私たちの種子島移住物語(MAIMAIのひとりごと#001)
暗闇からの始まり
2005年の8月、西之表港に着港した貨物船から紺色のエブリィ(軽自動車の箱バン)が1台、小雨が降る暗闇の港に下船した。
西之表港は高速船やカーフェリー、貨物船が寄港する種子島の海の玄関口。その日は月明かりも無く、荷下ろしをするフォークリフトがせわしく船を出入りしているだけで、島民らしき人影は見当たらない。
エブリィの車内には満載の荷物と、ルーフに専用のロープでしっかり固定されたサーフボードが数枚横たわっている。運転席にはサーファーには似つかわしくない色白で、不安げな表情の男がひとり座っていた。
住まいも職も定まらないまま、ただひたすら波とスローライフを求めて、必要最低限の持ち物とサーフボード、そしてエブリィだけを頼りに港に一人。その男が見た、月明かりも無く人影も少ないあまりにも寂しい港の光景は、彼の心にさらなる不安を呼び起こすのであった。
運転席の男の名はMAIMAI。男の心を映し出すような暗闇の港から物語は始まった。
18年の時が過ぎ、MAIMAIは島で出会った移住サーファーと結ばれ、二人の子どもに恵まれる。そして、彼はデザイン会社を立ち上げ、行政や観光協会や民間団体と地方創生事業を立ち上げるなど、あの寂しげな港で、ひとり不安そうに佇んでいた色白の男からは想像できなかった充実した人生へと変貌を遂げていた。彼に何があったのか、何が彼を変えたのか、18年の出来事を3つの視点で紐解いてみよう。
家族
1つ目の視点は「家族」
結婚という概念は、MAIMAIにとって遠い存在だった。むしろ、彼は一生独身で好きなように生きるのが自分らしいと信じていた。目覚めの一杯はコーヒー、朝食は抜き。その習慣は、大阪時代から変わらなかった。大阪との違いは、コーヒーを片手にPCを立ち上げ、天気図と風向き、潮位表を確認し、その日の最適なサーフポイントと海へ向かうタイミングを確認するのが彼の日課だった。
食事はスーパーで手に入れた値引き弁当や惣菜、あるいはバイト先のまかないで済ませる。混雑とは無縁の海で波に乗り、夕方からは飲食店で働く。そんな日々が数年続いた。
種子島には、全国各地から波を求めてサーファーたちが移り住んでいた。佐賀出身の彼女は、その一人だった。MAIMAIと移住した時期が近かったことも手伝って、彼女はよくMAIMAIに相談事を持ちかけていた。
移住した時期が近いサーファー仲間が集まって家呑みをする機会も多く、独身のMAIMAIの家はその場所にうってつけだった。いつの頃か忘れたが、佐賀からやってきた彼女は、MAIMAIに手作りの食事を差し入れたり、散らかった彼の家を片付けるようになった。彼もそれを受け入れ、二人で過ごす時間が増えていった。
不思議なものだ。結婚など微塵も考えていなかった彼が、家庭を持つことに何故か魅力を感じ始める。自分らしくいられる島暮らしがそうさせたと思うが、この感覚の変化に、彼自身も戸惑いを覚えた。
その後、結婚したふたりは子どもに恵まれ、仕事と子育てに奮闘する日々がはじまった。子どもができてから、彼の意識は大きく変わった。独身から父親になった今、人生の景色がこれほど変わるものだと、彼は衝撃を受ける。大阪にいた頃は、店内で騒ぐ子どもは鬱陶しかったし、人混みの繁華街ですれ違うベビーカーは邪魔だと思った。ところが、子育てをするようになって、風景は一変した。子どもの騒ぎ声は全く気にならないどころか、微笑ましくすら感じるようになり、ベビーカーも気にならなくなる。まことに身勝手なものだが、立場が変われば180度も視点が変わる実体験を通して彼は気付いた。「自分が嫌だと感じていた日常は、実際には自分が映し出していたものであり、自分が変われば、全く違う日常を生きることができたのだろう。視点を変える柔軟さを持たなかった自分に恥ずかしい。」
自分が変われば日常が変わる。彼はこれを切っ掛けに、これまでとは違う景色を歩むことになる。
居場所
2つ目の視点は「居場所」
MAIMAIは種子島での暮らしを経て、「一期一会」の意味を実感している。大阪と比べ、種子島での暮らしは圧倒的に人との出会いが濃密だった。しかし、どうして人口が圧倒的に少ない種子島で、それほどまで濃密な人との出会いがあるのだろうか?
