というのはジャケットの話なので(演者の灰野さんもお綺麗な方なので、これも参考にならないものとし)、生活環境とかその辺から考えます。見た目のことは一旦置いておきましょう。歌詞中に資料がないので。
さてそうなると、「うみさん」の人物像を考える上で筆頭に挙げられるのが、オタク気質――というか、サンホラ好きという側面があります。「うみさん」が学生の頃、まあ仮に「うみさん」が2024年現在、32歳くらいだと仮定しましょう。『Roman』の発売が2006年頃なので、後で高い金出して買った、とかでない限りは現行でハマっていたのでしょう。2024年に32歳となると、1992年生まれ。2006年には14歳くらい。まあそのくらいか……バイトをしてたと考えるとあと2歳くらいプラスですが、ゲンさんあたりにお金を借りたのかもしれないし、近所の知り合いに頼んで通販したのかもしれないし。まあそう、そのくらいのオタク気質である子が、さてじゃあどこの学校を選ぶか。2008年頃に浅間温泉近辺で自転車で通えそうな範囲では公立高校が4つ、私立高校が2つか3つなんですが――ここは松本市の不思議なところなんですが、何故かこの公立高校4つは全て私服校なんですね。松本市七不思議のひとつです。「私服でもいいよ」ではなくて、そもそも「制服がない」タイプの学校です。
雰囲気的に「服に金を掛けるくらいなら好きなミュージシャンの初回限定版を買うわい!」という雰囲気がある「うみさん」が公立校に通うだろうか……と考えると、やはり旅館の娘なので、周囲に流され何となく、「松商学園高等学校」の商業科コースへ進んで制服を着ていたイメージがあります。あるいは、元女子校である公立2校に行ったのかな……まあここまで来るとほぼ二次創作的な妄想になるのでやめておきますか。松商学園の制服着た「うみさん」描いてる人とかいないのかな……。
ともあれ(暫定松商学園で)高校生活を送るわけですが、「勘当同然」で都会に行った「うみさん」ですから、大学までは松本市内で暮らしていた――というか、実家暮らしだったような表現に思えるのですよね。もちろん、高校卒業後に旅館の手伝いをしていたという可能性もありますが、端っから女将は無理だと諦めていたのにポーズとは言え手伝いをするだろうかという疑問が生まれます。結果的には先行き不安定な役者の沼に沈むわけですが、「女将にはならない」と決めたのであれば、将来のために大学くらいは進んでいそうなものです。
さて、松本市内にある大学は「信州大学」と「松本大学」のふたつです(短大とキャンパスは割愛します)。「信州大学」は上記した、恐らくは大女将が搬送されたと思われる附属病院がある、医学系に強い大学です。調べたところ「準難関の国公立」らしいですね。一方の「松本大学」は、まあ地方にある普通の大学という感じです。浅間温泉から見ると立地的には結構遠いので、自転車通学は難しいでしょう。家から通うとなると「信州大学」一択です。ここの(割と入学しやすい)経済学部あたりに通って四年間過ごし、さて就職はどうするのか――みたいな話になって、いやいやあなたは旅館の娘なんですからそろそろ女将としての修行をつけますよみたいなやりとりがあり、私は女将にはなりません、という言い争いがあって、勘当同然に都会へ逃げ出す――というのが、まあ自然な流れかなと考えられます。
そう考えると、結構箱入り娘っぽい感じで学生時代まで松本で過ごしていたので、都会に出たらめくるめく世界で役者の沼に沈んで行ったというのも合点が行きますね。いやいや、普通に東京の大学に行ったんじゃない? という解釈も出来るのですが、それにしては「勘当同然」で行ったというのがなんともノイズになりますし、めくるめく世界を体感するのは逃げ出した後なので、ずっと松本に居たと考えるのがベターでしょう。そもそも、学費も家賃も払ってもらって「勘当同然」なんてことはないでしょうし、かと行って高卒で急に都会へ――というのは、現実的な面で結構厳しいものがあります。なのでやはり大学卒業後、都会でバイトなりをしながら役者として稽古に励んでいた、というのが落としどころでしょう。
なんでこんなに深く考察しているかっつーと、箱入り娘で早々に役者の沼に溺れる「うみさん」と、早くに両親を亡くして妹さんと二人で暮らしてきた「かわみー」というのは、結構対比的であり、今でこそ「うみさん」に助けてもらってる「かわみー」ですが、若い頃は逆に「うみさん」が助けられていたんじゃないのかなぁ、なんて思うのです。「かわみー」、面倒見良さそうですからね。
飛ぶように列車は走る 諏訪湖を越えて【岡谷】→【塩尻】
アルパインホワイト輝く車体 もう間もなく終点松本
アルパインホワイト、というのは「あずさ」の車体であるE353系に使われる、車体の大半を占める「南アルプスの雪色」を表現した色だそうです。ちなみに他には「ストリームブラック」「あずさバイオレット」「キャッスルグレー」が施されているらしいです。お城グレーって。松本城に頼りすぎだろ。
さて、通常の「あずさ」は大抵、新宿を出たあとは「立川」「八王子」で停車し、そのまま「甲府」まで向かい、そこから最小停車だと「小淵沢」「茅野」「上諏訪」「岡谷」「塩尻」「松本」と停車します。ですが、「あずさ55号」はそれらに加えて追加で7駅に停車します。まあとは言え20分くらいしか変わらないのですが、そのちょっとしたもたもたが帰省への苛立ちを募らせそうです。
諏訪湖を越えて、としているのは「上諏訪駅」「下諏訪駅」でしょう。ここから「岡谷駅」「塩尻駅」を超えると、もう間もなく終点松本となります。「塩尻駅」から「松本駅」までは10分程度なので、超個人的な見解としては「もうすぐ着くよ~今塩尻出た~」と家族に連絡したりするのがこの辺りです。実家が浅間温泉であることを考えると、車で20分くらいでしょうか。歌詞の雰囲気も加味すると、諏訪湖を越えた辺りでゲンさんに一報入れている可能性が高いですね。最終のあずさに飛び乗るくらいの時間に連絡が来たということは、大女将が倒れて旅館はてんてこまいでしょうし、とは言えお客さんは宿泊中だから板前のゲンさんは明日の仕込みもしなければなりません。まさか「うみさん」に電話した後、ずっと駅前のロータリーで待ってるわけにも行かないですから、その辺の連携は抜かりなさそうです。加えて、通過していく駅を認識しているあたり、「うみさん」も一睡もせずにずっと車窓を眺め続けていたのだろうという情景が読み取れます。
最後にどうでもいいんですが、ここの最初の「とっ とっ とっ とっ」がすげー好き。
「お嬢!」
老けた顔馴染みに 酷い顔で笑う
どれほど強がっても 涙は正直で
ここの表現もまた良いんですね。上記の年齢考察を当てはめると、「うみさん」は22歳くらいで松本を飛び出しているので、6年ぶりくらいの再会ということになります。ゲンさんの年齢は非常に曖昧なのですが、「板前やってアラウンド40」という言説を素直に受け取ると、「板前修業を始めてから大体40年くらい」と読み取れます。「アラウンド」は使い方にもよりますが(Around 15thとかもあるので)「ゲンさん」の性格も考えると「あんま覚えてねえぇけど40年くらい経つんじゃねえか?」くらいのニュアンスと思われます。つまり、『あずさ55号』のこの時点では「アラウンド30」くらいかと思います。「ゲンさん」は料理とか、仕事に関わること以外、特に自分自身のことにはあまり興味がなさそうな印象があります。
さて、「ゲンさん」が18歳とか19歳とかで板前修業を始めたと考えると、この時点で大体50歳くらいかと考えられます。女将と板長がそう年齢が離れてるとも思えないので、まあそんなもんでしょう。となると、古くは20代の頃から一緒に育ったゲンさんと6年も離れて暮らし、突然再会したら、急に老けたなぁ……と思うのも無理はないでしょう。毎日一緒にいると気付かないものですが、急に長期間離れると一気に加齢を感じるものです。
もちろん「アラウンド40」は「板前やってるアラフォーおじさん」という読み方も出来るのですが……まあ、それは次曲で考えましょう。
久しぶりに顔なじみに再会し、ふいに涙が零れる「うみさん」の描写。なんというか、役者としてもそれほど芽が出ず、バイトを続ける日々、コロナも迫ってきて公演とかどうすんの? 緊急事態宣言って本当に出るんかな? とか言っていた時期でしょうから、色々切羽詰まっていたのでしょうね。そんな中、顔は老けたが昔と変わらず自分の味方であるゲンさんと再会し、涙がふいに零れる。美しい情景ですね。
ちなみにですが、ここは可能性として「うみさんが実家の旅館に戻った後の一コマ」としても解釈可能ですけれども――「お嬢!」の入りがすごく早いのと、「松本」は車社会なので基本は家族に迎えに来てもらうのが一般的です。ですからやはり、「ゲンさん」と「うみさん」は、「松本駅」の「お城口」のエスカレーターを降りてすぐ、タクシー乗り場や送迎用の駐車場があるロータリーでこのやりとりをしていたのでしょう。大抵、車でお迎えをする際は、駅を降りて右手にある駐車場かロータリーに一時停止して待つというのが一般的ですので、「うみさん」は右側から「ゲンさん」に声を掛けられ、そちらに寄ってこの寸劇を行ったものと思われます。具体的にはエスカレーターを降りてすぐ、「タクシー乗り場」と「駐車場」の間くらいの場所と考えられます。皆さんも聖地巡礼する際には参考にしてみてください。
「ヘイ、お嬢…………んなこったろぉとハンケチ持って来やした。
ほら、使ってくだせぇ……」
「ゲンさん、ありがとう――って、はぁ?
