2024年2月2日の日記
最近寝付きが悪く頭が少し痛い。備え付けのエアコンは空気が悪くなって咳が止まらなくなるからなるべくつけないようにしている。寒いせいだ。
暖炉のある家、それか温水循環装置の付いている家に住むのが夢だ。
どうしてこんなに壁の薄い箱に閉じ込められているのだろうか。
私(たち)の共同性は家族の中にしまわれて、家族などなかった人たちにとってはばらばらに引き裂かれているようだ。
11時、遅めに仕事を始める。というか、とりあえず出勤ボタンを押すのみ。歯を磨き洗濯機を回しながらAIが書いたコードと上司からのコメントを眺める。在宅ワークなんてそんなもんだろう。
しかし頭の中は昨日読んだロシア-ウクライナ戦争及びシベリア民族学に関する論考のことでいっぱいだった。
その論考はあまりにも自分に関心が近く、またあまりにも自分の思考法と異なっていたように感じた。一見血の気のない冷徹な分析のようにも見えるけれど、いかに短絡的なイデオロギーや表層的な情報に惑わされないか、考えさせられるものだった。ロシアなんて研究しようと思うと尚更である。
つまり自分の研究計画というものをもっと深く考えるように促されている気がした。
作業を少し進めるがもはやPC画面など見る気にはなれず、ストーブと向き合いながら考えに耽っていた。仕事は知らない。
13時、…14時、流石に空腹を感じ、徒歩で弁当を買いに行く。それから、16時にはミーティングがあるから一応の成果は出しておかなければならない。
考え事が遮断されるのは釈然としないが、仕方ない。一応プログラムの修正をして提出する。全く考えずにできる作業でもないが、半ば素人の私が考えるようなことはAIが既に答えを知っている。
ミーティングを簡単にくぐり抜けて一息つく。一旦思考が中断したせいで頭の中に靄がかかったように感じる。
考えないと。
研究計画、研究計画、テーマ、…。
思えばちょうど一年前に科目履修生として入学するにあたっての研究計画を書いたっけな。一年間のとりあえずの勉強の成果はあってほしいなと思う。
こういう時は自転車に乗ると何かが閃くと相場が決まっている。というかそれが染み付いてしまっている。自転車は思考の乗り物だ。
近所の峠を登る。今日は特に寒い。冷たい風と単調な呼吸と反復運動が思考を練磨していく。
構造主義って何だったっけ?なんで人類学はこれほど自らが政治を語らないんだ?『汚穢と禁忌』は何故出版当初売れなかったんだっけ?『森は考える』でコーンは何を考えていたのか?普遍性と差異とは?どうすればモノグラフを竹村和子のように書けるのだろうか?私の趣味は?どうやって生きていくの?わくわくする?
夜は考え事をしながら走るのに適している。
そして酸素がやや不足してきたところがちょうど思いがけない発想と出会うポイントだ。どこかから降ってくるだろうか。
帰って退勤ボタンを押す。
リモートワークは可能になったのだろうか。私ほどの怠惰な人間ならこの程度である。おそらくこれでももう少しは作業している日には一応成果物を出しているから評価は悪くないものだと思う。
大方の作業はAIがしてくれる。私の姿も同僚の姿も必要ない。
この作業をしているとき、私の身体はどこにあるのだろうか。
ありがたいことにとても楽に仕事をさせてもらっているけれど、これを誇りに思うことはないだろうなと思う。プロダクトの如何ではなく、私が納得できるほどには私は何にも関与していない。
私の身体が。
リモートワークは可能になったのだろうか。
もはやこれまで醸成された価値観に照らし合わせて仕事と呼ぶには凡そ値しない。これほどまで人が人であることを自ら放棄して代わりにプロダクトを志向するようなものに今後どれだけの情熱を注げるのだろうか。
いやこれはメランコリックなものではない。先の大学院の時と違うのは、私はもうこのフィールドには依存していないということだ。私は既に常に人類学の方を向いていけているはずだ。
ついでにエンジニアであることを活かせばいい。自分の思考のためにこの退屈が有用であることを考えてみてもいい。脱身体化された経験として。
そういうことだ。
機械にカニバリズムされた脱身体による虚無のような生産活動に照射されて私は常に私の身体を思い出す。だからこそ衝動に従ってサドルの上で呼吸したがっていたのかもしれない。
身体を忘れない。
身体を忘れないことがいかに政治的な闘争となりうるかは昨今の情勢から明らかだろう。殺される人にとっても、殺す人にとっても、それは身体が失われる経験であると思う。
普遍的であり個別なもの。構造化されるもの。
『キャリバンと魔女』の身体論を思い出す。
物語が身体を通じて理解されることに秘められた力を仮定してみる。
研究計画に必要な要素はこれだな。