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アメリカの中絶問題を頑張って理解してみる-差別問題を交えながら

アメリカでは、妊娠中絶問題が度々話題に上がる。それに対して日本ではあまり話題に上がらない。強い反対の声もなく、あるとしてもパートナーの同意の必要性に終始している。

今回はなぜアメリカでこんなにも中絶問題が取り上げられるのかを見ていくとともに生命倫理と差別問題を読み解いていこうと思う。

まずアメリカの中絶問題とは

上記であったように中絶問題は、アメリカの選挙で大きな争点となるくらい世論を二分する問題だ。

統計上だと、中絶に賛成が6割、反対が4割という感じだ。

(出典: https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210709/se1/00m/020/001000d)


割れていると言っても大体は反対派が少数派である。

しかし、この少数派の熱量は凄まじく大きな政治運動にまで発展している。

誰が中絶を反対しているかというと多くは白人のエヴァンジェリカルだ。エヴァンジェリカルというのはキリスト教の原理主義的な人たちのことである。

(出典:同上)


なぜ、エヴァンジェリカルが中絶に反対なのかというのは次の節で後述する。

一方で日本はどうかというと、中絶の賛否の統計を探しても出てこない。強い反対派も少ないようなのであまり話題にも上がらないというのが現状ということだろう。

もちろん、パートナーの同意の有無などの議論はあるが、今回の本論とはあまり関係ないので置いておく。

日本人は中絶に対して、それをするプロセスを問題にすることがあっても、中絶をすること自体に対する問題意識は薄いのではないかと思う。

僕自身も中絶問題がアメリカで熱を持って話題になることに違和感を感じる。なので、次の節ではこの違和感を緩和するためにエヴァンジェリカルの考え方を見ていこうと思う。

キリスト教の隣人愛と中絶問題

キリスト教には隣人愛というものがある。これは結構知っている人も多いと思うが確認しておこう。

隣人愛は、自分と同じように隣人を愛することができれば争うことなく助け合うことができるという考え方である。

この考え方は、現代の日本人にも共感できるところがあると思う。多分、この考え方に頷かない人の方が少ないのではないかと思う。

じゃあ、この考え方をキリスト文明がしっかり行っていたかというと微妙だ。植民地を持って有色人種を奴隷にしたりしていたのは有名なことだろう。

現実には隣人愛と言っても隣人と非隣人という恣意的な差別をおこなってしまう。その理由としては、文明的ではないとか、IQが低いとか、いろいろ挙げられてきた。どれもやっぱり恣意的だ。

まあ、隣人愛に平等性がなかった問題は置いといて中絶問題に戻ろう。

なぜ隣人愛のことを書いたかというと中絶問題と関わりがあるからだ。

キリスト教では受精をしたときに神様が命を吹き込むという考え方がある。その時点で、胎児というのは人間になる。

もし、胎児が人間だとすれば隣人愛を適応しなければならない。そうなると、当然ながら自分と同じように胎児を扱わなければならないということになる。

この理論を受け入れるならば中絶というのは殺人に等しいことになってしまう。その問題について次の節で詳しく見て行こうと思う。

中絶反対派から見た中絶賛成派

実際にアメリカの保守系ラジオパーソナリティであったラッシュ・リンボーは中絶を女性の権利として訴えるフェミニストに対して、フェミニストと妊娠中絶問題をナチスのホロコーストと重ね合わせた造語であるフェミナチという言葉を使って罵った。
(※ラッシュ・リンボーはラジオパーソナリティと言っても平日に3時間ラジオを配信し1000万人が聞いていたというくらい影響力があった人物。)

胎児に対して生存権を認め、隣人愛を持つならば、胎児を殺すのは自分が殺されるのと同じように扱わなければならない。

中絶反対派から中絶賛成派を見たらこういう認識になってもおかしくはないのである。

前述にも言ったが、日本人のほとんどは隣人愛に対して賛同をすると思う。しかし、中絶問題に関して言えば隣人と非隣人を分けて差別を行なっていると言っても過言ではないと思う。

少し違和感を持つ人もいると思うが、生命というのは連続的な活動なので、どこからどこまでを人間として認め中絶を容認するかはかなり恣意的だ。

例えば、人格があるとか、知能的に発達しているとかいろいろな基準があるだろう。

この一文を読めば思い出すかもしれないが、これはキリスト教文明が白人と有色人種を恣意的に隣人と非隣人を分けていた理論とあまり変わらない。

何も僕は、中絶に反対しろとかそういう主張をしたいわけではない。倫理問題や差別問題を考える材料として中絶の問題を取り上げただけである。

現代日本人は植民地を持っていた西欧のことを愚かと容易に切り捨てるかもしれないが、現代日本人だって、ある基準を作り(21週6日を中絶可能の期間としている)人間と非人間を分けているという点では全く近代西欧人を笑えないのである。

人の倫理観は多かれ少なかれ時代というものに大きく依存している。もしかすると中絶という行為が何百年後かには、現代から近代西欧人を見るのと変わらないくらい非倫理的な行為になっているかもしれない。

このことを踏まえると、倫理問題や差別問題は感覚的に安易に決めていいものではなく思慮深く考えないといけない問題だと僕は思う。

尻切れ蜻蛉のような気もするが本論はここで終わりである。ここまで読んでくださった皆様ありがとうございました。

最後に

ここまでタラタラと書いてきたが倫理学においては本当に素人のため、本記事も少しだけ文献を読んで思ったこと、伝えたいことを記したにすぎない。

なので、倫理学に詳しい方がいたらコメントで指摘をしてくれるとありがたい。

本記事を読んで、少しでも中絶問題や生命倫理、倫理の問題に関心を持っていただけたのなら嬉しい限りである。

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