これ、『Roman』の初回特典のヤツなんですけどぉ!」
「ヘイ! お嬢の部屋から持ってきやしたぁ……」
「信じられない! 保存用だったのに!
もう! 今探したらいくらすると思ってんのぉ!?」
「涙、ちょちょぎれンスキー!」
「……ゲンさん、引っ叩くわよ!」
ここ好きパート。
最初の「ヘイ、お嬢……」は何度聞いても「Bonsoir……Mademoiselle(ボンソワール、マドモワゼル)」と言っているようにしか聞こえないのですが、多分幻聴でしょう。「ハンケチ」と言っているのもまあ、なんだ、そういうアレでしょう。お前は一体どっちなんだ。黄昏のズヴォリンスキーか。
さて、「うみさん」がサンホラ好き、というか厳密に「ローラン」であると判断出来そうなのは歌詞として読むと実はここだけです。
メタ的な読み方をせずに素直に歌詞から情景を読むと、お嬢こと「うみさん」はゲンさんにもサンホラを布教していたことが覗えます。まあどう考えても中の人ネタではあるんでしょうけれども、しっかり歌詞として、文字としてだけ向き合うと、この「ゲンさん」という人は少女期の「うみさん」と非常に仲が良かったことが覗えます。その仲の良さから、ローラン少女は思ったのです。自分の好きなものを誰かにも共有したいが、母親は厳格な女将だし、なかなか折り合いが上手く行かない。でも、誰かにこの気持ちを共有したい! そうだ! ゲンさんに聞かせちゃお……くらいの軽い気持ちでCDを聞かせていたのかもしれません。『Moira』は2008年9月3日発売ですから、まだまだ全然松本に居る頃ですね。それでお調子者のゲンさんは、お嬢のためにズヴォリンスキーの真似を覚えたのかもしれません。本当、再三言うようですが、あくまで、中の人などいないという設定で読み込むのなら、です。
そして、今回女将さんが危篤となってお嬢が久しぶりに帰ってくるにあたり、勘当同然に家を飛び出してしまったお嬢が残していった、昔大好きだったサンホラグッズであるハンケチを「松本駅」まで持って行っているのかもしれません。「落ち込んでいるお嬢を少しでも喜ばせたい!」という「ゲンさん」なりの優しさと読み取れますね。まあ完全に裏目っているわけですが、そんなガサツさも「ゲンさん」の魅力かと思います。
ここからはしっかりとメタ読みですが、知識を付けた上で改めて『Halloween ジャパネスク’24』のMVを見返していますと、信じられねえ量のサンホラグッズがあることがわかります。恥ずかしながら「ハロパ2024」に行く準備段階として見ていた頃は「あ、わをんちゃんと関係者のぬいぐるみあるじゃん! かわいい!」くらいでしか見ていませんでした。が、よーく見なくても、壁(障子?)にはクソデカ絵馬があったり、茶箪笥の上には「絵馬コン」の写真集があるのがわかるんですよね。当然のことながらFull Editionもあるのでしょう。行きてぇー! 「浅間温泉・女将と盛り上がるサンホラ映像作品耐久プラン」とかないっすかね? いやここ離れだから泊まれないのか……2泊3日で20万円でどうっすか、大女将! きっと浅間が賑わいますよ! あと多分、何故かみんな板長のこと好きだし! ね!
……さておき。
なんでわざわざ僕が『絵馬に願ひを!』関連の商品にだけ言及しているかと言うと、これらは「かわみー」の妹さん、つまり「皐月ちゃん」のお母さん(彼女もローランと推察される)では手に入れることが出来ない代物なんですよね。少なくとも2020年時点では彼女は故人となっているはずです。となると、居候させてもらう際に「皐月ちゃん」が母の形見として持ってきたグッズというわけではなく、「うみさん」の私物であろうことが想像に難くありません。ということは「うみさん」はぬいを買うために「絵馬コン」に参加しているし、『絵馬に願ひを! Full Edition』の特装版を買っているし、ファンクラブにも入っていて「絵馬コン」の写真集を注文しているということになります。財力。財力と収納力。
ここから何が言いたいかというと、「うみさん」は常軌を逸したレベルのローランであり、その活動は実家を飛び出した後も綿々と続いていたということになります。多分「ハロパ2024」にも来ていたんでしょうね……いや来てたとかじゃなくて居たわ。パラドックス……? あれ「ハロパ2024」ってのはなんだ、サンホラのコンサートじゃなくて、浅間温泉で開かれたお祭りであって……いや、深く考えるのはやめましょうか。とにかく、敬虔なローランである「うみさん」は、大女将に直談判して休暇を調整し「絵馬コン」にも参加していたのでしょう。クソデカアイテムが箪笥とか絵馬とか、日本家屋に合うもんで良かったねぇ。余談ですが、茶箪笥は古くはインテリア的な機能を持って造られた家具ですので、オタグッズを飾る家具としては最適と言えます。和の推し魂ですね。
まあさておき、そんな風にして『あずさ55号』は終わるのですが、かなりシームレスに次曲へ繋がることになります。この勢いもいいんですよね。
『《光冠状感染症狂詩曲》』
まずはタイトルなんですが、そもそも「コロナ」というのはギリシャ語で「光冠」を意味するそうです。そこから取って、光冠状の感染症でコロナ、なのでしょう。この曲、YouTubeで公開されている『ハロウィンと朝の物語』において、唯一と言っていいほど和名と英名タイトルが異なります。英名は「Coronian Rhapsody」となっています。他の曲は単にアルファベット読みなんですが(『あずさ55号』は「Azusa 55」ですが)、この曲だけ非常にシンプルになっていますね。逆に言えば、その読みが正であると考えるということなので、このタイトルは漢字でありながら「ころにあんらぷそでぃ」と読むのが正しそうです。二重山括弧は大抵別の読み方を当てられる、という法則も染み付いてきたので、それで正しそうです。
「母は一命を取り留め、日常が戻った――かのように思われたが、
彼の旋律は、密かに東を目指していた」
背後の合いの手も好きなんですが(アーウッ!!)一旦割愛するとしまして。
ひとまず女将は一命を取り留め、日常が戻った――ということなので、割とすぐ退院出来たのかもしれませんね。とは言えサポートは必要でしょうから、「うみさん」はすぐに帰れる雰囲気でもなかったのでしょう。
彼の旋律が東を目指している下りは、『Märchen』の『宵闇の唄』でも歌われている部分のオマージュなのでしょう。もっとも、『宵闇の唄』の場合は「黒き死(ペスト)を遡るかのように、旋律は東を目指す」なので、実際に目指していたのは病原体ではありませんでした。「黒死病」は東から西(クリミア半島から地中海に向かい、そして欧州など)に向かっていたので、それを遡ると読むのが筋が良さそうです。まあ『宵闇の唄』を紐解く時間ではないので簡単に流しますが、ここで実際に東を目指していたのは『旋律』ですが、この歌詞の後にクラシックの名曲が流れるんですが、曲順に聴いてみると、音楽家の出生はそれぞれ(大体)東に移動しています。オーストリア、ドイツ、ポーランド、ロシア、ノルウェーと言った具合ですね。なので実際にこれは『旋律』が東を目指しています。ノルウェーはロシアより西にいますが、ざっくり感覚です。
となると、ここの歌詞で言う「センリツ」は「戦慄」と解釈した方が正しそうな気がします。過去作品のオマージュとして捉えるなら「旋律」の方が座りが良いでしょう。「パンデミックの開始」を「旋律が奏でられる」と表現するととてもオシャレですしね。あまりにも不謹慎ではありますが。
盛り上がる インバウンドの息の根
止めたのは 突然のパンデミック
ダメ! 不要不急の外出
ダメダメ! 三密は回避
ダメダメダメ! 一目瞭然
Remember Princess!
