性善説と将棋盤
田舎の小さな駅に、ひっそりと将棋盤と駒が置かれている光景を目にしたことはないだろうか。誰もが自由に対局を楽しめるよう、そこには人の善意が詰まっている。駅員さんが見張ることもなく、盗難を心配する様子もない。まるで、人の良心を信じているかのようだ。
一方、都会の駅では監視カメラが張り巡らされ、人々が行き交う喧騒の中にあっても、将棋盤と駒が盗まれないよう、目が光っている。大勢の人がいれば安心と思いきや、盗難のリスクは常につきまとう。たとえ一駒でも紛失すれば、もはや将棋は指せない。誰もがそれを理解しているはずなのに、なぜ盗みに走る人がいるのだろうか。
駅の規模や人の多寡ではない。私たちが問うべきは、一人一人の心のあり方なのだ。他者への思いやりと、公共物を大切にする心。それこそが、誰もが安心して将棋を楽しめる社会の礎となる。
田舎の小さな駅に置かれた将棋盤は、私たちに問いかける。人は本来、善良な存在なのだと。そして、その善意を信じ合うことの尊さを、ひっそりと伝えているのだ。