絶対に道に迷わない方法
私は目が悪い。眼鏡かコンタクトレンズがないと世界がぼやけてしまう。1メートル先に立っている人の表情もよく見えない。もう長い事そんな生活をしてきたから慣れてしまった。これまでの22年間のうち、目が良かった時間がある事を疑ってしまうくらいだ。
なぜ急にこんなことを思ったのかといえば、コンタクトレンズの残りが5つを切ったからだ。目が良い人に比べてかなり無駄な出費をしていることを無理矢理に自覚させられる。生きるのには金がいる。噂によると死ぬのもタダじゃないらしい。
中学生になるときに初めて、眼鏡なるものをかけた。授業で黒板が見えなくて苦労するだろうからと母親と一緒に買いに行ったのだったと思う。派手さのかけらもない黒くて細いフレームの眼鏡、その普通のデザインが好きになれなくて全然かけなかったような気がする。なんなら部活の時間は見えないままにやっていたし。
サッカーは目が見えないとかなり不利になるスポーツだ。というか危険になるスポーツだ。遠くのチームメイトの姿は見えないし、ヘディングなんてかなり成功率が下がってしまう原因になる。周りの敵や味方とぶつかってしまう可能性だって高くなる。でもなぜか、その時の方がサッカーは単純だった。高校生になってコンタクトレンズを手に入れた時、周りのことが見えすぎて鬱陶しかった。対峙しているDFの目線、表情、ゴール前でノーマークの味方、ぼんやりとしていたゴールポストもはっきりと見えた。直感に従って感覚で捉えていたものが不確かなものであったことを知ってしまったら、もうその直感を信じることはできなかった。周りからの声かけも信じられなかったのに、自分の感覚の方が何倍も信じられなかった。それからサッカーは何倍も難しくなった。
このことは多分、人生なるものにも同じことが言えるんじゃないだろうか。様々なものが見えることは、必ずしも人を幸福にはしない。選択肢が多いことは決していいことばかりではない。進む道が一つだけなら、道に迷うことはないのに。そんなことを思ってしまうのだ。
きっとこれは贅沢な悩みだ。選べることは選べないことよりも幸せに決まっている。そうかもしれない。それなら、選ばされることと選べないことは、どちらが幸せなことだろう。
これ以上考えているときっと鬱になる。ゲームでもやってコーラでも飲もう。酒じゃやりすぎな気がするし、酒を飲んでいいほど大人じゃないから。
今日の一曲
マカロニえんぴつ 「ヤングアダルト」2019年
「僕らに足りないのはいつだって、才能じゃなくて愛情なんだけどな」なんていつまでも言ってられるような人生がいい。全部誰かのせいにして、全部時のせいにして、そうやって生きることを否定できないからいつまでも大人になれないんだ。