インバウンド、いわゆる外国からの旅行客のことですね。
それが、ロックダウンだの緊急事態宣言だので止まってしまい、浅間温泉は大打撃を食らいましたよ、という説明。それをこんなに短い文章で表現出来るのもすげーな、と歌詞を見ながら感動することしきりです。
不要不急の外出、三密は回避はいいとして、「一目瞭然 Remember Princess」がちょっと予備知識が必要だと思うので書いておきますと、まあ最初に日本にコロナウイルスが持ち込まれたと思われているのが、この記事の冒頭でも少し触れた「横浜港」に帰港した「ダイヤモンド・プリンセス号」なんですね。それ故に、「プリンセス号を思い出して!」と歌っている。でもただ思い出してだけだと意味が分からないので、ひとつ前の「一目瞭然」と合わせることで、「オイィィィ! 海外から人を入れるんじゃなよォォォ!」みたいな意味だと読み取れます。広義で言えば「余所者は入れるな」という閉鎖的な空気を表現しているのでしょう。不要不急の外出、三密の回避ときて、ロックダウン的要素がないので、そもそも動くんじゃねえよ、というのがキモの歌詞なのでしょうが――それにしても、こんなに美しい表現の仕方があるかよ、と思わずにはいられません。
今は光が見えずとも 闇の向こうに明日はある
私が今ここにいることには きっと意味がある
「母を助けるため、出戻った私は――若女将としての修行を始めていた」
『あずさ55号』で再三触れましたが、「うみさん」はマジのドンピシャのタイミングで帰省しているんですね。これ以外有り得ないというベストなタイミングで松本に戻り、そのまま身動きが取れなくなった。普通なら挫けてしまいそうなタイミングですが、それに対して「きっと意味がある」と前向きな姿勢を見せます。こういうところが「うみさん」の気立ての良さというか、素晴らしい女性像を際立たせていますね。前向きで、ひた向きで、悲観的でないというか。だからこそ、様々な人に好かれるのでしょう。
温泉街支える人たちは 昔馴染みの顔ばかり
ダメ! 今は無理でも
それでも! 3年後には
ダメ! いや、でも、希望持とうよ! 口説いて回る
ここは別に「温泉街はみんな顔見知りなんですよ~」と自慢しているわけではなくて、口説いている相手は昔馴染みばかりなのに、なかなか首を縦に振ってくれないよ、という説得の難しさを表現している部分ですね。
昔馴染み「ダメ!」
うみさん「今は無理でも……それでも! 3年後には!」
昔馴染み「ダメ!」
うみさん「いや、でも、希望持とうよ!」
って感じに読むと自然な雰囲気がありますね。そう、今は絶対に無理なんですよ。そもそも旅館も営業が出来ない時期がありましたしね。いろんなお店に対して国から手当が出て、営業しない代わりに多少の補助金の申請が出来た時期です。だから今人を集めても仕方ない。ただ、この闇をいつ抜けられるのかわからない時期でしたから、せめて3年後には、3年あればきっとコロナも明けるだろうし、その頃までには準備だって出来るはずだ、そこをターゲットにみんなで頑張ろうよ! という歌詞ですね。肌感覚的にも、3年あれば開催までこぎ着けられるという算段があったのかもしれません。「うみさん」は劇団出身ですから、イベントごとに関するノウハウはあったのでしょうね。
未来を語るお祭りを この街の灯は消えちゃいない
夜を照らせ 「浅間でハロウィン」 みんな負けるな!
ここ号泣ポイントです。
「未来を語るお祭りを」は、前段の「口説いて回る」に掛かっていると思われますので(本来であれば一行として読み込むべき部分でしょう)一旦読み飛ばすとして、「この街の灯は消えちゃいない」のところですね。これは本当、当時はそこら中でこんな感じでした。とにかくコロナが明けるまで店を守らなきゃ、とか、耐え忍んでこの灯を守ろう、という雰囲気がそこかしこにあった。個人的な話ですが、僕の現在の住処は飲み屋街付近にありまして、当時は軒並み店が閉まっていた時期がありました。それでも土日の日中とか、なんとか客を呼び込もうという活気がありましたね。まあ、もちろんそれでもダメで、コロナ禍では資本のあるチェーン店以外、ほとんどの店が潰れました。でも、なんか――手を取り合って頑張ろうとしている気概があったのですよね。逆説的ですけれど、みんなで死に向かう際には手を取り合う活気が生まれるという、不思議な時代でした。
さておき歌詞に戻りますと――これをメタ読みしないとなると「なんで浅間でハロウィンなんだよ!」という感じがします。いやもちろん「朝までハロウィン」のもじりなのは分かりますし、僕が絶対にギャグを許さないマンという話ではなくて、実は浅間温泉には「たいまつ祭り」という地元の祭りがあり、これは大体10月の1週目か2週目に行われるんですね。これもコロナ禍には中止になっていましたが、現在は復活しています。そんな、浅間温泉の一大イベントと近い時期に、なんでハロウィン……? とも思うのです。そもそもが「たいまつ祭り」で忙しいのに、それが終わった数週間後にハロウィンやるの? と。でもそれは逆に言えば「10月は毎週ドカンと盛り上げようぜ!」という感じだったのかもしれません。前半で「たいまつ祭り」をして、後半で「ハロウィン」という腹積もりだったのか。採算度外視、集客要素度外視で、とにかくみんなで未来を向くためのイベント企画だったのかもしれません。
結果的には11月開催になりましたし、2日間ともSOLD OUTになるほどの人気イベントとなりました。ぴあアリーナMM――もとい、浅間温泉は12,141人の収容人数を誇るそうなので、まあ少なくとも10,000人以上、2日間で20,000人もの集客に成功したことになります。とんでもねえ企画力ですね。宿泊料も20%OFFになっていましたから、旅館もとんでもねえ身銭を切って、未来のために頑張ってくれたのでしょう。
まあふざけた感想はさておき、「うみさん」の声で放たれるこの「みんな負けるな!」の台詞がね、いつも泣きそうになるです。我々は、何かに勝ちたいわけではないんですよ。そもそも誰かと戦ってるわけでもない。ただ生きているだけなのに、人は負けそうになるんですよね。そんな重圧に対して、「みんな負けるな!」と歌っている。これは希望の言葉であり、人間賛歌なのです。僕が敬愛して止まない「ノエル」が歌う「死んでもいい、生きてるなら燃えてやれ」と同じで、かなり突き放した理由のない励ましの言葉なんですけれど、なんていうかどうしようもなく弱っている時は、このくらい身勝手な応援の方が染みる時があるんですよね。この時の歌い方といい、声の張り方といい、「うみさん」は女将として人を纏め上げる魅力がある、とすごく思います。
「母の口添えもあり、オール浅間温泉でこの災禍を乗り越えよう!
