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どうして昔あった景色は思い出せないのか
懐かしい街や場所を久しぶりに訪ねてみると、以前はそこになったはずの建物がなくなっていることがある。
「たしかにここに〇〇があったよね…?」と思う。けれどなぜか、以前の風景を思い出しづらいことがよくある。
これは私だけの感覚なのか?と、少し不安になって「昔あった建物 思い出せない」でパソコンをたたいてみる。するとどうやら、同じような感覚を抱く人は私だけではないようだ。
けれど、この現象にこれと言った名称はないみたい。
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私の場合、建物が取り壊されて更地になっているときには、以前の風景を思い出せることが多い。けれど、建物が再建ないし改築されて別の建物になってしまうとき、以前の風景を思い出せなくなってしまうことが多い。
これはどういうことなんだろうか?たぶん、脳科学とか心理学の分野では、科学的な説明も可能なんだろう。
けれど私はこう思っている。更地の場合はその土地の記憶が上書きされずに止まったままになる。けれど、再建や改築された場合は、以前の記憶が上書きされてしまう。ということなんじゃないだろうか。
そして、更地になっても別の建物になっても、以前の風景が変わってしまって、しかもその記憶が薄れていってしまうことは、少し寂しく思う。
子供のこと、両親と一緒に材木置き場のような場所で花火を眺めた記憶があるけれど、その場所も今は農業法人が事務所として使用している。私はその農業法人で一年ほどアルバイトをしていたけれど、その時に、思い出の中にあるはずの以前の風景が思い出せなくて、少し悲しい気がしたことを覚えている。
あるいは、通っていた高校の最寄り駅近くにあった商業施設。大学生のころは特に用もなかったから、その駅で降りることはほとんどなかったけれど、社会人になってからのはじめの職場の最寄り駅が、高校の最寄り駅と同じだった。だから、久々その商業施設に行ってみると、別の商業施設が入っていた。そして名前は思い出せるけど、高校時代の風景がどうしても思い出せない。
こんなことを何度か繰り返してきた。これが大人になるということなのかもしれない。けど、やっぱりどこか寂しい。たしかに思い出の中にある大切な記憶のはずなのに、それが薄れていくような心地がする。
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ならどうすればいいのかというと、どうすればいいかはわからない。けれど、今に集中して、今を意識していくことは大切なんじゃないかと思う。この風景はいつなくなるかわからない…って常々思いながら生活することは難しいかもしれないけれど、せめてある風景をみて「きれいだな」とか「こんなことあったな」と思いながら、街に感情をこのしていくことをしていきたい。
もう一つは、時々でも懐かしい記憶をたどってみたり、思い出に浸ったりすることだ。過去を振り返るなんて、という意見もあるかもしれないけれど、私は昔を振り返ることがよくある。記憶とか思い出と呼ばれるものは、今までの私の心に詰め込まれた宝のようなものだと思う。だから時々取り出して眺めていたい。私はそう思う。
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しばらくは故郷にも、思い出のあの場所にも帰ることができないけれど、だからこそ思い出を時々は振り返っていたい。見慣れた景色がなくなってしまっても、たしかにあの景色はあったんだと、心にとどめておくように。