人は誰しも語りたい。だからこそ「聞く」行為は価値になる。
自分を知ってもらうのに必死になりすぎる
以前、ある若者が人づてで「本を書きたい」と僕のところへ訪ねてきた。その人が書きたいテーマは「コミュニケーション力」についてであり、そう思うに至った経緯を語り始めた。
高校時代から仲間を集めて数々のイベントを企画したこと、学生時代には他校の学生も巻き込んで一大サークルを作って活動し、SNSでの発信力から数々の企業からスポンサーをしたもらったこと。これらの経験から、コミュニケーション力の大切さを学び、それを多くの人に伝えたいという。
確かに若いのに話すのは上手い。流暢に楽しそうに話すが、聞いている時間が苦痛になってきた。この人は、初めて会う僕に対して、何一つ興味を示さず、最初からずっと自分のことを語り続けているのだ。適当に相槌を打っていると、彼は話を延々と続けている。30分以上話したあと「このような内容を本にしたいと思っていますが、お願いできませんか」と言った。
こちらがどんな馬の骨ともわからないのに、よくも一緒に仕事をしようと提案するものだと驚いた。それ以前に、こちらに全く興味を示さない人と一緒に仕事ができるわけがないとも思った。「あなたのおっしゃるコミュニケーション力とは自分のことを伝える力のことで、相手のことを知ろうとする力は含まれないのですか」と言わなくていい一言を言ってしまい、こちらがその企画に興味がないことを伝えた。
語る力だけがコミュニケーション力ではない
彼が特別だとは思わない。一般的に他人を知ろうとするより、自分のことを知ってもらおうとする人の方が圧倒的に多いように思う。相手が興味があるかどうかを確認せずに、自分の話を延々とする人がいる。SNSは基本的に、自分のことを知ってもらおうとする行為だし、飲み会も自分のことを語りたがる人の声が大きい。
もちろん僕もその一人で、だからこうしてブログを書いている。自分のことを語りたくなる欲求は誰しもあるのだろうが、同時に多くの人はそれが強すぎて損をしていると思うことがよくある。
そもそもコミュニケーションとは、発信する力のことではない。人と人がお互いにわかり合うのがコミュニケーションであり、分かり合える力こそコミュニケーション力である。そうであれば、「自分のことを伝える力」はコミュニケーションに必要な力の半分にも満たない。自分のことを知ってもらうことはもちろんのこと、相手のことを知ること。そのための意識とスキルも話す力と同じくらい重要になる。そして両者の間につながりをつくるには、共感がシェアされなければならない。それは「お互いが関西出身であること」「焼肉が好きなこと」「親が厳しかったこと」「高校時代に悶々としていたこと」などなんでもいい。知らなかった二人の間に共有できる共感をつくることがコミュニケーションだ。
その意味で、相手のことを知ろうとする力は、コミュニケーション力の重要な要素である。
人は誰しも語りたい。だからこそ、「聞く」楽しさが価値になる
人は誰しも自分のことを話したい。であれば、「聞く」行為こそ、社会にとって価値となる行為なのである。
聖徳太子も、一度に10人もの人の話を聞き、話した人は皆「今日は聖徳太子さまからいい話をお伺いした」と言って帰ったという話を聞いたことがある。
知り合いの新聞記者はスクープが取れるからくりを次のように語る。「誰しも、自分がしていることについて、知りたいといって丁寧に近寄ってきてくれる人には、話してしまうものだ」と。
僕が仕事でインタビューした際も、気難しいと言われる人でも、こちらが興味を持って聞くと、気持ちよく語ってくれるものである。
人は誰しも語りたい。同時に人は誰しも自分の話を聞いてくれる人に好意を持つ。知らない人と関係を築こうとするなら、自分のことを知ってもらう意識より、相手のことを知ろうとする意識を強めるのがいい。そして聞くスキルも身につける必要がある。
「語る」と「聞く」はバランスが重要である。社会に「語る」の総量が溢れると、聞き手の奪い合いになり、多くの人の語りは聞き手不在の不発弾となる。これでは語りがいもない。「語る」も「聞く」の総量も溢れると、誰もが多いに語り、誰もが聞いてもらえる。そして社会全体の「分かり合い」の総量が増えるのだ。
まだ、今の社会は「語る」の量が多すぎると思う。それを減らすのでなく「聞く」を増やすのだ。「聞く」行為は他人のためだとすると長続きしない。何より「聞く」ことの楽しさを実感することである。どんな話も楽しく聞ける人は、きっと人生そのものが楽しいに違いない。