その機運は着実に高まっていた。
だが、新規イベントの立ち上げは想像以上に困難で――
決めなければならないこと、手配しなければならないこと、
喫緊の課題は山積みだったが、
そのうちのひとつが、フードメニューの案件だった」
温泉街の中でも相当の発言権を持っていると思われる女将により、浅間温泉の組合連中も説き伏せ、浅間温泉だけで頑張ろう! という機運が高まったようです。しかし、イベント経験者である「うみさん」にしても新規イベントの立ち上げは困難を極め――流石に未来のためのイベントとは言え収支も気にしなければなりませんから、集客効果が狙え、利益率も高いフードメニューについては熟考せねばならんと頭を抱えている様子が見て取れます。
ちなみに補足的な蛇足ですが、「オール浅間温泉」と言いつつ、恐らくは関係者を含めると思うんですね。仕入れ先とか、酒屋とか。そうなってくるとほとんど松本中の商売をやっている人間が関係するくらい「浅間温泉」という土地は――なんだろう、神格化と言うと行き過ぎですが、やっぱちょっと独自な雰囲気を(他地方民からしたら)放っているので、「うみさん」的には「オール浅間温泉で!」と言いつつ、北は豊科、南は塩尻くらいまで関与していそうな気がします。まあそこまで行かなくとも、山辺ワイナリー辺りまでは関与しているだろうな――とか思うので、そういう部分を考えると「オール浅間温泉」はどの辺までか不明瞭なところがあります。ちなみにさらにどうでもいい補足ですが、「マルメロ」の特産は『あずさ55号』でも触れた「下諏訪」という土地なので、やはり市を跨いでのやりとりも必要になるでしょう。
別にケチつけたいわけではなく、食材とか酒とかを仕入れるとそのくらい広範囲に影響してしまうので、ここで言う「オール浅間温泉」というのは、実働部隊や土地利用――というか、いわゆる「松本市役所」に助成金をもらって行う祭りではなく、浅間温泉旅館共同組合の力でやり遂げよう! という気概なのだろうな読み取れるのかな、というところです。
全国3位の収穫量 カボチャもあるけど弱ェ
信州長野は林檎だろ 青森とかもいいけど
それならそうとマルメロはどうだい 知名度は劣るけど
市場のシェアは圧倒的 なんと85%オーバー
板前やってアラウンド40 男一匹料理馬鹿一代
武者修行でフレンチも囓った 血が騒ぐ
「Bonsoir」
ジャック・オー・ランタン 刳り抜いたマルメロ
ジャムにして ガレット風信州そばに添えて
「s'il vous plaît 召し上がれ!」
「ん~、très bien!」
えー、ここ好きポイント。
5千兆ポイントです。
スネイプ先生も浅間温泉に5千兆点と言っております。
※以下の「◇」以降は筆が乗って「Jimang」氏への感情が溢れたパートになっておりますので、「お前のお気持ち表明は望んでない」あるいは「お前の日記とか知らん」という方は、次なる「◇」までスクロールしてください。お手数をお掛け致します。
◇
話が長くなるので本編と関係ないながら先に触れておきますが、「ハロパ2024」の2日目ではここを歌っている「Jimang」氏が「それならそうと~」の部分をすっ飛ばして「市場のシェアは圧倒的~」と歌ってしまったため、次のバースでも「市場のシェアは圧倒的~」と続けて歌うことになりました。なので偶然にも、マルメロの市場シェアを170%オーバーさせていていました。これが……なんか、これがすごく良かったんですね。「ボーカリストが歌詞間違えてるのに、それの何がいいんだい!」と思う方もいるかもしれませんが、なんつーか……正史の歌詞、作り込まれた音源はCDを聞けば良いわけなので、偶発的に起こり得た「ライブならではの情景」というものがすごく嬉しかったんですね。特に、僕は「ハロパ2024」に行った時点ではそこまで多くのサンホラ曲の歌詞をきちんと聞き込んでいなかったので、「あ、今170%になった!」とわかるのがすごく嬉しかったというか――もちろん、あえて先達と呼称しますが、僕より長きに渡りサンホラを愛し、傾倒し、熱狂し、「Revo」氏が見た星の輝きを観測し続けて来た先達ローランに比べると、僕は全ての楽曲に対して、やっぱりにわかなんですね。些細な変化を繊細には感じ取れなかった。なんですけれど、うーん……それに対する憧憬というか、羨望というかがあったんですよ。悔しいわけでもなく、悲しいわけでもないんですが、「今、僕はこのコンサートを100%楽しめていないんだろうな」という一抹の寂しさだけがあった。めっちゃ楽しいのは事実として、それとは別に、「もっと楽しめたのかもな」という、自身への憐憫があったのですね。なんですが、「Jimang」氏が歌詞を飛ばしたところで、めちゃくちゃ口語的に言えば「あ! 俺も! 今! わかった! 170%! ウオオオォ!」と「わかる」のが、すごく嬉しかったんですね。その瞬間だけは、みんなと同じでいられた気がして。
いや、「Jimang」氏の名誉のために補足しておくと、氏の2日間における負担はにわかに毛が生えた程度の僕から見ても心配になるくらい、相当な重労働であったので、「逆にここの1ミスだけで済んだの? マジで?」と驚愕するほどでした。無論、上記した通り敬虔な先達ローランから見れば「いやいや、あそこもちょっとミスありましたよ~」みたいなのがあるのかもしれませんが、それも致命傷ではなかったというか(槍は折ってましたが、まあそれは置いておくとして)。知識の無い素人が見ても、舞台を台無しにするようなミスではなく、本当にどれだけ稽古したんだというくらいスムーズな歌唱や演技でした。なので、マルメロ部分は歌い慣れていない(新)曲なのだからトチるのは割と当然と言えて、だからこそそういう、なんだろう……ミスとかトチるとかいう言葉を使うから辛辣な雰囲気が出ちゃうんですけど、やわらかい言い方をすれば「ハプニング」でしょうか。古のローランたちが普段コンサートで享受している楽しみと、少しでも似たような楽しみ方が今日は出来たのかな? と思って、僕はすごく喜ばしかったんですね。なのでなんか――本来であれば演者のミスに触れるのは御法度なのかもしれませんけれども、僕はすごく嬉しかったし、それを後世に伝えたい。すごく良かったんですよ。ライブ感が。一期一会が。この瞬間に客席にいられたという大義が。
いや……すみません、書くタイミングがなさそうなのでもう少しだけ触れさせてください。これはもはや「お気持ち表明」やら「気狂い発狂伝」に近いかもしれないので、そういうのに興味のない方は次の「◇」までスクロールいただきたいのですが……「Jimang」氏は、僕が感性も含めてバリバリ若かった頃――本当、15年前とか、あるいは『黄昏の賢者』がこの世に出た辺りからですかね、そのくらいから、いわゆる「色物」的な存在として認知されていると、個人的には思っているんですね。それが『人生は入れ子人形』で決定的になって、『黒き女将の宿』とか、あるいはこれはコンサート限定ですが『硝子の棺で眠る姫君』の鏡役の演出とかからも、歌舞伎で言うところの「三枚目」的な立ち位置として捉えられているのだろうと、周囲の、僕と同じように「ちょっとだけサンホラ知ってる」人間は思っているだろうと、雰囲気を見て思っています。それが良い悪いとか、そう思う他者の評価に苦言を呈するつもりはないのですが――肌感覚的に、そういう立ち位置なのだろうと認識しています。
しかしながら、僕の中の「Jimang」氏というのは、昔からずっと「かっこいい」んですね。多分サンホラのボーカリストで初めて「この声の人はなんて言う人なんだ……?」と興味を持った人物なんです。「こんなに特徴的な声の人間がいるの!?」みたいな。それを認識したのは『Elysion』を聞いていた時期です。19年前とかそのくらい前ですね。当時は本当に「にわか」どころか「一見さん」レベルで、サンホラのことなんてなーんも知らなくて、ただ「いい『音』だなぁ」って思って聞いていたレベルなんですね。個人的にRPG系のBGMや、音ゲーとかにも造詣があったためか、サンホラの楽曲が肌に合って聞いていた時期です(相変わらず歌詞とかは興味を持っていなかった時期でもあります)。そんな中で――つまり、「物語」ではなく「音」として聞いていた時期に、「あれ、この声は誰だ? この人はなんて素敵な声をしているんだ……」と思って、初めてネット検索したんですね。で、まあ当時は「アビス(ABYSS)」という名前こそ知らなかった(興味がなかった)んですが、「ジャケットの仮面の男は、Jimangって人が演じてるんだー」と認識したんです。
これは失礼な言い方なのは重々承知しているんですが、氏の声帯というか、声質というのは、個人的にはもはや「楽器」に近いと思っているんですね。これは「Revo」氏にも同じことを感じているんですが、上手い下手とか、技術がどうとか、声量がどうとか関係なくて、その楽器でしか聞けない音というか。「Jimang」という楽器を所有しているのは氏本人だけなので、じゃあこれを再現しようとしたら声を録らせてもらうために金を積むしかないというか。本当、様々な煌めきを万華鏡のように調整出来る優れた声帯だと思っています。誤解を招かぬように補足すると、人はそれぞれ声紋を持つので全員「楽器」っちゃあ「楽器」なんですが、中でも特に特色があって上質、みたいな話です。
