分断する世界に対して思うこと
なんだか、世の中が少しずつ不穏な方向へ向かっているような気がしている。とても怖い。
今は海外で暮らしているけど、近ごろは日本が恋しくてネットで日本のニュースばかり調べている。そうすると不安になることが多い。痛ましい事件や悲しい出来事は相変わらず起きているようだ。
人のモラル・道徳心はどこに行ったのだろうか?そう思うこともある。相手を攻撃したり、誇りを傷つけるような行為を平気でやってしまう人たち。そしてそれを支持する人が多くいる。そのことに強く不安を覚えてしまう。
勇気がないからあえて名前は出さないけれど、かれこれ半年ほど続いている日本の某団体の一連の騒動をみると、本当に悲しくて胸が痛くなってしまう。そして怒っている。
世界も日本も、少しずつ人と人の対立や分断が深まっているように思う。そして相手を思いやる気持ちが弱くなっているようにも思う。
これはきっと多くの人が感じていることのはずだ。
こんな思いを抱き始めたのは、たぶん2016年、アメリカ合衆国大統領選挙が行われたころからだ。当時の私はまだ学生で、政治のこともましてやアメリカの情勢にも疎かったし、特に関心があったわけではない。
けれど、報道などをみてアメリカ国内の分断が深刻化していることを知って「この先どうなるのか」、「なんとなく怖いな」という気持ちを抱いたことを今でも覚えている。
8年前に漠然と抱いていた不安。それはどこか遠い場所で起こっていることのようだった。
だけど私だって無関係ではなかった。今になって、いよいよ私のような一般人にも肌で感じられるほど、分断は身近な場所へも染み込んでいたのかもしれない。
世界に目を向けてみても、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナとの紛争が続いている。きっとそれだけじゃない。捉えられるとしても、捉えられないとしても、世界では多くの争いが起きている。それは日常の中にも潜んでいる。
だけれど、どうすべきなのかわからない。ただ、「この世界は…」と嘆いている。
その原因は何だろうか?わからないなりに考えてみる。
人それぞれ、多様性という言葉をよく耳にするようになった。人それぞれというのは、その通りだと思う。それは自分らしく生きるということだから。
多様性を尊重するとは、私は2つの方向があると思う。
1つは、みんな平等に接したり、可能性を与えるという方向。「みんなを同じように捉える」という方向だ。
もう一つは逆の方向。それぞれが持っている個性やや可能性に注目するという方向だ。「一人一人を捉える」とも言えるかもしれない。
どちらが正しいということはないはずだ。たぶんケースバイケースで使い分けていく必要がある。言いたいことは、多様性を尊重するということは、「手放しでできることではない」ということだ。
私は現在、海外で暮らしている。異国の人たちと関わることが多いけれど、彼らの考え方や価値観がいまだによくわからないことも多い。
文化や環境が違う以上、日本人と同じように接することは私にはできない。だからと言って、一人一人に向き合って接していくということもできない。今の私にそんな余裕はない。
だから正面から話し合うことを避けてしまうことあるし、相手に対していらだちを感じてしまうこともある。
きっと同じことなんだろうと思う。多様性が関わりあうなかで生じてしまう歪み。それが分断や争いといった形で顔を出してくるということだ。
そうだとすれば、「私もそれに加担してしまっているのではないか?」と後ろめたい気持ちにもなるし、「私にできることなんてないんじゃないか?」と無力感にさいなまれることもある。そして実際そうなんだろう。
それでも、それなら、自分にできることは、相手に向き合っていくこと。もうそれしかないと感じている。もうそれしかできない。
自分と違うものを理解するというのは勇気と体力がいるもの。
自分ができること、一人一人ができることなんて、ほとんど0に等しいようなものかもしれない。けれど微力でも、微々たるプラスにはなっているはずだ。
相手と向き合うこと。時にはしんどいことや辛いこともあるかもしれない。いつも、いつでもというのは無理かもしれない。れけど、そんな姿勢を持つことは諦めないでいたい。
それが私にとれる世界に対するスタンスだ。