共感なんてない、だから
久しぶりにたくさん日本語で話をすることがあった。
その友人は今まで、あまり話したことのない人だった。でも、とても気が合うと感じたし、共感できた、共感してもらえた、と感じた。
近ごろは、つたない外国語で話すことがほとんどだから、自分の言いたいことがほとんど言えなくて、もどかしい思いが積もっていた。だから、素直に考えを話し合う、ということができてうれしかった。
そんな友人はほかにもいる。数は少ないけれど。思っていることを素直に話すことのできる人がいる。それはしあわせなことだ。
親しい友人でなくても、家族や学校の先生、職場の同僚・上司、行きつけのバーのマスターだって、きっと誰か心を開いて話せる人がいるはずだ。
だけど彼はこう言っていた。「《共感》というものは、そんなものはないんじゃないかと思っている。」って。
その言葉が今も心に残っている。私もたしかにそうだと思う。だけど、この思いも彼とまったく同じということはないんだろう。完全に共感することなんてないから。
あえて言葉に落とすならば、彼は「完全に共感できない、だから人それぞれだ」と考えていた。私は「完全に共感できない、だからすこしでも共感したい」と考えている。
人それぞれの考え方によしあしも正しさもない。ただ私は、「私の考えていることが完全に共感されたことはなかった」と感じている。
だから同じように、相手のことに共感できると思えても、どこかでは必ず、ずれてしまうものだと思う。本当はどうかわからないけど。
共感できると感じたり、共感してもらえたと感じることは私にもある。そしてそれはきっと嘘ではない。
だけど、それが完全に相手の意識と一致したり、自分の意識と一致することなんてありえないんじゃないかと思っている。
もし、相手の考えに完全に共感することができる人がいるとすれば、それはもう、同一人物だ。
誰しも、誰にも共感してもらえない部分があるはずだ。だから表現がある。それは悲しいことのようにも思える。
けれどだからこそ、そんな部分こそが自分らしさというものなのかもしれない。
だとすれば、どんな人も、孤独を抱えていることになる。共感されない自分らしさを抱えている。そんなことを考えている。
だから自分を好きになりたい。好きになれなくても、なろうとしたい。誰にも共感されない自分がいるとすれば、自分自身が受け入れるほかないと思うから。
それはとても難しいことだ。なりたい自分とはほど遠いし、自分の嫌なところなんていくらでも言えてしまう。
そしてそれはきっと、相手も同じだ。自分のもろさや醜さを抱えているはずだ。どんなに奇麗にみせたって。お互いのことを完璧に共感できなくても、それぞれ内側に抱えているという意識は、共有できるのかもしれない。
私たちは自分のことばかりに目を向けてしまうけど、相手に目を向けることができるかどうか。同じように相手も誰にも共感されない自分らしさを抱えているはずだ。
くり返しになるけど、それぞれの自分らしさは完全には共感されることはないのだろう。でもせめて、《完全に共感されない》ということは、共通の了解になりうるはずだ。
自分だけの、相手だけの領域がある。
わからない。自分のことは共感されない。相手のことも共感できない。だからこそ人それぞれだし、だからこそ誰とでも向き合っていたい。
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