あのー……一回「◇」を挟んだので好きなことを書いていいと思って書いているので、本当に興味ない方は読み飛ばして欲しいんですが……楽器の世界には「ローズピアノ」という、ピアノの形をしているけれど内部構造は鉄琴に近い楽器がありまして、まあそれがすごく良い音を奏でる楽器で、「ローズの音はローズでしか出ない」みたいな不文律が(1960年くらいまでは)あったらしいんですね。今でこそフリーソフトで「ローズピアノ」を再現出来るレベルにまで至りましたが、まだDAWとか、それこそデジタル音源とかがない時代には「ローズピアノ」の音を出すには「ローズピアノ」を買うしかなくて、だから音楽趣味の人間は40万円とか出してクソでかい「ローズピアノ」を買って、それで宅録していたそうです(そうですって言うか、自分の父がまさにそのタイプです)。それと近しい感じで、「Jimangの声はJimangからしか出ない」んですよ。で、「Jimang」の声を使うためには、「Jimang」に歌ってもらうしかない。だからずっとなんだろう、いつか「生」で聴いてみたいという願いが、それは自分の生活を食い破ってまで発せられていたわけではないんですが、いつか機会があれば聴いてみたいなぁという、「機会があれば達成したいリスト」みたいなのに入っていたのです。
だからその、本当、苦言を呈したいわけでも、世の中に一石投じたいわけでもなく、むしろ正しく言えば僕自身も「Jimangのパートっておもしれー! ギャハハ!」つってシンバル叩く猿のオモチャみたいに笑う部分もあるんですが、それでもやっぱり、冷静に氏のパートを聞くと、「なんて素敵な声なんだろう」と思うんですね。
多分、僕と同じように『Elysion』あたりからサンホラに触れた古のローランの中には、「仮面の男」が発する「残念だったねぇ」とか「楽園パレードにようこそ」とかは、当然ながら「すごく格好良い男」として響いていたと思います。無論、それ以降の作品から触れた人の中にも、「仮面の男」の格好良さは「三枚目」的な氏とは別軸で、格好いいものとして理解されていることでしょう。いや、当然ながら、世間的な評価とか、僕自身の感想もあって、言葉を選ばずに言うならば「Jimang」氏はお茶目なおじさんで、キュートな「三枚目」なんですね。そこに全く異論はなく、うーん、なんて言えばいいか……とにかく「舞台に上がるだけで沸く」キャラクター性を持っていますよね。実際に僕も「ハロパ2024」で『黄昏の賢者』と『人生は入れ子人形』が演奏されている間は、右手が溶けてなくなるんじゃないかと思うくらい腕を振りました。今、この瞬間に腕を振らなければ、『黄昏の賢者』を聞き込んだあの少年を、『人生は入れ子人形』を聞き込んだあの青年を一生救えないんじゃないかと思って、不意に涙なんかも流しながら腕を振りました。俺は今、あの頃の俺たちは今、美しいと感じていた曲を生で聴いている。今日ここで終わってもいい、明日仕事が出来なくてもいい、筋の1本や2本切れてもいい――そう思いながら、必死に腕を振りました。まあ冷めた言い方をすれば腕を振ることしか出来なかったのですけれども、振らずにはいられなかったんですね。「あの時俺は確かにその場に居たのだ」と、「明日腕が筋肉痛になるなら、それはあの夜の証だ」と言わんばかりに、その証明をするように、腕を振ったのです。実際、僕の観測する範囲では、その2曲はやはり他の曲に比べ、それぞれが与えられた輝きが通常以上に脈動していたように思います。それくらい愛されていて、それくらい求められていたのだろうと。
何が言いたいんだ僕は……。
まあなんか、冷静ではない「Jimangが生で見られたぞー!」という気持ちをここに書き記したいだけなんですが……あれは2日目だったかな、「かわみー」に無茶振りされてサンホラのモノマネを振られた時に氏が言った「楽園パレードにようこそ」は、やっぱかっけーんですよ。どんだけおちゃらけた雰囲気を醸していても、三枚目を担当していても、舞台でどんな衣装に身を包んでいたとしても、やっぱ、かっけーんすよ。周波数的に、声質的に、どう聞いても胡散臭いはずなのに、あの声で言われるとやっぱかっけーんすよ。僕の中の乙女が声を失って気絶してこのまま死ぬんじゃないかと思いました。
いやすみません、じゃあこの話の着地点が何なのかと言うと――「Revo」氏にしてみてもそうですし、「Jimang」氏にしてみてもそうなのですけれども、あるいは「サンホラ」という楽団自体がそうなんですが、「格好良さとふざけ具合のバランス」がすごく丁度いいんですよ。我々は確かに、パッケージングされた格好良さを享受したい。然れど、それだけでは飽いてしまうから、程よい緩衝材も欲しているんですよね。これはエンタメの基本だと思いますけれども、格好良さだけでも、面白さだけでも退屈だから、その両方を適度なバランスで欲しい。それをある種体現しているのが「Jimang」氏であるんですよね。
普段はおちゃらけているおっさん(名誉のために補足しますがイケオジです)が、その通りおちゃらけ続けるんですが、決めるところは決めるし、一言発しただけで観客が息を飲むくらい格好良い必殺技を持っている。その存在感に、その特異性に、とにかく惚れ込んでしまった――惚れ直してしまったな、というのが、「ハロパ2024」、ひいては「ハロパ2024」2日目に僕が思ったことでした。
「Jimang」は格好良い。
ずっと格好良い。
今までの文章から、僕は「ノエル」にだけ傾倒しているような雰囲気がありますが、やっぱ最初に「かっけー」と思ったのは氏の声なので、うーん、これはこれ、別腹なんですね。
三枚目的な位置づけなのかもしれないけれど、ずっと格好良い。
だからこそこの「ゲンさん」パートは、面白さもあるけれど、安心感というか、安定感というか、お帰りというか――そういう、ありがとうの気持ちを持って聞ける、感謝のパートなんですね。
バチバチにキメた氏も格好良いし、ふにゃんふにゃんでおちゃらけた氏も愛している。
なんかそんな――だから歌詞が飛んだことを肯定するのか? みたいな話じゃないんですけれども、うーん、とにかくその「ハプニング」に出会えて嬉しかったな、生で「Jimang」を見られて良かったな、それを聞けたことは、あの時に歌詞が飛んだのを目撃したことは、俺が「Jimang」を生で見た証なんだ! みたいな喜びというか。「ハロパ2024」に両日参加して本当に良かった! ありがとうぴあアリーナMM! ありがとうRevo's Halloween Party '24! ありがとう浅間温泉!
……そんな、なんか。
そんな気持ちになりました。
いい加減、歌詞の言及に移りますか…………。
最後まで支離滅裂なお気持ちに付き合ってくださった方、ありがとうございました。
◇
さて、何事もなかったかのように。
カボチャって長野県において全国三位の収穫量なの?
地元民でありながら寡聞にして知りませんでしたが、どうやらそうらしいです。まあでも、確かにスーパーでカボチャが尽きることはなかったか――都会に出てからカボチャってマジで見ないので、本当にバカみたいに収穫していたのかもしれません。全国三位でありながら最初にカボチャを推すあたりは、一応ハロウィン意識していた感じの選択なのでしょう。
次に信州長野と言えば林檎なんですが、松本市生まれのくせに、やはり林檎って青森のイメージが強い感じがします。歌詞については「いいけど」なのか「いるけど」なのか判別としませんが、まあここは意味が通るのでどちらでもいいとしましょう。
それならそうと「マルメロ」なんですが、これはシェアは圧倒的かもしれませんが知名度は低いと思われます。そもそも「マルメロ」というのはほぼ食べるものではなく、酒にしたりジャムにするものです。「マルメロジャム」は一般的とは言えませんが、まあ――まあ食べないこともありません。「かりん」の方が知名度が高いとは思いますが、まあ「かりん」もジャムにしますよね。知らない? そうですか……。
ともあれ「マルメロ」は秋が旬の果物ですから、市場のシェア85%オーバーであれば地元のよしみで上手く都合が付けられそうですし。シェアを獲得していたとしても、需要があるかというと難しいですし、であれば日持ちするジャムにして何年か寝かしておいても良いでしょう。コロナ禍でかなりの量のマルメロが廃棄になるはずですから、それであれば砂糖漬けにして保存するのはかなり都合の良い作戦と言えます。
歌詞を追うと、一旦特産品からは離れ、登場人物にフォーカスを当てる下りになりますが……板前やってアラウンド40のゲンさん、ここは素直に読み取ると「板前やってる年数がアラウンド40」ですので、この時実年齢はアラフィフ、あるいはもう還暦近いのではないかと考えられます。一般的には結構な年齢ですが、地元で働き続けて板長やりながらこんだけ人生楽しんでいそうなアラフィフなら、まあこの活力も頷けるというものです。むしろ、アラフィフくらいじゃないと困る。これで実は「アラフォーの36歳」とかだったら、ちょっと老けすぎな感じもしますから、「ゲンさん」は結構歳がいっている設定の方が通りが良いでしょう。「お嬢」と呼びつつ、この物語には「うみさん」の父親の影が出てきませんので、たまに父親ポジションっぽいことを「うみさん」に対してしていた可能性もありますね。そういう妄想も捗らせると、やはり還暦近いくらいが丁度良いんじゃないかなぁと思います。
