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先生という生き物が嫌いだ。
もう少し具体的に言うと、人に何かを教える人が嫌いだ。特に、自分が誰かの人生をより良いものに変えられると思っている人が。
なぜこんなことを言い出したのかといえば、友人が教員採用試験に受かったらしいという話を耳にしたからだ。そして同時に、彼が以前「生徒に勉強の楽しさ以外のことも教えられるような教師になりたい。」と言っていたことを思い出した。そんな彼に随分と自信過剰で迷惑な奴だなと思っていた。そして今でも思っている。
そういえば少し前にも同じようなこと思った出来事があった。塾講師のアルバイトをしている友人が、生徒について「志望校に受かるようにしてあげたい。きっと合格できれば良い経験になるに違いない。」と言っているのを聞いた時だ。その時も随分と自分の力に自信があるんだなと思うと同時に、きっと彼と長くいればいるほど彼のことが嫌いになるだろうと思ってしまった。
彼らはきっと生徒の人生をより良い方向に進めたいと本気で思っているに違いない。そこには一切の邪悪な感情はないだろう。しかしながら、彼らは生徒の人生に対して、なんら責任を持っていない。教師になる彼も、塾講師の彼も生徒が受験に落ちたとしても職を失うことはないし、給料が減ることもない。なんなら来年以降への経験になるなどと考えるかもしれない。そんなこと許されないのではないだろうか。教師に教えられた勉強以外のことに熱中してしまって受験に落ちて、親との関係が壊れてしまったり、塾講師に教えられた通りに勉強したにもかかわらず、受験に失敗し、その後の人生が大きく狂ってしまったりしたとき、彼らは何か責任を感じ、さらにはなんらかの形でそれを見せなければならないのではないか。
自分以外の人生を変えることは絶対にあってはならない。自分がやりたかったこととを誰かにやらせることはどうやっても悪でしかない。それを正しいことだと主張することなどもってのほかだ。それを忘れてはならない。
勉強を例にとれば、勉強したらこんな良いことがある。だから君もしたほうがいい。ではなくて、勉強したらこんなことがあった。君はどうする。でなければならない。自分にとって良かったことを誰かにとっても良いことだと考えるのは、思い上がり以外の何者でもない。
こんなひどい愚痴を吐いておきながら、私は塾で講師をしている。人に勉強を「教えて」いる。これは自戒でもある。私の仕事は生徒のテストの点数を上げることでしかない。その先で彼らがどんな人生を描こうが、またどんな思いを抱こうが、そんなことには気づいてはならないのだ。気づいても気づかないふりをしなければならないのだ。私はどうやってもその責任を負うことはできないのだから。
今日の一曲
櫻坂46 「無言の宇宙」 2021年
櫻坂46の新シングル『流れ弾』のカップリングナンバー。
この曲に描かれているのは少し冷めた愛情観なのかもしれない。でも言葉にするには少なからず理由や言い訳が必要になる。そしてきっとそれは全部が心からの言葉ではないこともあるだろう。その言葉が愛という史上最大の勘違いを覚ましてしまうのかもしれない。知らなくて良いことは知らないほうがいいことなのかもしれない。そんな気がする。それでいい気がする。