好きなことは10年後も好きか?
Twitterを辞めたものの、エゴサーチを怠れないのは多分人間の性。そうしたら過去のnoteをこんなふうに紹介してくれている方を見つけました。
非常に嬉しいですね。
釣りというニッチな趣味の中で、さらにルアーフィッシング、さらにスピニングリールという深すぎる階層の中で蠢いている僕にとって、あまり僕の文章が日の元に晒されることはそう多くありません。(夜の釣りが多いということも置いておいて。)
Twitterを始めたきっかけも、顔も知らないけど、趣味が一緒の人たちと繋がれるかもしれないという好奇心から。ブログも、自分の好きなことを発信したいという気持ちから。ブログの方は全然読まれてなかったけど。
誰かと知り合ったり、関係を持つ上で最も強力なパワーを発揮するものが「好き」という気持ちだと思っていて、抽象的なnoteが趣味も違う、全く顔の知らない誰かに届いたということが改めて嬉しく思います。
さて、機能的な道具や機能的なメディア、機能的な人間関係が蔓延している世の中において、自分も時々その沼にハマりそうになります。
機能的過ぎる生活を続けていると、対人間においても攻撃的になってしまい、その根本は他者理解の欠如です。機能的で心地良いぬるま湯の外界にいる存在を、敵とみなしてしまうのです。その弊害はあまりにも大き過ぎ、Twitterではそれに飲み込まれている人を広く観察することができます。
好きなものが自分の中にあれば、他人の好きも理解できるというのは最強の他者理解ではないでしょうか?
ほとんど誰にも読まれなかったブログも、メディアリテラシーや文章構成という面で今の僕に役立っています。(このnoteはジャストアイデアの産物なのでお見苦しいかもしれないという言い訳をさせてください。)
人間関係もライターもyoutubeも全てにつながっているのは好きという気持ち。
好きなことが移り変わっても、10年後も同じ鮮度で何かを好きであり続ければそれは自分の力になるはず。
少し前まではもっと多くの数字を…!とスケールのことばかり考えていましたが、冷静に考えれば現状でもすごい多くの人に見てもらっているなと。今はことの重大さを噛みしめつつ、またnoteをサボらないよう頑張ろうと思っています。