さて、歌詞中ではマルメロをジャック・オー・ランタンの形に刳り抜いてやろう、という作戦に落ち着いたようで、中身だけをジャムにしています。現実的には刳り抜いたあとのマルメロは日持ちせずに腐るので、実際にお祭りが開催される直近でランタンを作るのでしょうが、そこは一旦置いておきましょう。試作として作っただけでしょうし。
問題はこのあとの歌詞。ここは割と多くの方が「ジャムにしてやれ!」と聞いているようで、実際僕も最初はそう聞こえていたのですが、「信州そば」にジャムをつけて食うなどという極悪非――もとい、屋台での提供に適していないような真似はしないと思われます。
そうなりますと、ここの歌詞は「ジャムにして、ガレット風信州蕎麦に添えて、召し上がれ」という流れが自然に聞こえます。「ガレット」は、一般的にそば粉を用いて作る、クレープ状に焼いた生地を正方形に折りたたんで中に具材を詰めるようなものを指します。この「ガレット」の生地として「信州そば」を使い、具材としてジャムを詰める――要は「マルメロジャム入りのそばクレープ」みたいなものと考えられます。「信州そばに添える」だけだと、まるで通常のそばにジャムを添えているようですが、松本市生まれで、信州そばを飽きるほど食べてきたであろう「うみさん」が「トレヴォン」するほどの美味さは、ジャム入りそばでは引き出せないのではないかと考えられます。まあ僕は「ゆで太郎」であろうと蕎麦は美味しくいただくタイプですが、どうせ切り蕎麦を食べるなら「つゆ」で食べたい。というかそれ以外ではあんまり食べたくないと思ってしまいます。
加えて、「信州そば」と表現する場合、これは主に「そば粉」が信州産である必要があります。長野には「戸隠」「開田」「高遠」など、そばの産地は多くあります。ちなみに、そば粉を40%以上配合して長野県で打たれたものが「信州そば」と定義されるようです(これは初めて知りました)。要するにここで作られたものは、いわゆる切りそばとしての「信州そば」と言うよりは「そば粉を40%以上使ったガレットにマルメロジャムを添えたお菓子的なもの」という認識の方が正しいような気がします。実際、『ハロウィンと朝の物語』のジャケットにも「新名物 マルメロガレット」の記載がありますが、屋台でつけそばを売るのは難しいでしょうから、携帯食としての理解の方が正しいように思われます。
余談ですが、「ハロパ2024」の屋台をオペラグラスで観察していたら、マルメロガレットは800円の記載がありました。生ビール600円に対して、マルメロガレットは800円……いやまあ、新名物だし強気に行こうの気持ちはわかるのですが、どうだろう、買うかな……という気がしました。買うんかなぁ……酒のアテにはならなさそうですが、どうなんでしょう。山賊焼きでいいかなぁ……。
『あの日の決断が奔る道』
第二楽章はとにかく「どっから次の曲なんだ」というくらい展開が多く、サンホラにそこまで傾倒していなかった数週間前であれば確実にこの第二楽章は「1曲」としてカウントしていたと思いますが、知らぬうちに曲の変わり目が理解出来るようになっていました。自発的に調べたわけでも曲の分数を図ったわけでもないのに、なんとなく「あ、かわみーに交代したということは別の曲か」みたいな謎の判断基準を得るようになっておりました。慣れって怖いね。
さておき、「あの日」って何なんでしょう。「決断」をした「あの日」ってのは何でしょう。「奔る」ってのは「決断」に掛かっていそうですが、その「道」ってのはどこのことなんでしょう? 随所随所でタイトルのことを考えながら歌詞を読んで行きたい気持ち高めです。めちゃ好きな曲なので。
「『ハロウィンのお祭りをやろうと思うの』って、
最初に皐月ちゃんに話したときね、彼女ちょっと戸惑った顔してたの。
でも今はキッズアンバサダーとして、乙姫ちゃん、しょこらちゃんと
頑張ってくれてるじゃない? と、言うことで……んっ」
最初の台詞部分ですが、「ハロパ2024」を見た後で聞いてみると「ああ、ハロウィンはご両親との約束の夜だったのか……」みたいな、そういう気持ちが沸いてくる部分ですね。実に巧妙な違和感というか。最初こそ戸惑いを見せたけれども、仲良しトリオでアンバサダーを務めることになったおかげで前向きになれているんですよね。とは言え、心の奥底ではあの夜の約束が引っかかってるんでしょう。
「宣伝ポスターなんだけど……地元の子が描くのはどうかな? なんて、
妹さんの天才のDNA継いだ皐月ちゃんに、イラスト頼めないかな……」「うーん……すまん。話してなかったけれど、
あの日以来一枚もあの子は描いてない」
「あぁ……! ごめん、不用意な依頼、撤回させてもらうわね。
あの日からもう……四年になるのね」
ここ、かなり解釈の幅があり、なかなか難しい部分です。
時系列に沿って――時系列? まあなんだ、曲で公開された情報順に見ますと、「妹さんの天才のDNA」と言っていることから、「皐月ちゃん」は「妹さん」の子であり、「かわみー」の姪に当たりますと。なんですが、「皐月ちゃん」は絵を描くことをどうやらやめてしまっている。それを「うみさん」は知らない。そしてどうやら、「あの日」から「四年」になるらしい、と。
気になるのは、「うみさん」は最近「皐月ちゃん」が「絵を描く姿」を視認していないのに、今も「描いてる」または「絵を描くのが好きらしい」という認識でいることですね。流石に、蛙の子は蛙理論で、「親が絵上手いから子も上手いやろ」みたいな横暴な発言はしない人だと思います。実際、「描いてない」と言われてものすごく後悔した感じの声を出しているから、優しい性根の人なのでしょう。だからこそ、「うみさん」は「絵を描いている頃の皐月ちゃん」をどこかのタイミングで視認しているはずです。
だけど、四年前の「あの日」から一枚も描いていない。絵を描くのがそれほど好きじゃなかったのか、お母さんとの大切な思い出だから描きたくないのか――今のところ定かではないですが、少なくとも今はK-POPの振り真似をしたり、友達の恋バナを聞くので充実しているし、「かわみー」的にも、自然な流れに身を任せている段階であり、描いてはいなさそうだと。
実は描いているけど「かわみー」がそう嘘をついているという可能性ももちろんあります。嫌なことを思い出すとか、「夜驚症」の再発を恐れて、とか。色々ありますが――実はここの歌詞のメインは、どちらかと言えば大人ふたりの関係性にあると僕は考えます。
最初に聴いていた頃はなんとなく、「同じ劇団にいた同士」くらいの関係性で、どちらかと言えば「うみさん」は「妹さん」と方が仲良かったのかな――と思っていたのですが(これはローラン同士という関係性や、同性であるとか簡単な理由からです)、曲を何回も聴いたり考察したりしてみると、実際には「うみさん」と「かわみー」の方が関係性は親しそうに見えますよね。あまり軽率な考察はしたくないところなので慎重に見て行きたいところではありますが、少なくともこの部分、「皐月ちゃんにポスターの絵を描いて欲しいから保護者に許可を取る」というよりは「かわみー経由で皐月ちゃんに頼んでもらえないかな?」という感じがします。どういうことかと言うと、「かわみー」は「うみさん」にとって、突っ込んだ話も出来る関係性だということです。「皐月ちゃん」を「彼女」と評しているのもポイントですね。要は「皐月ちゃん」よりも「妹さん」よりも、「うみさん」にとっては「かわみー」が一番関係性が深いのだろうと思わせる歌詞になっています。
『小生の地獄』において、「かわみー」は「うみさん」のことを『友』と表現していますが、これは引っ込み思案でなかなか表に出られない文学青年からの一方的な認識とも解釈出来ます。しかし冷静になってみると、いくら「うみさん」が良い人だとしても、旅館の離れを貸し出す(=知人の人生を預かる)ことについて大きな覚悟もなく決断することはないでしょうし、実家に上げても大丈夫だろうという程度の関係性ではあることが推察されます。加えて「皐月ちゃん」に対する面識もある。「妹さん」の職業や、二人が劇団にいた頃の立ち位置が曖昧なところではありますが、「かわみー」が後続の曲で「幼少の砌より、地平線の英才教育」を受けている旨を発言していることから想像出来ます。つまり、「かわみー」と「うみさん」は劇団で知り合い、「妹さん」がサンホラ好きなのを知っている「かわみー」は、「うみさん」との共通点を見つけ出し、二人を引き合わせたのかもしれません。「かわみー」が(妹さんのためならまだしも自己的に)非生産的な活動をするような性格とも思えないので、うーん、「かわみー」は「うみさん」のことを割と憎からず思っているのではないか、というのが推察されるところですね。まあそもそも「うみ」と呼び捨てにしているので、「かわみー」の性格から考えても、これは「妹のひとりとして見ている」か「そういう過去があった」かどちらかな気もしますが。
