小坂井敏晶 「矛盾と創造」



目次

第一章 創造性という偽問題
第二章 矛盾を解く型 同一性と変化をめぐって
第三章 主体虚構論の舞台裏
第四章 モスコヴィッシの贈り物
第五章 躊躇と覚醒
第六章 社会は制御可能か
終章 残された仕事

概説

本書を貫く真理への欲求、著者の人生を通して得た考え方へのアプローチ方法、そして後半で語られる人間の営みについての考察、どれも著者が人生をかけて臨んだ、学問や社会、実存への真摯な姿勢が感じられる。特に、著者が繰り返し強調するのは「自分で考えること」の重要性である。
得られた情報を自分のものにするには、反復した振り返りと深い考察が必要であり、それは常識を常識として片付けず、自分の問題として格闘する中でのみ得られるものだと説く。そして、実に丁寧かつ揺らぎのない信念を持って結論に導いている。

だが、ここではこれらの主張については多く触れず、「社会構造における格差」というテーマに焦点を当てたい。それは、すなわち「私の人生と他者の人生はどう違うのか?」という問いについての考察である。

外因性が人生に与える影響

著者は本書で、「人間の行為は外因性に大きく左右される」 という点を強調している。人間の思考や行動は、生まれてからの環境や自分では制御できない出来事によって形成されるというのだ。そしてその思考に基づいて行動を起こす、とする。そして、一番最初の出来事(受精における偶然性)、さらに遺伝子から受け継がれた資質についても、それは自身の責任に帰すべきことはできない。つまり全ては外因性によって起こるのだから、個人の責任というものをどこまで追求できるのか、という重要な示唆を与えている。
ここで著者は問いかける。例えば、犯罪を犯した人物に対して、どの程度まで「個人の責任」を追求すべきなのか。翻って、もし我々がその人物と同じ境遇に生まれ、同じような人生を送ったとしたら、自分は同じ行動を取らないという保証は出来るのか?

この問いを前にして、私は言葉を失ってしまった。
今まで、私は自分の人生に対して肯定的な姿勢を持っていた。もちろん、当時の自分ではどうしようもない状況に苦しみぬいた時期、何も手にしていないことに焦って自身を卑下して自己否定を繰り返した時期もあった。だが、少なくとも今日時点では、それらを糧にして幸いにして実りある人生を送ってこれた、過去の出来事もその過程で自分の中で消化して良い経験へと昇華させることができた、と思っていた。
だが、それは本当に自分の頑張りだけによるものだろうか?

「ポリアの壺」と偶然性

この問いに対する答えはみつけられていない。
だが、ここで本書では一つの実験を紹介する。「ポリアの壺」と呼ばれる問題らしい。

世界が根拠なく偶然に生成されても人間は必然と真理を見いだす。思考実験しよう。黒玉と白玉が一つずつ箱に入っている。中を見ないで玉を一つ取り出した後、同じ色の玉を一つ加えて箱に戻す。黒玉を引いたなら箱の中は黒玉二つと白玉一つになる。この作業を繰り返す。最初は玉が二つしかないから黒玉を一つ加えると割合が半分から三分の二へと大きく変化する。ところが千個入った箱に玉を一つ追加しても状況はほとんど変わらない。

第五章 272ページ 

作業を繰り返すうちに、ある一定の値に黒玉の割合が収束する。その数値を書き留めてから再び初期状態に戻して試行を繰り返し、新たな収束値を記録する。試行を無限回繰り返せば、当然ながら黒玉と白玉の割合の平均値は二分の一だ。ところが各回の収束値は〇から一の間で無作為に揺れる。実験の場面を想像しよう。玉の割合が一定の値に収束してゆく。まるで世界秩序が最初から定まっており、真理に向かって箱の世界が進展するかに見える。だが、白玉と黒玉一個の状態に戻してやり直すと今度は先ほどと違う値に落ち着く。定点に収束してシステムが安定するのは同じだ。しかし箱の世界に現れる真理は異なる。

第五章 272ページ

著者は、この実験を通して、「偶然がもたらす結果の不確実性」 を強調している。つまり、全く同じ前提条件からスタートしても、結果は偶然によって変わり得るということになる。それであれば、今の自分が〈自分の能力・努力〉のみによって作り上げられたという自信は、ただの思い込みにすぎないのではないか。