移住当初は、地元住民のサポートを受け、住む家もアルバイトもすぐに見つかった。種子島には、よそ者を受け入れてくれる温かい島民性が息づいており、地域のコミュニティーに自ら積極的に飛び込めば、いろいろと手助けをしてくれる人が多い。鉄砲伝来の史実に基づく、種子島の海岸に漂着した外国商船の乗組員を島民が救助した物語にうなずける。
ここまでは、多くの移住者が経験する島あるあるであるが、MAIMAIはそれ以上に濃密な人間関係を築くことができた。彼のその方法は、これから田舎への移住を検討している人たちにとって、大いに参考になるかもしれない。
彼は移住したその年から、積極的に移住支援に取り組んでいた。地域住民から温かいサポートを受け、家や仕事を見つけた経験から、次に移住する人たちへの手助けをすることは自然な流れだった。その取組を切っ掛けに、大家さん、会社の社長、行政職員、町議会議員など、さまざまな人々と交流を深めることができたのだ。なぜなら、移住支援に非協力的な住民や自治体と出会うことはほとんどなかったからだ。誰もが積極的に話を聞いてくれサポートしてくれる。やがて、彼は行政区の壁を越え、海を越えて島外の移住支援団体や離島に関係した団体職員とも繋がり、それが新たな活動の機会に繋がっていった。やがて、彼の活動は移住支援にとどまらず、観光促進や地域行事に及んでいる。彼は活躍の場が広がるにつれて周りからの評価も高まり、自分の居場所はここだと感じるようになる。大阪では感じることのなかった自分の居場所。自分の居場所を見つけることは、己の自信と幸福度を高め、やる気を引き出す動機付けになる。彼は移住支援の活動を切っ掛けに、社会に自分の居場所を見つけたことで、そこから新たな未来が広がった。
未来
3つ目の視点は「未来」
明るい未来に近いのは都会か離島か?
ある日、MAIMAIは小学校の授業で描いた未来の街を思い出した。絵が得意だった彼は、クラスの誰よりもリアルな未来図を描いていた。高層ビルの間を走る透明なチューブの中を飛ぶように移動する未来の車。街は緑にあふれ、海の中には光り輝く水中都市があった。文明が進むことで明るい未来が訪れると、小学生の彼は確信していた。
多様な文化、便利な暮らし、ビジネスチャンスが溢れる都会。
豊かな自然、支え合う地域コミュニティ、ゆったりとした時間が流れる島。
明るい未来に近いのは都会か離島か?
高い山のない島は、水不足に悩まされた歴史がある。種子島は高い山がないにも関わらず、何故か水不足に悩むことはなかったと聞く。奇妙なことに、山頂から水が湧き出るのだ。平地が多く水が豊富で温暖な気候に恵まれた種子島は農業が盛んであるため、多種多様な農産物が育ち、海に行けば新鮮な魚介類を獲ることが出来る。豊かな食に恵まれた種子島は、昔から移民を多く受け入れ多様性を認める島だった。
人口の減少や高齢化による経済の縮小、労働力の不足といった深刻な課題に直面する種子島。テクノロジーがそれらの課題を解決する時代が訪れたならば、豊かな自然、支え合う地域コミュニティ、ゆったりとした時間が流れ、多様性を受け入れる種子島には、その先に必ず明るい未来があると信じている。MAIMAIファミリーの「私たちの種子島移住物語」は、明るい未来へ向けて始まったばかりだ。
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