また、『あずさ55号』でも触れましたが、「うみさん」は勘当同然で都会に出て来て、恐らくは松本で箱入り娘的に暮らしてきたでしょうから、都会にはそんなに知り合いは多くないものと思われます。「同郷だけど都会で就職した」友達とかはいるかもしれませんが、それが居たとして、新卒の友達に甘えることも難しい状況。「ゲンさん」あたりに保証人になってもらって家を借りるなどしてアルバイトを見つけて働きながら劇団で稽古をする日々。金銭的にも、精神的にも辛そうです。一方で、お金はないかもしれないが「住み慣れたアパート」で暮らす「かわみー」は、若いうちに両親を亡くして、不器用ながらも「妹さん」と共に生きてきました。人間性とか、社交性とか、そういうことを考えると「かわみー」は確かに社会不適合者なのかもしれませんが、それでも生き延びた男です。そう考えると――例えば「うみさん」の2024年時点の年齢を32歳とし、「皐月ちゃん」の年齢を10歳くらいと定義すると、実は「うみさん」が劇団に入った時には既に「皐月ちゃん」は生まれていて、「住み慣れたアパート」で暮らす「かわみー」は一人暮らしをしていたことが考えられます。妹が嫁いで(嫁入りなのかは分かりませんが)行って、自分の戯曲作家としての生活に注力すれば良くなった「かわみー」が、途方に暮れて困っている「うみさん」の一助になっていたとしても、不思議はありません。
……いやすみません、少し妄想が捗りましたが。
ともあれ、そういう「若い頃の絆」みたいなものが、この二人には存在していそうなんですよね。今はそれから10年くらい経って、「かわみー」は作詞家としてそこそこ仕事をしていそうですし、「うみさん」は女将となって旅館を取り仕切っている。貧相な時代に助け合ったからこその、「出来ることなら何でも言ってね」という関係性が、ここに確かに見えるんですよ。見えちゃったんだから仕方ない。原作に書いてないことは史実ではない? それは原作に書いてないだけです。確かにここにあるんです。
冗談はさておき、まあそういう「あの日の関係性が今もまだ続いている」感じの会話が、すごくいいんですね。
「どんな手を使ってでも、犯人はぶっ殺してやる!」
と、あの日あなたは言った
「それで――残された皐月ちゃんはどうなると思う?」
と、あの日私は言った
前段の続きになりますが、割とこう、「かわみー」の性格が読めないのは前提として、こんな肉薄した会話をする相手という時点で「うみさん」とは相当な仲良しであることが覗えます。そうじゃなきゃ、人を殺すなどという物騒なことを話さないでしょうし、残された「皐月ちゃん」のことにも言及はしないでしょう。大人になってからの人間関係なんてのは希薄なのが通常ですから、お互いの人生に干渉出来るくらいの関係性ではあったことが読み取れます。まあ考えてもみれば、方や両親を亡くした上に妹まで失い、唯一の肉親は姪のみという状況、方や実家を勘当同然で飛び出した役者志望の娘ですから、お互いに頼りやすかったのかもしれませんし、力になろうとする気持ちが働いたのかもしれませんね。むしろそう考えると、どちらかと言えば当時は「うみさん」が「かわみー」及び「妹さん」の家族に色々と助けてもらっていて、その恩返しとして今の生活がある、と考えるのが一番筋がいいかもしれません。人は助け合うべきであるという、人間賛歌的な部分が出ています。
誰か20歳前後の「かわみー」と「うみさん」の劇団時代の二次創作してねぇかなぁ。
変わらず 今もペンを取っている
最高のテーマソングを 望むだろう/頼むわよ
「無論だ」
最高の詩を書くのは 吝かではないが
ただ小生より相応しい者が 物語を紡ぐ
その心当たりがある
「ちなみに、曲にも心当たりがある」
ここで「変わらず今も」と言及されているのは、「うみさん」と「かわみー」の精神に肉薄した会話の末、「かわみー」はペンを取ったのだろうという部分ですね。これは、『小生の地獄』において、「人殺しより嘘つきの方が性に合っている」でペンを取った時期と同じでしょうから、かなりのターニングポイントと言えます。「かわみー」の人生は決定付けられたと言えるでしょう。すなわち、ここを「あの日の決断」と考えることも出来そうです。
しかしながら、歌詞の中では「小生より相応しい者」が物語りを紡ぐと言っています。これはどう考えても「皐月ちゃん」なんですが、何故そんなことをわざわざするのでしょうか。ここに一考の余地があります。
大好きだった(と想像される)絵を描くことをやめてしまった「皐月ちゃん」に、何故詩を書かせようとするのか。冷静に考えると意味が通らないので解釈の幅を広げますと、「かわみー」は創作による復讐を誓い、それによって今現在も人生を繋げています。同時に、「皐月ちゃん」とも過ごせている。もちろん犯人をぶっ殺したいという気持ちに変わりはないのでしょうが、それでもこの決断をしたことは間違いではなかったと、強く思っているのだと思います。であればこそ、「絵を描くこと=創作すること」をやめてしまった「皐月ちゃん」に、それとなく、同じ道を推奨しているんでしょうね。無論これは「復讐をすること」を勧めているわけではなく、どちらかと言えば「ペンを取る」という選択肢なんでしょう。
余談ですが、知人ローランや、SNSでのコメントなどで、「サンホラ文脈において『剣を取る』行為はほぼ『復讐に繋がる』描写である」という知恵をいただきました。ありがとうございます! まあこれ「かわみー」に当てはめると「ペンを取って復讐する」なので、「剣を取る」と表現された場合は「悲惨な最期を遂げる」くらいの意味合いなのかなと今のところは理解しています。
さて、物理的な犯行による復讐はきっとまた誰かを不幸にさせるだろうが、創作によって得られる人生は豊かであるということを「皐月ちゃん」に伝えたい。あるいは、「小生」は文学によって救われてきた過去がありますから、自分なりの方法で「皐月ちゃん」を救おうとしているのかもしれません。その切っ掛けが訪れた今――きっと「皐月ちゃん」なら最高の詩を書き上げてくれるだろうと考えたのでしょう。
ちなみに「曲にも心当たりがある」の部分ですが、「ハロパ2024」初日の公演最後に、石碑による選択で、作曲家に「Revo」か「栗木川翔大」の選択を迫る演出がありました。「栗木川翔大」と言えば、特に『絵馬に願ひを!』内で「革命先生」と作詞作曲コンビを組んでいる作曲家であり、どうやら「ノエル」の同級生らしいですね。ということはつまり、「栗木川翔大」は日本ではないどこか(ここでは便宜上、秋津皇国とします)の出身なわけですが――そうなってくると、果たして、「革命先生」はどこの人なのかという疑問が沸いてきます。『さぼるなSABOU!』や『桜と君の物語』は秋津皇国で披露されている曲なので、普通に考えると「革命先生」も秋津皇国にいそうですが、「革命先生=かわみー」説を採用すると筋が悪くなります。純粋に日本で暮らしていて、RevoP経由で詩を提供しているだけなのか、それとも単なるメタネタなのか――まあ深く考えても答えは出ないでしょうから一旦静観を決め込むしかありませんが、しかしながら、かなりキャッチーな曲調である『Halloween ジャパネスク'24』は、印象的には「栗木川翔大」の作曲であるとするのが順当な気もします。なので、心当たりがあったのは栗木川氏だと見るのが妥当でしょう。RevoPを通じて、地平線を越え、ハロネスクの作曲を依頼したのかもしれません。
「この頃はだいぶ、女将の顔になってきましたね」
「何よ急に……もう、やめてよ母さん」
「若い人にとって、娯楽の少ない田舎は退屈だったでしょう」
「はぁ? 何言ってんの?」
「別にいいのですよ。ただ、どこに居たってエンタメは出来ますからね」
「大女将……」
「うみ、女将に一番必要なのは何だと思う?」
若女将と大女将の会話パート。
浅間でハロウィンの開催に向けて奔走している娘に、労いの言葉を掛けているシーンですが、まず「やめてよ母さん」と言いながら、直後に「大女将……」と言い換えているのがとんでもエモ文脈ですね。
さて、ここで「うみさん」の役職について考えます。前提として、女将知識について簡単に記載しておきましょう。
『女将』―― 運営に携わり、接客もこなす旅館の女性責任者。
『若女将』―― 次期女将になるため修業中の立場。
『大女将』―― 一線を退き、責任者から離れた元女将。
これらは何らかの情報を元に書いた文章ではないのあまり真に受けないで欲しいのですが、まあふわっとこんな感じです。つまり女将とだけ書いた場合、一般的な会社で言えば社長とか専務とか常務とかそんな感じでしょう。大女将の場合、相談役とか会長とか、まあ実際の運営には携わらないけど口は出す、みたいなポジション。若女将は部長とか次長とかそんな感じでしょうか。まあいずれにせよ、旅館の新規立ち上げ以外では「若女将」→「女将」→「大女将」というルートを通るのが普通かと思われます。
さて、『《光冠状感染症狂詩曲》』の冒頭で、「うみさん」は「若女将としての修行」を始めています。つまりこの時点では旅館には「女将」と「若女将」しかいなかったものと思われます。しかし上記のパートを見ますと「女将の顔になってきましたね」「大女将……」という会話がありますから、「うみさん」はこの3年間くらいで「女将」に昇格したようですね。それが何を意味するかというと、母は「大女将」となり、一線を退いたことを意味します。わかりやすく言えば、隠居の身となったわけですね。
それだけ「うみさん」が女将として向いていたのもあるでしょうが、やはり一命を取り留めたとは言え、母の容態は万全ではなく、コロナ禍で客足が減ったことも手伝って、良い機会だからと代譲りをしたのかもしれません。余談ですが、わざわざ「大女将」に昇格させるのはいいとして、「おおおかみ」っていう言葉、なんかきな臭い感じが少しありますよね。考えすぎなんでしょうけれど――最近神社とかもありましたから、敏感です。単なる言葉遊びで済めばいいんですが。