運と成功に関する研究事例

さらに、本書の内容を補強するために、RIETI(独立行政法人経済産業研究所)の小泉秀人による研究を紹介したい。
本研究では、競艇選手のキャリアを調査し、キャリアの初期における「運」がその後のキャリア形成にどの程度影響を与えるかを検証している。
競艇では、選手が使用するエンジンはランダムに割り当てられる仕組みとなっている。このエンジンの性能は、過去のデータから勝率として明示されており、運・不運の影響が分かりやすい。なお、エンジンは完全にランダムに割り当てられるため、選手個々の生涯を通したエンジン性能の期待値は均一になると考えられる。

結果は驚くべきものだった。

まず分析結果をご紹介しますと、平均して4年間の累計で、運が良かったグループとそうでないグループを比較すると、男性レーサーにおいては1位獲得数で約69%、賞金獲得額に関しては48%もの差がつきました。運が良くなかった人たちの中で、実力がなかった人はやめていくことになるので、コントロールグループの平均が上がるというバイアスがかかる中、この結果は実に驚くべき差です。

RIETI

競艇という勝ち負けがはっきりつく勝負の世界において、実力ではなく運の要素がキャリア形成の大きな要因を占めるというのは、これまで私が見てきた世界とは異なるものだった。
本研究と小坂井の主張する結論は、概ね一致する。つまり、成功にはその人の努力だけではなく、運も大きく関与している。したがって、社会における不成功者に対する処遇は自己責任に完結してはならない。
故に、社会はメリトクラシー(能力主義)で判断するのではなく、弱者に対してより多くの救いの手を差し伸べなければならない。

他者への視点

この感覚は、私も以前から持っていた。
つまり、「自分はたまたま恵まれて健康で、仕事も持ち、家族も養えてる。しかし、そうできなかった人々との本質的な差はどこにもない。私が運が良かった、他の人はそうではなかった、それだけだ。あそこに寝ているホームレスの人は、もしかしたら自分自身かもしれない。」
また、社会的に成功した人物が自身の成功要因について問われた時、多くの人が「自分は運が良かったから。」と答えているのをみて、それはおそらく当人の謙虚さの表れであり、運を掴むために本人の日頃の研鑽があったから、なのかと捉えていたのだが、もしかすると本当に『運が良かった』だけなのかもしれない。

本書を読んで、その思いはますます強くなった。やっと腹落ちすることができた。
そして、全ての他者を思う気持ちは、決して同情や偽善のような薄っぺらいものから出るべきものではないと信じている。他者の人生を完璧に想像して理解することが不可能であるからこそ、「あれは自分だ」という自分ごととして捉えることが、他者を思うための唯一の方法ではないだろうか。

第二章で民族を、第五章で差別を検討した。どうしても解けない問題は世にたくさんある。美男美女もいれば、そうでない人もいる。才能に恵まれた者と、そうでない者。裕福な家庭で育つ者と貧困に生まれる者。平和な社会・時代に育つ者と戦乱のさなかに生まれ落ちる者。性差別や人種差別が脅威を振るう世界で女性・性同一障害者・少数民族として生を受ける。なぜ障害を持って生まれてきたのか、なぜ、こんなに若く死ななければならないのか。どうして世界は不公平なのか、残酷なのか。

終章 368ページ

結論

本書は、格差や不平等の問題に取り組むにあたり、社会のヒエラルキーそのものを問い直す必要があると主張する。
ヒエラルキーをなくすことは不可能だが、その構造の中で生まれてしまう弱者に対してより多くの救いの手を差し伸べることで、社会をより良くする可能性はあるだろう。
著者の提示する「矛盾を妥協せず、根本にある問題と向き合う姿勢」こそ、読者が自身の人生や社会を考えるきっかけとなる。

参考

最後に、本内容に関連する本書からの引用をいくつか紹介したい。本書の内容は多岐にわたっており、本書を通して作者の人生をなぞる試みは、皆さんの人生も豊かにすると確信しています。

本書の主張は次の三点に要約できる。  ①矛盾を妥協的に解消せず、背後に隠れる根本的な問題と対峙しなければならない。その際、思考の型が役立つ。分野を横断して共通する型を学ぼう。  ②対象を見る側が変わらなければ、問いも答えも視野に入らない。それは頭だけでできる作業でなく、心と身体を懸ける闘いである。  ③創造、創造と巷がやかましい。どうしたら独創的な仕事ができるかという問いは出発点からしてすでに的外れだ。斬新な研究テーマやアプローチを求める者は他人と比べている。そこがそもそも独創的でない。科学者にとっても思想家にとっても芸術家にとっても本当に大切なのは自分自身と向き合うことであり、その困難を自覚することだ。創造性の呪縛から解放されよう。

はじめに 2ページ

世の識者は格差を程度の問題として理解し、どのような格差なら正しいのか、健全なのかと問う。だが、この方向に解決はない。格差は程度や内容の問題でないからだ。経済問題でさえないからだ。ヒエラルキーという容れ物あるいは形式をめぐる現象である。ヒエラルキーのない社会はありえないし、どのようなヒエラルキーであっても不満は消えない。格差は多数派と少数派の対立プロセスの表現であり、同一化と差異化という互いに矛盾する二つの相が絡み合って生成する運動である。

第三章 146ページ

私がぶつかった問題には先達がすでに答えを出していた。私が無知だっただけで、私の問いの答えを人間はすでに知っていた。だが、それでよいではないか。プラトンが、仏教がすでに答えていたと、人生を終える時に気づいたってよい。それで自分の問いに答えが見つかるならば、本望だ。

第四章 193ページ

処罰も分配も問題の根は同じだ。不都合の原因を誰かに押しつけて収拾を図るための虚構、これが主体であり、その正体はイデオロギーである。自由に選んだ行為だから責任を負うのでない。処罰する必要があるから人間は自由だと社会が宣言し、責任を誰かに押し付ける。同様に、能力が違うから格差が生まれるのでない。格差を正当化するために能力の差という虚構を持ち出す。意志と能力は責任や格差の原因でなく、処罰を可能にし、格差を受け入れさせるための政治装置だ。

第五章 253ページ

自由も責任も因果律では捉えられないと認める点において彼らも私もかわらない。ところが、意識が生ずる以前に身体運動の発動指令を脳が送る事実に誰もが同意しながら、自由意志の有無については正反対の結論が導かれる。何故だろう。根本的な何かが違う。共通認識から出発しながらも彼らは自由と責任の可能性を主張する。この到達点の不思議を真正面から見据えた時、規範論と近代の共犯性が浮かび上がった。彼我の隔たりの原因が近代の解釈にあったとは、それまで気づいていなかった。

第六章 280ページ

『責任という虚構』も本書も骨子は共通する。内因は存在しない。人間は外因の沈殿物であり、主体は虚構だ。したがって処罰も格差も正当化できない。これが核をなす主張である。

第五章 259ぺージ

演説を一〇分の一に縮めても趣旨は通じる。だが、それでは人の心は動かない。宗教の改宗や悟りと同じだ。

第五章 256ページ

弟の人生は何だったのか。弟がはずれクジを引いたような気がして罪悪感が消えない。二〇年ぐらい前だったか、「兄ちゃんはフランスの大学に勤め、東大や京大でも授業をして、それを親は誇りに思っている。それが兄ちゃんの役割。僕は親の近くで面倒を見る。それでいいんだ」と言っていた。そんな役割分担なんて、ずるいじゃないか。

終章 329ページ

これまで社会科学のアプローチで世界を描いてきた。科学である以上、自然科学と同様に社会科学も規則性や法則にしか注目しない。規則性からはずれる現象はノイズとして切り捨てられる。ところが人生の本質はこのノイズにこそある。予想を裏切るからこそドラマが生まれる。人間の生は法則に捉えられた瞬間、意味を失う。つまり人間の姿を科学は解明できない。

終章 330ページ

脳科学がどんなに進歩しても、観察できるのは脳の生理状態だけだ。悲しみや喜びは表情や文脈から判断するのであり、心そのものは覗けない。絶対に観察不可能な要素に依存する限り、心理学は科学として発達しえない。

終章 332ページ

一人称は近代個人主義が捏造する仮象であり、客観的法則を通して理解する科学の目に映るのは三人称の世界である。人間の本質的な姿はそこにも現れない。二人称の関係だけが人の絆を築き上げる。科学の射程に捉えられない二人称の世界とは何なのか

終章 340ページ

恋人・親子・兄弟姉妹・友人の喪失は他の人で埋められない。これが二人称の関係である。自分の子どもは不出来でも取り替えできない。死んだら、また産めばいいと割り切れないのは何故か。

終章 342ページ

他人が相手なら、「めんどうくさいから少し話を急がせよう」とか「引証はこの程度で結論に進むか」というようなこともあるかも知れない。でも、 自分が相手 なのである。 自分相手に説明の手を抜くということはありえない。 自分が納得しなければ話が終わらない のだから。

おわりに 372ページ


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