今や毎日駆けずり回る 一度は逃げ出した故郷で
狭いようで広いような 最果てに繋がり続ける世界で
かつて何者かになりたかった でも私はただ私だった
ずっとこの道を歩いて征くんだ
第二楽章においてここで初めて「道」という言葉が出てきます。順当に考えて、これは『あの日の決断が奔る道』の道に他ならないでしょう。
さてそうなると、実は「あの日の決断」は「うみさん」にとっての決断であったことが覗えます。ここはこの歌にとって、ひいては第二楽章において最も重要だと考えられますので丁寧に考えて行きましょう。
歌詞の冒頭、「今や毎日駆けずり回る、一度は逃げ出した故郷で」とありますが、一旦、彼女の中で踏ん切りが付いたというか、過去の清算が出来たような描写に思われます。逃げ出したことをきちんと受け止めたというか、後ろめたさが完全になくなったかと言えば嘘になるかもしれませんが、それでも、今の生活に満足している、自分の居場所を見つけたような雰囲気がありますね。これは曲調も相まって、輝かしい表現と取れます。
次の「狭いようで広いような」というのは、浅間温泉であったり、劇団であったり、故郷であったりを指しているのでしょう。別にどこだっていいのです。自分が今いる場所は、狭いようで広いような、最果てに繋がり続ける世界だと歌っています。広義で言えば、世界そのものを歌っていると捉えても支障はなさそうですね。そのくらい大きく捉えた方が、「世界で」が次の行の「かつて」という表現に繋がりやすく、筋が良くなります。
どういうことかと言うと、「何者かになりたかった」時期というのは、別に都会に出てからだけの話に限定されないはずなのですね。確かに『あずさ55号』では「何者かになりたかった私は役者の沼に沈むように溺れていった」という歌詞がありますが、実家の旅館で暮らして、女将は無理だと諦めた時点で、「うみさん」は「女将ではない何者か」になりたかったはずです。だからこそ、故郷を逃げ出して、都会へ行ったのです。しかし、都会に行ってみても「うみさん」は何者かになりたくて役者の沼に沈められます。いつだって何者かになりたくて二の足を踏んでいた「うみさん」ですが、ひょんなことから帰省して、あれよあれよと言う間に「女将」という立場にまで上り詰めます。
最後の「私はただ私だった、ずっとこの道を歩いて征くんだ」という歌詞、最初に聞いた時には「悲しい曲なんだ」と思いました。煌めく世界で何者かになりたかったが、結局は実家の旅館を継ぐ結果になった、という、謂わば「蛙の子は蛙」というか、運命には抗えないという悲観的な表現に見えたのですね。結構な時間そう思っていました。しかし、「ハロパ2024」で、光差す花道に向けて大きく手を伸ばす「うみさん」の演技を見て、これは全く悲観的ではなく、諦念的でも呆然的でもない、確固たる決意を持った自分自身への解釈なのだ、と認識を改めました。
すなわち、「うみさん」はずっと、狭いようで広いような、どこにだって行けそうな世界の中で、何者かになろうと藻掻いていました。でも、何者かになるとか、そういうことじゃなくて、私はずっと私で、私の道を歩いているだけなんだという、希望に満ちあふれた歌なのです。同時にそれは、今までの全ての人生を肯定した上で語られる「私はただ私だった」に他なりません。「これからも私の人生は決められている」ではなく「今までの私が人生を決めるて征く」のですね。つまりこれこそが「あの日の決断」であり「私」なのです。「あの日の決断」は、どれを指しているとかそういうことではなく、ひとつひとつ、全ての選択が自分を形作る要素であり、その全てが今も尚奔り続ける。そのような人間賛歌であり、生を肯定する歌です。
『あの日の決断が奔る道』とは、コンパクトにすれば『私が征く道』だということです。
もちろん、これは「うみさん」に限ったことではなく、「かわみー」であり、リスナーの我々でもあります。「あの日の決断」が「今」に繋がり、「今」が「私」を形成し、奔り続けているのです。こんな人間賛歌があって良いのでしょうか。良いのです。それが『物語』なのです。
実際、過去にサンホラの曲では何度も「選択」について歌われています。類似例はいくつかありますが、わかりやすい部分から考えるに、『Märchen』では結果は変わらないとしても外部の力により復讐を果たしますし、『Nein』はまんま過去を改竄します。『絵馬に願ひを!』もあからさまなほどに清々しく選択を迫ってきますよね。それくらい、サンホラの楽曲は「選択」や「決断」に対して歌われています。実に『赤=責』の文脈とも捉えられます。
しかし、この歌を読み解く上では、『Nein』収録の『最果てのL』が適切と言えるでしょう。この歌の中に「《いずれ消えゆく人間》が必死に生きた《現実》を勝手に《悲劇だと決めつけて改竄》しないでくれ」という一節があります。熱い男である「ノエル」らしい人間賛歌です。『最果てのL』及び『Nein』については機会があれば狂おうと思いますが、いずれにせよわざわざ『あの日の決断が奔る道』にも「最果て」という言葉が歌詞に紛れているので、歌詞が向いている未来は同じなのではないかと思えてならないのですね。過去の決断を全て、善し悪しはあれど受け入れ、「今」を生きるという、凄まじいエネルギーに溢れた感動的な歌詞です。
いずれにせよ、「うみさん」は全ての人生を肯定し、自分の居場所を見つけます。ですが同時にそれは、今の居場所に固執するというゴールでもありません。「私はただ私」なだけなのですね。ここで立ち止まるわけでもなく、ここに甘んじるでもなく、ただそれが「わかった」だけの通過点にすぎません。これは「どこに居たってエンタメは出来ますからね」という大女将の言葉にも強く掛かってきます。
都会じゃなくても、演劇じゃなくても、何者かになれなくても――どこに居たって、自分のやりたいことは出来る。
大女将の「エンタメ」という言葉は単なる「娯楽」という意味ではなく、「輝く」くらいの広義の意味で捉えても良さそうです。自分の娘に対し、厳しいようで優しい呼びかけなのですね。「どこに居たってエンタメは出来る」のです。活動の場が制限されていると感じたり、SNS上でバズらなければならないと思ったり、人気絵師と仲良くなろうと思ったり、Vtuberの皮を被らないと未来がないと思ったり、ある程度の準備金がなければ知名度を稼ぐことも出来ないと思ったり――などという焦燥感は誰にでも、いつの時代からもずっとあるのかもしれませんが、ひたむきに、実直に、自分が本当にしたいと思えることを続けていれば、どこに居たってエンタメは出来るのです。それ故に実力やしっかりとした根回し、準備が求められるのでしょうけれども――それでも、どこに居たって、エンタメは出来るのです。
第一楽章の『物語』から紡がれるテーゼでもあります。
エンタメは出来るのです。
にわかのぽっと出ファンの感想文を多くの方に読んでもらっている自分がまさにそれなんですが、どんな状況であれ、エンタメは出来るし、創作は出来るし、そんな大層なものでなくとも、誰かが見つけてくれる。『物語』にあった「限る有る物」が「永遠」になろうとする機構がまさにこれなのではないかと、思わずにはいられません。
そういう、全てを肯定しながらひたむきに頑張れという、強いエールを感じる、第二楽章の集大成とも言える文脈ですね。
「人様を笑わせたい、泣かせたい、驚かせたい。
真心で寄り添えるならなんでも良いのです。
あなた向いていますよ」
「え、いや、私なんてまだ全然未熟な……」
「ええもちろん!
作法と技術はこれから『徹底的』に叩き込んであげますからね」
「ひえぇー! お手柔らかに……お頼み申します……」
もはやこれは俺に言ってんのか?
と思うくらい、創作家の基本理念に触れるような発言ですね。まずは真心。そこから先に作法や技術がある。逆に言えば、真心さえあればどんなに拙くとも、ある程度は届くというのがエンタメの基本理念なのかもしれませんね。まあ創作理念とかその辺に触れると長くなりますし、いい加減書きすぎなので、この辺で終わりにしておきますか……。
◇
はい、というわけで……第二楽章【雨に濡れども美しく】の超個人的な感想文を書きました。
第二楽章が好きなこと、「うみさん」が好きなこと、地元が舞台なこともあって、ついつい書きすぎてしまいましたが――最後までお付き合いいただいた方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました。引用やらRPやらで言及していただいているのは見させていただいており、古のローランたちによる暖かい、新規ファンを逃すまいとする優しさに日々救われています。ありがとうございます。
歌詞の聴き取りなどは拙い部分があったり、全く違う解釈をしている部分もあるかとは思いますが、パッケージ版の発売まではいい感じに曖昧なこの瞬間を楽しめれば良いなと思っております。
というわけで――38,000字も書いてるの……? 大変な長文になって失礼致しました。次回の第三楽章を書き終われば、一旦「ハロパ2024」及び『ハロウィンと朝の物語』で決壊したダムも修復出来そうなので、お付き合いいただければ幸いです。
それではまた、松本駅お城口でお目にかかりましょう。さようなら。